Pixiv掲載「二番目に怖いもの」の続き。 一番目に好きなひと メーターの振りきれた兄は、ひどく静かに怒りを爆発させる。怒っているのだということをこちらにアピールしている、わけではないのだろう。ただ怒りが大きすぎて何を言えばいいのか分からない、どんな顔をすればいいのか分からない。だから無表情になり、無言になる。もともと顔の造作が整っているため、そうなるとかなりのプレッシャーを相手に与えることになるのだ、ということをもしかしたら彼自身は気がついていないのかもしれない。 いつもの雪男ならば、現状においていろいろと気がつくこともあるだろう。主にきょとんとしている塾生や講師へのフォローについて、だ。けれど残念ながら、今の彼は兄の怒り具合を探ることだけで頭がいっぱいになってしまっている。先を行く兄を懸命に追いかけていれば、突然燐がぴたり、と足を止めた。 驚いて雪男もまた数歩後ろで立ち止まれば、振り返った彼がつかつかと歩み寄ってくる。にいさん、と呼びかける前にがしり、と手首を掴まれた。そのまま手を引いて歩き始めた彼に、雪男も慌てて足を動かす。 逃げないよ、と一応言ってみるも握る力が強くなっただけ。 そのまま寮まで引きずられるように戻り、部屋へ行くのかと思えば放り込まれたのは浴室だった。手前の洗面台で手洗いとうがいを促され(僕は幼稚園児か、と突っ込みたかったけれど何を言っても睨まれるだけだということは経験上理解していた)、素直に手を洗っている間に湯船に湯を張る準備をしてくれたらしい。とにかくゆっくり温まれ、という指示だけ残して燐は去っていった。 従わない、という選択肢は雪男に残されていない。 「着替え、置いとくぞ。上がったら食堂に来い」 これもまた一方的な命令を摺りガラス越しに飛ばした燐は、恐らくそのまま厨房に向かったのだろう。睡眠不足と疲労で参っていただけで、他は健康体だ。夕飯が病人食のようなものだったら嫌だなぁ、と自分勝手にも贅沢なことを思いながら言われたとおり食堂まで足を運んだ。ぺったりぺったり、スリッパの音が廊下に響いているのが嫌に耳につく。もしかしたらわざと足音を立てて歩いているのかもしれない。子供っぽいことをしているな、と他人事のように思った。 昔から、それこそ幼い子どもの頃から、あんな風に怒る兄が怖くて仕方がなかった。それは暴力に怯えるという怖さではなく、嫌われてしまうのではないか、見捨てられてしまうのではないかということを恐れているのだと思う。 情けない、そう思いつつも変わらない関係を、自分はたぶん喜んでもいるのだろう。そうして燐が怒ってくれるのは自分だけなのだ、弟だけの特権なのだと。兄に心配され、甘やかされるこの空間が苦しいようで居心地がいい。まだこれを味わうことができるのだということが、単純に嬉しかった。 机の上、ほこほこと湯気を立てていたものは、シャケや白菜といった具のたっぷり入ったボリュームのある雑炊であった。やはり胃に優しいものを用意してくれたらしい。副菜に並ぶは昨日までの残り物と、今一緒に作ってくれたのだろう、雪男の好きな出汁巻卵。優しく温かな香りの満ちる空間に思わず頬が綻んだ。 「そこ座れ」 寮に戻ってからここに至るまで、雪男はほとんど何もしていないに等しい。強いていえば風呂で身体を洗ったくらいだ。今も箸と蓮華を用意し雑炊を装い、お茶を入れてくれているのは燐である。いつもならば手伝え、と言われそうなものだったけれど、指の一本も動かさせてはもらえなかった。 いただきます、と両手を合わせた雪男を見やって、ようやく彼はエプロンを外す。 「食い終わったら食器は流しに置いとくだけでいいからな。さっさと歯ぁ磨いて、部屋戻って寝ろ」 相変わらず表情は硬く、言葉も平坦でぶっきら棒だ。彼の怒りの深さを今さらながらに痛感する。うん、と大人しく返事をしたことを確認し、俺も風呂行ってくる、と燐は食堂から出て行こうとした。その手前でふと立ち止まり、彼はこちらに視線を向けぬまま言うのだ、「お前に何かあったら、俺は生きていけないんだからな」と。 静かに告げられたその言葉は、兄の本心、だ。 もともと睡眠時間は短くても大丈夫なほうで、この時間からベッドに潜り込んでも眠れるとは思えなかった。けれど疲れた身体は休息を欲していたらしく、横になっているうちにうとうとしていたようだ。 かたん、と小さな音にふと意識が浮上する。頭を室内へ向ければ、ぼんやりとした視界のなかで燐が机を離れベッドに向かっているところだった。枕元の電話を手に取り時間を確認。ベッドに入ってから二時間ほど経っている。つまり二時間、兄は机に向かってくれていたということだろうか。 雪男が目を覚ましたことに気がついたらしく、足を止めた燐がこちらに近寄ってきた。慌ててスマフォから手を放して横になる。寝ろ、と叱られるかと思ったが、彼はただ伸ばした手でそっと雪男の頭を撫でてくれた。バカゆき、と小さな声で燐が言う。 メガネを外していてもちゃんと見える距離にまで顔を寄せてくれている。しっかりと、澄んだ青い瞳を見つめ、雪男は口を開いた。 「兄さん、ごめんね」 促されての言葉ではない。 とりあえずと誤魔化すための謝罪でもない。 心の底から申し訳なく思ったが故に零れたものだ、と。 青い目を細めた燐はきっと理解してくれているのだろう。 悪いと思ってんならしっかり休め、と優しく紡がれた言葉に、雪男はうん、と頷いた。 ブラウザバックでお戻りください。 2015.02.03
頂いたリクからずれました!(開き直り) ……すみません、精進します。 |