Pixiv掲載「初恋」の続き。 初恋。 雪ちゃん、と呼びかけられる声に足を止めて振り返る。祓魔塾内であるため呼び方を少し考えてもらいたかったが、今は授業中というわけではない。細かく言う必要もないだろう。「どうかしましたか、しえみさん」と少女の顔を見下ろして笑みを浮かべる。 「うん、あの、謝っておきたくて。ごめんね、変なこと聞いちゃって」 一体何のことを指して彼女は言っているのだろう。首を傾げた雪男へ、「燐がね、」としえみは半ば予想通りの名前を続けた。 それはつい先日のこと。寮の部屋で兄と交わした会話の内容。そのこと自体は鮮明に記憶していたが、少女の謝罪と結びつかなかった。彼女曰く、聞きたいと興味を示したのは自分だから燐を怒らないであげて欲しい、ということらしい。 「怒ったつもりはなかったんですけど……」 苦笑を浮かべてそう言えば、そうなの? としえみは首を傾げた。あの夜機嫌があまり良くなかったことは事実で、燐が怒られたように感じたのも仕方がないかもしれない。しかし自分たち兄弟の間であればあれくらいはいつもの会話の範囲内であろう。 「でもごめんね、ほんと。志摩くんたちとお話ししてて。じゃあ雪ちゃんはどうなんだろうねって、なっちゃって……」 称号を得て祓魔師として活動し、塾生を指導する講師まで行っているけれども、雪男もまた自分たちと同じ年頃なのだ。そんな彼の初恋の相手がどんなひとなのか、と興味が沸いてしまったらしい。それが燐に託され、雪男の耳に届いた。 しゅん、と表情を曇らせて俯いている少女を見下ろし、「恥ずかしながら、」と雪男は口を開く。 「子供のころは身体が弱くて人見知りでしたし、小学校に上がってすぐに祓魔の訓練を始めたのでそういう経験はないんですよ、実は」 己がしなければならないこと、成し遂げたい目標に向かって歩む雪男には、誰かを想って胸をときめかせたりするような暇がなかった。おそらく今も現在進行形で、余裕はないままだろう。 雪男の答えを耳にし、そっか、そうだよね、としえみは少しだけ寂しそうな顔をした。どんな感情が込められた表情なのか、いまいち読みとれない。「でも、それなら、」と彼女は言う。 「雪ちゃんの初恋ってこれからなんだね」 続けられた言葉は予想外のもので、なるほど、確かに彼女の言う通りなのかもしれない、とそう思った。初恋は何歳までに経験したものだ、と明確に決められているわけでもない。これから誰ぞに抱く恋心が、雪男にとっての初恋となるということだ。 そうかもしれませんね、と笑って答えた後、ああそういえば、と雪男は言葉を続けた。 「しえみさんは、兄さんの初恋について何か聞いてますか?」 あんなにも悲しそうな顔をして語る恋。相手が誰であるのか、いつからその想いを抱いているのか。どうして叶うことがないと諦めてしまっているのか。 聞きたくても聞けなかったことを他者に尋ねるのは卑怯かもしれない。けれど、自分から兄に切り出す勇気もないのだ。 それが教えてくれないの、としえみもまた少し切なそうな顔をして頬に手を添えた。 「そのひとのことがとっても好きなんだなってことは分かるの。だって、燐、すごい悲しそうな顔してた。今でも好きだけどどうしようもないんだ、って」 ねぇ雪ちゃん、と少女は苦しんでいる友人を想い、その双子の弟へ救いを求める。 「雪ちゃんが忙しいのは分かってるんだけど、もし時間があったら、燐のお話、聞いてあげられないかな。私たちには話せなくても、雪ちゃんになら話せることもあるかもしれないし、誰かに聞いてもらうってやっぱりすごく楽になるから」 わざわざしえみにまで尋ねるだなんて、よほど自分は燐の初恋のことが気になっているらしい。 あの会話をした日からずっと、心のどこかに引っかかっている。 いつから好きだった相手なのだろう。雪男の知っている相手だろうか。 燐の口振りから最近知り合ったひとではなさそうだ。少なくとも高校にあがってからのことではない。では中学時代。同じ部屋で寝起きはしていたけれど、雪男は祓魔の訓練が忙しくて部屋にあまりおらず、燐は燐で外を出歩く時間が長かった。顔を合わせる機会が少なかった時期。 兄はもともと交友関係の広いタイプではない。彼の優しさはひとにあまり理解されず、ひとりでいることが多かったからだ。雪男が思い出す限りでは、特に親しくしていた相手はいなかった。それは小学校にまでさかのぼっても同じくいえること。 学校をさぼって出歩いているときにでも出会ったひとだろうか。それならば雪男が知らなくても仕方がないが、もし燐にとって大きな意味を持つ出会いであったとしたら、絶対に何らかの変化があったはずだ。たとえば大きく浮かれるだとか、自慢げに雪男に話をしてくるだとか。思い返してみているが、燐がそんな雰囲気であった記憶は一つもなかった。その気持ちすら、雪男に隠していたということなのだろうか。 もやもやとした気持ちが収まらない。 兄のことで、知らない何かがあることが気に入らないのかもしれない。雪男が知らない交友関係を広げていることを、寂しく思っているのかもしれない。ひどく幼稚な、恥ずべき気持ちだ。 そんな自己分析を繰り広げることを止められない自分自身に呆れるしかない。 「雪男、この間からちょっとおかしいぞ? なんかあったか?」 気遣わしげに放たれる言葉にさえ苛立ちを覚えてしまう。彼の放った一言のせいでこんなにも考え込んでしまっているというのに、他人事のような顔をしているのが気に入らない。もちろんそれはどう考えても八つ当たりでしかなく、燐に落ち度は一切ないことも分かっているのだ。 「何もないよ」 気のせいじゃないの、と答える声がいつもより尖っている。どうしてうまくごまかすこともできないのだろう。兄は基本的にあまり鋭いほうではない。雪男が口にする嘘にあっさり騙されてくれるひとなのだ。言いようによってはいくらでも話を終わらせることができただろうに。 「何もなく見えねぇから言ってんだろ」 「……たとえ何かあったとしても、ほっといて欲しいからそう言ってるって察してよ」 突き放した言い方にたじろぐ燐ではあったが、鼻の頭に皺を寄せて「ほっとけるかよばか」と吐き捨てる。 「お前、何も言わねぇから心配なんだよ。俺は言われないと分かってやれないバカだし……」 ときどき燐が口にする自己卑下の言葉が嫌いだ。確かに兄は馬鹿だとは思うけれど、ひとに貶しめられるような人物ではない。彼の良さを一番理解できていないのは、燐本人なのではないだろうか、といつも思う。 「何も言わないのは兄さんのほうじゃない」 そして、『言われなければ分からないバカ』とはむしろ雪男のこと。 どういう意味だ、と首を傾げる燐から視線をそらせる。細く息を吐き出し、唇を噛んだ。目を伏せ、床を見やりながら「兄さんに、」と雪男は言葉を続ける。 「そんなに好きなひとがいるとか、僕、知らなかったし」 「好きなひと、って……」 「この間。しただろ、初恋の話。初恋じゃなくても叶わないって」 彼はいつもよりもぐっと大人びた顔で、諦めているはずなのに、捨て切れていない恋のことを語っていた。友人である少女も心配するくらいに、切なく、儚い笑みを浮かべて、だ。 そんな顔をするということも知らなかったし、そんな相手に出会っていたということも知らなかった。諦めざるを得ないのだと苦しんでいることも知らなかったのだ。 ほんの数分のやりとりであったはずなのに、見えていた兄の姿が急におぼろげになってしまった、そんな感覚さえあった。 そのことが怖くて、寂しくて。 だから燐の初恋の相手が気になって仕方がなかった、のだろうか。 そう考えていたところで、でもだってそれは、と言う燐の声が耳に届く。だって、と何か言いたそうではあるけれど、言うべき言葉が見つからないようだ。困ったようにもごもごと唇を動かしている兄を見やり、雪男はふぅ、と意識して息を吐き出した。 軽く首を横に振り、脳と心を覆っているもやもやとした何かを追い払おうと試みる。 「ごめん、兄さん。今僕が言ったこと、忘れて」 ちょっと気になったってだけだから、と顔を上げ、燐の視線を受け止めて笑みを浮かべる。いつもの表情というより、まだ養父が生きていた頃の、燐に対する自分の態度を懸命に思い起こした。 「僕にだって、兄さんに言ってないこと、言えないことたくさんあるのに、兄さんだけ責めるのはおかしいよね」 兄を心配する優しい弟。今はふたりきりである分、そして燐の立ち位置が変わってしまった分どうしても厳しさばかりが表に出てしまうが、あのころの雪男だって決して偽りのものではなかったのだ。兄を心配しているのも、優しくしたいと思うのもすべて本心に違いない。 でもね、と雪男は燐を見つめたまま言葉を続ける。 「相手が誰であっても、僕の知らないひとであっても、兄さんの恋がうまくいけばいいなって思うよ。しえみさんも兄さんがすごくつらそうだったって心配してた。僕も同じだよ。誰かを好きになるのはいいことだと思うけど、あんなふうに、悲しそうに笑う兄さんを僕は見たくない」 自分で言葉にしていて気がついた。たぶん、一番引っかかっていたのはその部分なのだ。どうして燐が諦めなければならないのかが分からない。悪魔だということが理由ではないと言ってはいたけれど、それならばどうして最初から自分には手に入らないものだ、と決めつけているのだろうか。 それは燐の恋で、彼の気持ちだ。雪男が口を出すことではないし、できることなどないに等しい。うまくいって欲しいと願うこと、燐が望むのなら話を聞いてやること、それくらいだろう。けれど、それくらいならば雪男にだっていつでもできるのだ。 雪男、と小さく呟く兄の声が耳に届いた。 「……ごめん、僕、すごい変なこと言ってるね。いろいろ忘れてくれると嬉しい」 口にしたものは本音ではあるけれど、普段の自分からはあまり結びつかない言葉ばかりだろう。燐が妙な表情をするのも仕方がない。 もやもやと蟠っていた気持ちを吐き出して、少しすっきりしたような気がする。やはりひとに話をする、ということは大事なことなのだな、と思った。しえみが言っていたとおりだ。そのことに燐も早く気がつけばいいけれど。話をして、彼の抱く苦しさが少しでも軽くなればいい。できればその話し相手として自分を選んでくれたら嬉しい。 とどのつまり、兄離れができていないだけなのだ。 そう思いひっそりと苦笑を浮かべていたところで、「雪男」と再び自分を呼ぶ兄の声に気がついた。少し固いその声音。 視線を燐に戻せば、きゅ、と唇を引き結んだ兄がそこにいる。握りしめられた拳、力の入った肩、腕。何かを決意したかのような表情。 「兄さん?」 一体どうしたのだろう。やはり自分が口にした言葉がおかしかったのだろうか。兄を怒らせるような何かを言ってしまっていたのかもしれない。 謝罪か、言い訳か。何を言うべきかも分からないまま、とにかく口を開き、言葉を探していた弟を、燐はまっすぐとその青い瞳で捕らえていた。 「あ、あのさ、俺の、好きなやつ。初恋の相手、ってのはさ……」 *** *** 気がついたときにはどうしてだか、雪男をそういう意味で好きだった。何でだよ、何であいつなんだよ、何でよりにもよって双子の弟なんだよ、と自分で自分につっこみを入れてみたけれど、やっぱり雪男が好きだった。 こんな燐にも優しくしてくれるからだろうか。いや、養父も、修道院にいた修道士たちも、優しくしてくれていた記憶はある。もっと声を聞きたい、顔が見たい、触れてみたい、触れられたい、そう思うのは雪男にだけ。ほかの誰にそんな気持ちを抱くより先に雪男のことを好きだと気がついて、未だにその感情をよそに向けることができないでいる。初恋、だった。 弟曰く、初恋は実らないのだそうだ。 燐のこの気持ちは、初恋でなくても実らない、叶わない。そんなことは分かっている。男同士で実の兄弟だ。一生口にすることはないだろう、口にしてはいけないと、そう思っていた。 そのはずだったのに。 「……雪男が、あんな、優しそうな顔、すんのが悪ぃんだ……」 兄さんの恋が上手くいけばいいなって思うよ、と語る双子の弟。 心の底から燐を案じているのだと分かる、穏やかな表情。 好きだなぁ、と思った。 やっぱり雪男のことが好きなんだなぁ、と改めて痛感した。 気持ちを受け入れてもらいたかったわけではないのだ。どう想像しても、妄想しても、やはり自分と雪男が恋人になる未来は見えてこない。あり得ないことなのだ、と分かっているし、そうでなければ困るだろうとも思う。 ただ、知っていてもらいたかった。 燐の初恋の相手が誰であるのか。 誰を想ってこんなにも胸を痛めているのか。 燐がどれだけ雪男のことを好きなのか。 告げることで弟を苦しめるかもしれない、気持ち悪いと拒否されてしまうかもしれない。そんな悪い予感に怯える心を解いたのは雪男の言葉だ。悲しそうに笑う兄さんを僕は見たくない、とまっすぐに燐を見つめて紡がれた言葉に促されるよう、気がついたら口を開いていた。 『俺の初恋の相手は、お前だよ』 『雪男が好きなんだ』 言葉の意味が理解できなかったのだろう。きょとんとしていた雪男は、ゆっくりと首を傾げて「僕?」と呟いた。兄さん、僕のことが好きなの? と。 雪男の顔をまっすぐに見ることができなくて、俯いて頷く。嘘でしょ、と呆然とした声が耳に届いた。泣きたくなった。 「嘘じゃ、ねぇんだ。ごめん……」 弟が困っているのがとてもよく分かる。それもそうだ、双子の兄に突然そういう意味で好きだ、と言われて、困らないものはいないだろう。 やっぱり言うんじゃなかった、言ってはいけなかった。誰にも話さず、ひっそりと気持ちを抱えたまま死ねば良かったのだ。 ごめん、と震える声でもう一度謝罪を口にすれば、「謝らないで」と強く言われてしまった。でもだって、謝る以外に何を口にすればいいのか分からない。 俯いたまま唇を噛んでいれば、「兄さん」と雪男が燐を呼ぶ。まだどこか動揺が残っているけれど、普段の響きに近い音。 「兄さんは、好きなひとに好きって言っただけで、悪いことは何一つしてないんだよ? だから謝らないで」 僕も考えるから、と雪男は言葉を続ける。 「兄さんの気持ち、全部じゃないかもしれないけどちゃんと聞いたから。だから僕も考える。それで、ちゃんと返事、するから」 雪男は優しい。優しくて、とてもまじめだ。燐の気持ちがどれだけのものなのか、感じ取ったからこそ、すぐに断りを入れずに考える、と言ってくれたのだろう。少し時間をちょうだいね、と言われ、燐はただ黙って頷いた。 考えて、ちゃんと返事をする、と言ってくれた。それだけでも十二分に救われる。どうしようもできなかった恋心が報われはしないけれど、救われはしたのだ。そう思った。 ** ** 兄さんの初恋の話を聞いた時ね、と雪男は静かに言う。 「いらいらして、しょうがなかった。僕の知らない間に、兄さんに好きなひとができてたっていうのがむかつた。何で話してくれなかったんだろうって。せめて話くらい聞いてあげられたら良かったのにって。なんで兄さんの好きな相手は、兄さんにこんな顔させてるんだろうって、つらい思いをさせてるんだろう、って腹が立ってしょうがなかったよ」 そうして雪男は思ったのだそうだ。 自分ならばこんな顔をさせたりはしないのに、と。 「自分を好きなひとにとか、自分が好きなひとにじゃなくてね。兄さんに、そんなつらそうな顔をさせたりはしないのに、ってそう思ったんだ」 それってどういう意味だと思う? と尋ねられても聞きたいのはこちらのほうだ。 雪男の言い方ではまるで、そういう意味に、燐の都合のいいような意味に聞こえてしまうのだけれど、まさかそんなはずはない、早く否定してくれなければ、本当の意味を、意図を伝えてもらわなければ、あり得ない期待に尻尾が落ち着かなくなってきてしまう。 ぱさぱさと黒い尾で床を擦りながら、えと、その、それって、と俯いてもごもごと唇を動かす兄を見おろし、柔らかく笑んだ弟がゆっくりと口を開いた。 ブラウザバックでお戻りください。 2015.02.01
初(めて叶った)恋。 |