思い、知る。 「誰がそんなことをしてくれ、なんて頼んだんだよッ!」 ふざけるな、という怒声が室内に響き、聞いていた者の肌を震わせる。エイト、と少年の名を静かに呼んだのは、彼の唯一の血縁者。もう一度名を呼び、その皴の寄った手で孫の腕へ触れると、彼はちらりと祖父を見やって小さくごめん、と謝罪を口にした。罵るべき相手は祖父ではない、とエイトもまた理解はしているのだ。 しかし納得できるかと言われても無理な話で、「ちょっと暴れてくる」と祖父の手を振り払って二階へ続く階段を駆け上っていった。バタン、と荒々しく扉を閉める音の後に、ガラガラと何かが崩れる音、ドコンと何かが壁にぶつかる鈍い音、ガシャンと何かが割れる音。相当にひどくものを壊しているようだが、それも仕方ない、とグルーノは溜息をついた。 「弁償はあの男に請求すればよいかの……」 エイトをここまで荒れさせることができるものは、良くも悪くも一人しかいない。その一人はおそらくグルーノが知る中でも誰よりもエイトのことを心配し、重んじてくれていた。 だからこその行動。それがエイトに理解されない、彼が望んですらいないということを分かっていながらも、そうすることに迷いはなかった。 いいんだこれはオレの自己満足だから、と最後に見た銀髪の青年の微笑みは、寂しさの中にも深い慈愛の溢れた表情だった。彼が何を考え何を思ってそんなことをしたのか。グルーノにも痛いほどに良く分かる。青年の望みはまたグルーノの望みでもあったからだ。 過去の記憶は要らない、とそれを失った少年はあっけらかんと言い放つ。彼にとってはその通りで、今を大事に生きているからそう言えるのだろう。確かにエイトがそれで幸せであるのならグルーノも、そしてあの男、ククールも何も言わなかっただろうし望まなかった。実際のところエイトはそれでさして不自由を覚えている様子はなく、またそれなりに充実して生きていただろう、と思う。 しかし、少年の中に決定的にずれた部分があることをククールは、そしてグルーノは知っている。 「それがいつか致命的なものになったらまずいだろ」 だから打てる手があるなら選びたいのだ、とそう言った青年はおそらく、かつての旅の間もずっと考えてくれていたのだろう。 どうすればエイトの中に愛されている自分自身という認識を植え付けることができるのか、を。徹底的なまでに世界と自分は無関係である、と思い込んでいる悲しい少年へ、彼の周囲がひどく柔らかく優しいものであることを教えてやりたい、と。 その原因が記憶の喪失であること自体はグルーノもまた把握していた。見た目や言動の割りに知識が深く聡明な僧侶が言うには、喪失した上に、本来ひとが取るべき自我形成を行えなかったせいらしい。だから自分というものをうまく理解できないまま。 「せめてエイトがほんとにガキだったころ、母親だとかあんただとかから話しかけられて、愛されてたことが、記憶じゃなくて経験として残っていたならたぶん、違ったはずなんだ」 エイトだけでなく、乳児のころの記憶など誰もが持ってはいないだろう。その頃のことを光景として覚えていることが必要なのではない、体験していることが必要なのだ。 体験していたはずのことさえも取り上げられてしまったから、エイトはどこか歪な自己を抱え込んでしまう羽目になっている。 「折角あんたって肉親がいたことが分かったんだ、家族ってもんくらい理解したって、バチは当たんねぇだろ」 世界との関わりを理解できないエイトはまた、当然ながら他のひとたちとの関係もまた上手く理解できないままで、友人や恋人、そして家族といったものはすべて自分とは関係のないものだ、と思っていた。 「暗黒神の呪いさえ跳ねのけるほど強い呪いなんだ、簡単に解けるとは思ってねぇし、何らかの代償が必要なのは当然」 それがオレの記憶ってんなら、安いもんだ。 これは犠牲ではない、と綺麗な青年は笑って言った。 そうしてククールが差し出したものは、現在から過去十年分ほどの己の記憶。呪いをかけた竜神王でさえ解くことは叶わない強い呪い、十年分の記憶で取り戻せたものはエイトが生まれて一年分ほどのもの。それも、「エイト自身が既に忘れてしまっているものだからこそ取り戻せたのだろう」と竜神王は言っていた。自我がはっきりとし、記憶をすることができるようになった頃の記憶はおそらくどんなものと差し替えても取り戻せはしない。 「いや、それでいい。むしろそれが必要なんだ」 その記憶というにはあまりにも不確かなものをエイトが取り戻したところで、彼自身何も変わらないかもしれない。それ以降に培われてきたものの方が強く、結局は世界との関係を理解できないままかもしれない。 それでも、どんなことであれ僅かでも可能性があるなら縋りたい。 「あんたなら分かるだろ、そういうの」 静かな声音でそう言われ、グルーノは青年の行動を止めることを諦めた。 ** ** 二階の騒音がいつの間にか止んでいたことに気付き、グルーノは階段を上って孫の部屋へと向かう。そっとドアを開ければ、小さな背中をこちらに向けて何やら蹲っている姿が目に入った。 「ッ、片づ、け、ないとっ、ゼシカ、怒る、もん……っ」 ひっ、と喉をしゃくりあげ、泣きながら自分が壊したものの残骸を集め、倒したテーブルを戻し、放り投げた枕を拾う。以前の旅の間もしっかりもののお嬢さまによく叱られていたが、今のエイトならばきっと、彼女からどれほど慈しまれていたのか、十分に理解できるだろう。 「ヤンガス、だって、心配、するしっ」 ごしごしと両手で目を擦って涙を止めようとするが、赤くなるばかりであまり意味をなしていない。持ってきていたタオルを手渡せば、それに顔を埋めてエイトはうー、と唸り声を上げた。今のエイトならばきっと、強面の彼からどれほど慕われていたのかもまた、理解できるのだろう。 震える小さな肩へ手を乗せ、ぽんぽん、とあやす様に撫でる。 「出発は、せめて明日の朝にしてくれの」 あの男を追いかけることは止めないが、今夜くらいは共に過ごそう。 優しくそう語り、慰めてくれる老人を己の祖父だ、と認識し、無条件で愛してくれている存在だ、ということもまたエイトは理解できていた。 エイトにとって世界は自分とはとことん関係のないものでしかなかった。たとえるならば本の中の出来事と同じ。物語の中で繰り広げられる冒険をいつか自分も、と無想するくらいならばいいが、現実のものとして語るなど。 「ただの痛いひとじゃん、それ、ってずっと思ってた」 それがどこか違うのだ、ということは分かっていたが、具体的に何がどう違うのかは分からないまま。今も上手く言葉にはできないが、ただ一つだけはっきりとしていることがある。 「つーことで、じーちゃん、俺ちょっと人間の世界に行ってくるわ」 あの馬鹿探し出して一発殴ってくる。 しっかりの、と送り出してくれる彼はエイトの唯一の家族。彼も、かつて共に旅をした仲間たち、魔物に姿を変えてしまった仕えるべき国主も、おっとりと優しい白馬だったお姫様も、気の強い魔法使いの彼女も、顔は怖くても優しい人情家の山賊も、そして見た目は派手なのに心根はしっかりとした、あの思慮深い僧侶も。 皆が皆、エイトを気にかけ心配し、そして愛してくれていた。 それだけははっきりと断言できた。 ** ** かつての戦いが終わった後、エイトは周囲の予想を違えて竜神の里へ腰を据えていた。その理由は誰にも話していないが、結局は祖父である彼の側にいたかっただけなのだろう、と思う。久しぶりに訪れた人間の世界、移動魔法を駆使して今まで訪れたことのある場所を片っ端から訪ね歩く。 トロデーンへ顔を見せれば、ミーティア姫が涙を浮かべて喜んでくれた。サザンビーク国王子との婚約話も立ち消えとなった今、彼女は父王を心配させる勢いであちらこちらと出かけているらしい。何事も城の中にいたままでは分かり得ないのだ、と以前の旅で学んだのだとか。 リーザスへ行けばもっと頻繁に顔を見せなさいよ、とメラミが飛んできた。慌てて避ければ次はぎゅうぎゅうときついほどの抱擁に捕まる。文句を言おうと思えばその腕が震えていることに気付いて、何も言えなくなってしまった。最近見かけなくなった気障な僧侶の行方を彼女もまた気にしているようで、見つけたら必ず一緒にくること、と約束させられる。 パルミドへ行ってみるも馴染みの顔は見つけられず残念に思っていたが、街道を歩いていたところで偶然にも弟分に再会した。どうやら今は山賊業から足を洗い、その顔の怖さと腕っ節を活かして商人の用心棒的な仕事を請け負っているらしい。ひとから感謝をされるというのも悪くねぇもんでげすね、と照れたように笑っていた弟分から聞いた話。 「それが、どうもあの野郎によく似た姿みてぇで。ゼシカの姉ちゃんも心配してるでげすし、ちょっと様子を見に行きたいとは思ってたんでがすがね」 請け負っている仕事の関係でしばらく動けそうもない、という彼に代わりエイトが向かった先は娯楽の街ベルガラックの更に北。大陸の端にある、海が臨める小さな教会。 「ここも前の旅のとき、来たっけ……」 小さく呟きながら誰にでも開かれている扉をくぐり、形式的にでも祈りを捧げてしまうのはもはや習慣のようなもの。不真面目なくせに真面目だったあの男の癖がうつっただけのこと。 この教会を管理しているのだろう、シスターへ話を軽く聞き、そうして得た情報。つい先日この教会へやってきた若者の話。 物心ついて以降の記憶をすべて失っているらしい彼は、それでも悲観する様子も見せず、知識を吸収しながら静かにここで日々を送っているということだった。 「今の時間なら裏庭で本を読んでると思いますよ」 シスターにそう教えられ、潮風を浴びながら向かったその先。 広がる青い空に青い海。 それはエイトが最も苦手とするもので、この世の何よりも怖いと感じる対象だった。それは今でも変わらず、あまりにも広すぎるそれらを前にすれば、普段のエイトならば確実に足が竦んで動けなくなるだろう。 しかし、今の少年の目には空も海も映り込んでいない。 どこまでも透き通るような青さを背景に、銀髪をきらきらと太陽に反射させ、僅かに目を伏せて膝の上の書物を呼んでいる男の姿。 首筋が見える程度に切られた髪、金色のリングピアスが揺れていたはずの耳朶を飾るものは何もなく、好んで纏っていた赤い騎士団服でもない。あまりにも静かなその雰囲気は以前の彼からはかけ離れており、見た目だけを追いかけていたら分からなかったかもしれない。 それでも彼がエイトの探していた人物だ、と。 この手で一発殴ってやらなければ気が済まない、そう思うほどのことをエイトにやってのけ、姿をくらませた男なのだ、と。 気配に気がついた男が伏せていた顔を上げる。逆光で眩しいのか、目を細めて見やった後、静かに紡がれる言葉。 「……あんた、誰」 その言葉にどうしようもなく泣きそうになっている自分に気がついて、エイトは、深く、痛感した。 やはり、自分はこの男のことが、ククールのことが好きだったのだ、と。 そして今でも好きなままなのだ、と。 そう、思い知った。 涙の滲む目を無理やり細め、口の両端を上げて、エイトは何とか笑みを浮かべる。 ひどく歪で、不自然な顔になっているだろうことは分かっていた、しかし、ただ静かにエイトを愛し、エイトのために自らの記憶を差し出してくれた彼に、笑顔以外の何を向けろというのだろうか。 眉を顰めたククールを無視して、エイトは震える声で、言った。 「ども、ハジメマシテ! みんなのアイドルエイトくんです! 今日は、記憶をなくして大変お困りだろうと勝手に推測する元僧侶さんを掻っ攫いにきました!」 ブラウザバックでお戻りください。 2010.09.23
初めまして、と言い切る強さ。 リクエスト、ありがとうございました! |