under「反転した現実」の続き。


   悪い虫


「やあ。また会えて嬉しいよ、かわい子ちゃん」

 ぽん、と肩を叩かれ振り返った先にあった顔。にっこりとさわやかな笑みを浮かべた彼は、客観的に見ても美形という部類に入るだろう。眉を顰めてため息をついたエイトは、「俺は別に会いたくなかったよ、色男さん」と返して前にむき直す。手に取ったグラスをくるりと回せば、残っている氷がからん、と音を立てた。

「色男っていうのは俺のことかな。光栄だね」

 会いたくなかったというパートは無視して、褒め言葉だけを拾い上げる。随分と都合のいい耳をお持ちのようだ。男は隣いいかな、と尋ねながらも、エイトが答えを返す前にちゃっかり腰掛けていた。(しかもわずかにスツールを寄せて座りやがった、だから近いっつーの。)
 このカジノは基本的に富裕層が娯楽を求めてやってくる場であるため、併設されているバーの客も質がいい。静かにグラスを傾け、会話を交わし、ときどきどれだけ勝っただの負けただのという話題が飛び交っている。
 エイトもつい先ほどまでは健全に(?)カジノでコインを稼いでいたのだ。けれどどうにも今日は日が悪く、集中できなかったため早々に切り上げた。若干の負けを見てしまっているが、今日は取り戻せないと思ったのだ。「おバカなくせにそういう判断は早いし的確なのよね」とパーティメンバはよくほめてくれるが、もっと全体的にいろいろほめてくれてもいい、と思っている。
 連れはまだ遊んでいるようで、先に部屋に戻ろうかなと少し考えた。けれどエイトの調子が悪かったのだ、きっと連れも調子を崩しているに違いなくて(そうでなければ不公平だ)、負けのこんだところで指をさして笑ってやるためにバーにて待機しているのである。決して、先にひとりで戻ってもつまらないしなぁと思ったわけではないし、部屋のカギを連れのところまで取りに行くのが面倒くさいわけではない。
 けれどこんなことになるのならば、あのバカに群がるおねえさんたちに臆せず、カギをぶんどりに行っておけばよかったとつくづく後悔する。大きくため息をついたエイトへ「今日はあの保護者さんは一緒じゃないのかな」と男はくるり、とあたりを見回した。

「用があるなら呼ぶけど?」

 助けを求めれば来てくれる、と自惚れているわけではないが、あの男を確実に呼びつける方法なら心得ている。ここで騒ぎを起こせば良いだけだ 。クールな外見の割に根は世話焼きなのである。
 エイトの言葉に「まさか」と男は肩をすくめた。

「それじゃあいない間に君と仲良くさせてもらうことにするよ」

 スマートな仕草でバーテンを呼ぶと、カクテルを一杯注文した。できあがったそれは当然のようにエイトの前に差し出される。酒の味も名前もまるで分からない(覚える気もない)が、ありがたく頂戴したものは甘すぎずさっぱりとした飲み口のものだった。嫌いではない。
 エイトの表情から気に入ったことを察したのだろう、「甘いものがあまり好きではないみたいだからね」と男は言う。どこからそんな推察が生まれたのかはよく分からない。頼んだものを見てそう思ったのか、あるいは以前そのようなことをエイト自身が口にしたのか。出会ったのはもう二ヶ月以上も前の話で、そうだとすれば大した記憶力である。昨日の出来事はおろか、三秒前に自分がしたことすら忘れる(とククールによく怒られる)エイトには到底できない技だ。
 ちびりちびりとグラスの液体へ口を付けながら、「あのさぁ」とエイトは隣でにこにこと笑っている男へ視線を向けた。

「俺に声かけたり酒奢ったりしても意味ねぇと思うよ?」

 そういうことが目的でエイトに近づいてきているという点に目をつぶれば、彼は決して悪い人間ではない。強引にこちらをどうこうしようという態度はなく、飽くまでも紳士的に接してくれるのだ。それが分かるからこそ、親切心から忠告を口にする。エイト相手に使う時間と金を、ほかの誰かに使ったほうが何十倍も有意義だろう。
 しかし残念ながら男の耳には届いても、脳には届いてくれなかったようで、意味はあるよ、と笑うだけ。彼にとって何がどんな利益になっているのか、さっぱり分からない。最終目的がベッドに連れ込むことであるのなら、こんな無駄な時間はないと思うのだ。
 理解できない、と首を振ったエイトへ、男はくすりと笑って言った。

「でも君、この間の保護者さんと寝てるだろ?」

 少しだけ声のトーンが落ちていたのは男なりの気遣い、だったのかもしれない。口のなかに残っていた酒を噴き出さずになんとか嚥下したはいいが、げほげほとそのまませき込んでしまう。ぶわわ、と顔が熱くなったのはもちろん酒のせいではない。

「っ、な、なん、なんで……っ」

 前回会ったときにそのようなことを言っただろうか。いや、記憶にない。忘れているだけかもしれないけれど、いくら何でも己の性生活について他人に語るほどの度胸はないはずだ。必要なものが度胸なのかは分からないが。
 動揺と羞恥を全面に出すエイトを前に、男はにっこりと楽しそうに笑みを浮かべる。

「分かるよ、雰囲気で。彼、ものすごい目つきで俺を睨んでいたの、気づかなかった?」

 あとで怒られたんじゃない? と続けられ、忘れた振りをしていた記憶が蘇る。確かに怒られた。誤解を招くような言動は取るな、と。エイトがどういう風に見えるのか教えてやる、と。脳内に現れかけた映像を追い払うようにふるふると首を横に振る。真っ赤な顔をしているエイトへ、男がそっと手を伸ばした。

「でも特に恋人って関係でもなさそうだったからね。俺にもチャンスはあるかな、と思って」

 ふふふ、と楽しそうに笑いながら、人差し指で軽くエイトの髪を揺らす。最初から大きな接触をしてこないあたり、ひとの警戒心を解すテクニックを心得ているなと感心を覚えてしまった。

「いや、ねぇから。そんなチャンス」

 ふる、ともう一度頭を振って男の手を追い払い、エイトはグラスに残っていた酒を飲み干す。すかさず次のカクテルを注文し、男はエイトに差し出した。

「それだけ彼のことを好きだってことなのかな?」

 次のカクテルは先ほどのものより少しだけ甘みが強い。アルコールも強くなっているのかもしれない。こうして徐々に度数をあげて酔わせてしまう、という手があることも知っているが、残念ながらこちらはザルを通り越したワクなのだ。いくら飲んでも酔うことはない。それよりも会話をしてそこそこ親しくなってしまうことのほうが危険かもしれなかった。あまり頭のできが良くないことに気づかれでもしたら、きっとこの男は口先でエイトをまるめこみにかかるだろう。そんな気がする。
 男の言葉に「そういうわけじゃねぇけどさ」とエイトは唇を尖らせた。
 彼の指摘を否定することはできない。確かにククールとはそういう関係であるからだ。それも一夜の過ちだとかいうレベルではないほど、回数を重ねている。かといって恋人同士なのか、と確認されたら首を傾げるし、そういう意味であの僧侶のことを好きなのかと問われたら、嫌いじゃない、としか答えられない。エイトもまだよく己の気持ちを理解できていないのだ。

「だったら俺にもチャンスはあると思うけど?」
「いやだからねぇっての」

 重ねられた言葉を間髪いれずに否定する。うん、ない。そんなチャンスは訪れない。そこだけは断言できる。
 ククールのことは嫌いではない、そばにいて落ち着くし、エイトの根本的な歪みを理解してくれているため、安心できる。僧侶であるにも関わらず経験豊富な男の腕のなかは心地よく、嫌じゃないならおとなしくしておけ、という甘言に流されている状態だ。
 けれどだからといって、ククールとこの男が入れ替わっても良いかと聞かれたら嫌だな、と思う。それは無理だな、とごく当たり前のように思った。どうしてそう思うのかと具体的な理由を尋ねられても困るが、それでも嫌なのだ。あんなに恥ずかしいことをククール以外とだなんて、想像でも考えられなかった。だからこの男にチャンスはない。
 きっぱりと言い切られた言葉に、「よく分からないなぁ」と男は笑顔を崩さないまま言った。

「とりあえず、あんたと寝る気はねぇってことだけ理解しといてくれ」

 そこさえ理解してもらった上で、それでも隣に座るというのなら、エイトに酒を奢るというのなら止めはしない。どうぞご勝手に、である。
 うーん、と唸ったあと、男は自分のグラスに口を付けた。ちらりと横目で伺えば、やはりそこそこ整った顔をしているし、仕草も精錬されていてスマートだ。初対面時から思っていたが、絶対にモテると思う。相手に不自由はしないはず。だからこそ、ときどきはエイトのような色物に声をかけて楽しんでいる、のかもしれない。

「彼とは恋人ではないんだよね?」

 再度重ねられた質問に、「ないな」と答える。

「それでも彼以外と寝るつもりはない?」

 唇をかんで喉を詰まらせる。ややあってふぅ、と息を吐き出したあと、「まあそうだな」と返しておいた。それが本音であることは否定できない。
 少しだけ悔しそうな顔をしてそう認めるエイトをおもしろそうに見やった男は、「だそうだよ」と顔を上げて言った。

 その言葉が向けられた先はエイトではない。そう感じ取ると同時にまさか、と慌てて振り返る。エイトの背後には、どこか渋い表情をしている僧侶が立っていた。視線が合うとぎろり、と睨まれる。今回は身体を触らせてはいないし、怒られる筋合いはない、と思うのだけれども。
 おそるおそる「首尾は」と問えば、「誰に聞いてんの」と前と同じような言葉が返された。指をさして笑ってやる、という目標は残念ながら未達のようである。はあ、とため息をついて、残りのカクテルを一気に煽った。
 連れが戻ってきたのならここにいる用はない。雰囲気から一緒に酒を飲むということもなさそうで、ごちそうさん、とグラス男に返して立ち上がる。

「よく分からない関係だね、君たちは」

 向かって紡がれた言葉に足を止めてククールを見上げる。ふん、と小さく鼻を鳴らした僧侶は、「言っただろ、オレはこいつの保護者だって」と口を開いた。

「そういう意味でも『保護』してんだよ」
 悪い虫がつかないように、な。

 にやり、と口元を歪める顔になんとなく腹が立ってきて、「一番の悪い虫が何言ってんだよ」と思わず呟いてしまったことを、エイトは部屋に戻って死ぬほど後悔する羽目になる。





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2015.02.19
















悪い虫に食い散らかされたそうです。