逃げられない。 細く顔色の悪いその教生は、にへらとしまりのない笑みを浮かべどこか頼りなさげな雰囲気を持った男だった。 「んじゃなー、リウー」 「ちゃんと飯食えよー」 「リウ先生と言え! つか何でお前らに飯の心配されにゃなんねーの、オレッ!」 がうっ、と吼えたてながらも気をつけて帰れよ、と手を振る。高校生というある意味一番警戒心の強い子供を相手にすんなりととけこんでしまった彼は、もしかしたらものすごい能力を秘めているのかもしれない。 「リウせんせーっ! 片付けるの手伝ってーっ!」 廊下の窓から下校する生徒を見送っていた教生へ、陸上部の生徒がそう声をかける。何でオレが、と返したところで、「塾、遅れそうなんだよ」と生徒はいささか慌てたように続けた。 はぁ、とため息をついたリウは持っていた教科書でとん、と肩を叩くと、左右を見回して他の教師の姿がないことを確認する。もともとこの高校は下駄箱というものがなく、校舎内も土足だ。それをいいことに彼は開け放たれていた窓枠へ足をかけ、ひょいと外へ飛び降りた。 「先生、いけないんだー!」 「バカ、手伝いに来てやったんだろ。倉庫に片づければいいの?」 「そうっ!」 「分かった、ほら、鍵寄こせ。あとやっといてやるから」 「えっ、マジでッ!?」 「塾、遅刻しそうなんだろ? 嘘ならオレ戻るけど」 「いやいやいやっ、嘘じゃないっ、ほんと、マジでやばいんだってっ!」 「だったらほら」 そう言って差し出された手に生徒は、ポケットに突っこんでいた体育倉庫の鍵をぽとり、と落とす。 「ほんとごめん、先生っ、ありがとうっ! 今度なんか奢るっ!」 「おー、伊藤園のお茶あたりでいいぞー」 「おっけ、任せてっ!」 ほんとごめん、と言いながら、生徒はばたばたと部室棟へ向かって駆けて行った。腰に手を当てたままその後姿を見やったリウは、もう一度ため息を付くと生徒が残していったハードルの束を見下ろす。グラウンドにはまだぽつぽつと集めなければならない器具も残っており、安請け合いしすぎたかな、と己の行動を軽く反省しながらハードルを抱え上げた。 「うっわー、意外に重いなぁ」 よろよろとよろけながらそれを体育倉庫入り口まで運び、グラウンドへ戻って他のハードルを一か所へ集める。さすがに一度に全部運べる量ではなく、あと二、三往復はしなければならないだろう。 「自分の腕力のなさが恨めしい……」 もっと筋骨隆々であれば二回くらいで運べたかもしれないな、と考えても仕方のないことを夢見ながらハードルをおろし、あともう二往復、と振り返ればがちゃり、と音を立ててハードルが下ろされたところだった。 「ありゃ」 「これで終わり」 残っていたハードルを一度に抱えてきた少年がどこか不機嫌そうな口調でそう告げる。 「あー、っとお前確か、うちのクラスのレッシン、だったよな」 顔と名前は初日に全て叩きこんである。しかしさすがに所属している部活までは目を通しておらず、どうやら彼は陸上部らしい、と推測。 「わりーね、手伝って貰っちゃって」 「別に。もともとこれ、うちの部が使ったやつだろ」 ぶっきらぼうにそう返しながら、少年は重たい体育倉庫の扉を開けて中へとハードルを運び込んだ。どうにも愛想の良くないレッシンの態度に苦笑を浮かべて、リウもまた残りのハードルを中へと運びこむ。倉庫の中のことは当然レッシンの方が把握しており、「どこ置けばいーの?」と聞けば無言で隅を指さされた。 レッシンという少年はどちらかといえば明るい性格で、クラスの中でもよく笑っている姿を見かける。誰かれ構わずこのような無愛想な態度を取るタイプではなく、きっと自分が嫌われているのだろう、とリウは結論付けた。人から嫌われた経験がないわけでもなく、万人に好かれるなどもとより無理な話だ。理由は分からないが好かれていないことが分かれば、それなりの対処をするべきだろう。 「あとはいーよ、オレやっとくし」 そう促せば、入口の扉を抑えて残りのハードルを中へ移動させていたレッシンがじっとりとリウをねめつけた。 「…………」 一体何が気に入らないのか。すべてのハードルを一旦倉庫の中に引き入れたレッシンは、ばん、と強く扉を閉める。鉄の扉がガチャン、と派手な音を立て、あまりの轟音にリウはびくり、と肩を竦ませた。 「え、えーと、レッシン、くん?」 どう見ても怒りを抱いている生徒を相手に、恐る恐る名を呼んでみるが返事はない。しかし先に戻るという選択肢も彼にはないようで、相変わらず無言のままハードルを所定の位置まで運び始めた。 これはなかなか一筋縄ではいかなさそうな相手だ、と彼に気付かれぬように息を吐いて、リウもその作業を手伝う。二人で行えば終わるのも早く、綺麗に整頓し終えたところで、「しゅーりょー」と手に付いた埃を払った。 「ほんと、サンキュな。助かったよ」 たとえ陸上部が行う作業とは言え、請け負ったのはリウ自身だ。にへら、と笑みを浮かべて言えば、眉を顰めたレッシンはやはり一言そっけなく「別に」と返すだけ。これはまた分かりやすく嫌われたものだ、と苦笑を浮かべ、さっさとこの薄暗く埃っぽい倉庫から退散しよう、そう思って扉に手をかけたところで。 「……あれ?」 カチャン、と小さな音は立てるものの、扉はびくともしなかった。 「何やってんだ」 「や、開かないんだって」 「…………」 「そ、そんな目しないでっ、いくらオレが非力でもこんくらいのドアは開けられるよっ」 そうじゃなくてほんとに開かないの、と場所を変わってレッシンに開けさせてみるが、やはり同じように鉄の扉が動く様子もなかった。 「……なんで」 呟いたレッシンから視線を反らし、リウは倉庫の扉の形状を思いだす。重たい扉は左右に開くようになっており、扉の中央に穴の開いた金具がそれぞれ取り付けられている。そこへ南京錠を掛けて施錠するのだが、その左右の金具をまとめるための金属の輪が右側の扉には設置されていた。扉を合わせ、左右の金具に金輪をひっかけてしまえば、それを外さない限り当然扉は開かない。 「あー……あれか、輪っかが落ちちゃったか」 蝶つがいで止められたそれは普段金具の上へ引き上げられた状態で、おそらく何らかの衝撃が加わったせいでちょうど扉が合わさったときに金輪が落ちてしまったのだろう。 「あ、さっきの」 リウの呟きで気付いたらしいレッシンがぽつりと呟く。彼もまた察したのだろう、そしてその原因が自分の乱暴な所作によるものだ、ということも。 どことなくしょぼんとしてしまった少年の頭をぽん、と軽く撫で、スラックスのポケットに入れていた携帯電話を取りだした。 「もしもし、リウ・シエンです。や、お小言は後で聞きますから、先にちょっと助けてもらえたら。ええ、はい、グラウンドの奥にある体育倉庫です。中に閉じ込められてしまって。あ、いいえ、事故ですよ単なる。外から見てもらったら分かると思います。はい、すみません、お願いします」 パチン、と弾くような音を立てて携帯を閉じたリウは、「モアナ先生が来てくれるってさ」とレッシンへ笑みを見せた。そんな教生の顔を見上げた少年は、口を開き何かを言いかけ、一度口を閉じた後俯いて「ごめん」と謝罪を口にした。 「んー? 何が?」 「……オレ、のせいで」 下を向いてしまった生徒の頭をぐりぐりと撫で、「お前、イイ子だねー」と笑った。思わず零れた言葉だったが、さすがに高校生相手に口にするものでもなかったな、と反省したところでぱしん、と手を振り払われる。睨みつけてくる彼に苦笑を浮かべ、「悪い、子供扱いをしてるつもりはねーんだけど」と肩を竦めた。 「だって、レッシン、オレのこと嫌いだろ?」 嫌いな相手に対してでも、自分が悪いと思えば素直に謝罪を口にできる。大人でも難しいことをさらりとやってのける彼に、感心の念を抱いたことは事実だ。 「すごいな、って思っただけだから」 それだけ言ってリウはくるり、と少年に背を向ける。入口の扉が開く様子はなく、人の気配もしない。救援の手が差し伸べられるのはもうしばらく先だろう。 そう思ったところで、「別に、」と背後から少年の声がした。 「え?」 「別に、オレ、あんたのこと、嫌ってるわけじゃねぇ」 振り返れば、どこか真剣な顔をしたレッシンが真っ直ぐにこちらを見つめている。その視線を正面から受けてしまい、リウは思わず一歩、後ずさりをした。 教育実習生としてこの高校へやってきたのが五日ほど前のこと。受け持つクラスで紹介され、生徒の前で自己紹介した時からずっと気になっていた。なんて強い瞳を持つ少年だろうか、と。己の信念は曲げず、真っ直ぐに貫き通す。薄っぺらい嘘や誤魔化しをすべて見抜いてしまいそうな、そんな視線だ、とあの時も思った。 「レッシン?」 黙ったまま近づいてくる生徒を見やり、その名を唇に乗せる。 伸びてきた腕、とん、と肩が背後の鉄の扉へ付く。 これ以上後ろに下がることはできず、レッシンの手からも逃げられず。 「むしろ、」 頬に触れた指先は硬く、それでも火傷しそうなほどに熱い。 あんた見てるとこうしたくてたまらなくなる。 たん、と乾いた音を立ててレッシンがリウの後ろにある鉄の扉へと両手をついた。 少年の、生徒の腕の中に、閉じ込められ、 「ッ、れ、っし……っ」 近づいてくる、体温、吐息、 逃げられ、ない、 重なった、唇。 ブラウザバックでお戻りください。 2010.10.03
教生リウと生徒の団長。 短編雰囲気小説っぽく。 リクエストありがとうございました! |