ぴちちちち、と鳥の鳴く声が聞こえる。閉じた瞼の裏に見える白い光、何かきっかけがあったわけではなく自然にふ、と浮上する意識。無理やり起床を促されたわけではないせいか、すこぶる気分が良い。身体を起こして腕を上げ、うん、と伸びをする。体中で血が回る気配。ベッドから足をおろし、素足のまま窓際へ寄る。白いカーテンを引けば、きらきらと輝く朝の光が全身へと降り注いだ。両開きのガラス窓を開け、すぅ、と大きく深呼吸。館は森の中にあるため、緑の香りが肺いっぱいに満ちる。
 こんなにも爽やかな目覚めは久しぶりで、今日はきっと良い一日になるだろう。そう、思ったところで。

「うるせぇ、このハゲヒツジっ!」
「誰がハゲで誰が羊だ、くそガキ! そこ直れっ!」

 庭から響く美しくない罵声が鼓膜を震わせる。数秒ほど前の清々しい気持ちは当然ながら木っ端みじんに砕けてしまっており、窓枠に置いた手をふるふると震わせて、「あんたたち、静かにしなさいっ!」と少女、ゼシカは怒鳴り声を上げた。





   a butler in sheep's clothing





 周りを森に囲まれたその館は、とある貴族の持ち物の一つだった。今現在そこに住まうのはその貴族の子である二人の姉弟。オレンジ色の髪の毛を揺らしたナイスバディの姉はゼシカ、こげ茶色の柔らかな髪と漆黒の瞳を持つ弟はエイトという。境遇的には決して恵まれているとは言い難い二人だったが、静かな場所でそれなりに幸せに過ごしている、らしい。

「で、今朝の喧嘩は一体何が原因なの?」
「聞いてよ、ねーちゃん! このヒツジ、俺を殴ったっ!」

 テーブルの向かいに座った少年が手にしたパンをぎゅう、と握りつぶして声を上げる。「行儀が悪いわよ」と注意をしながらゼシカは側に待機していた銀髪の青年へと視線を向けた。

「この私が、何の理由もなく坊ちゃんに手を上げる人間に見えますか?」

 ふうわり、と笑みを浮かべてティーポットを差し出してくる。紅茶のお代わりを注いでもらいながらじ、と青年を見上げ、再び弟へ視線を向け、もう一度青年を見つめた。

「見えるわ」

 背中の半ばまである銀髪を黒いリボンで一つに結わえた、青い目の綺麗な青年、ククールという名の彼は、この館の一切を取り仕切る執事長である。見習いではなくバッジを持つ長になるには些かどころか若すぎる、と人は言うだろう。しかしそもそもがまだ成人していない姉弟二人しか住人はおらず、使用人も必要最小限、客が来ることもないため執事としての仕事はそれほど多くはない。だから彼のような若者でもなんとか館を回すことができていた。また実際に細かなことに気が回る上に頭の回転も速く、ククール自身も優秀な人物ではあるのだ。
 ゼシカの言葉に笑みを引きつらせた執事から目を反らせ、「で、何やったのあんた」と自らの弟へ尋ねる。

「別に何も」
 ちょっと落とし穴掘ってただけだけど。

 そのちょっとが問題なのだろう。
 はぁ、と大きくため息をつき、どこに掘ろうとしていたのか尋ねれば、「噴水の周り!」と返ってきた。

「……庭にあるあの?」

 館の裏には綺麗に手入れされた庭が広がっている。その片隅に噴水が設置され、涼やかな水の音を奏でていたのだが、悪戯小僧は何故その場所を選んだのか。

「大方、今日噴水の掃除でもしましょうか、と私が話していたのを聞いていたのでしょう」

 ふぅ、と息を吐き出しながらククールが言った。
 人数が少ない割に館の中がいつも賑やかなのは八割がた少年、エイトのせいだった。毎日毎日飽きもせず、彼は何らかの騒動を引き起こす。そんな少年の悪戯のターゲットは常にただ一人、この館の執事だ。

「……エイト、庭は止めときなさいな。ヤンガスが泣くわよ」

 その姉の言葉にはた、と顔を上げたエイトは、「あ、そりゃだめだ」と呟いた。ヤンガスとはこの館の数少ない使用人のうちの一人、庭師である。子供が泣いてしまいそうな凶悪な人相とは裏腹に、植物に対する造形と愛情が深く、いつも素晴らしい庭を造り上げてくれている。エイトやゼシカを子供だからと軽んじることもなく、いつも構ってくれているためエイトはヤンガスのことが殊更好きだった。

「ヤンガスは泣かしちゃだめだ」

 そう口にしてエイトはうんうんと一人頷く。「オレはいいのかよ」という執事の呟きに答える声は残念ながら一つもなかった。




 貴族の娘、息子となれば、館にいても様々な教養を身につける必要が出てくるのが普通だろう。しかし、ゼシカもエイトも、実際のところほとんどいないものとして扱われているため、そのようなしがらみは一つもない。殺すわけにはいかないから生かしておいてるだけだろ、と少年が吐き捨てた言葉は、近からずも遠からずといったところで、ククールは否定のしようがなかった。
 この館の執事になることは簡単だ、というのが貴族に使える執事たちの間での噂だった。どれほど経験がなくともすぐに執事長としてのバッジを与えられる、と。ただし、皆すぐに、早ければ一週間ほどで辞めてしまう。長くて一月持てば良い方で、その原因を館に勤めるようになりすぐに知った。
 何のことはない、子供の悪戯だ。
 仕えるべき主の子供たち、姉は十八で弟は十七だという話だったが、ゼシカはともかくエイトの方は多く見積もっても十四かそこらにしか見えない。ただ彼がそういう体格だというだけのことなのか、あるいは何らかの原因で発育が悪いのか。

「頭のほうは確実に発育は悪いみたいだけどな」

 玄関広間の床一杯に描かれた落書きに、がっくりと肩が落ちる。これが十七の男のやることだろうか。所用で通りかかった庭師ヤンガスが苦笑を浮かべて、「こりゃまた派手にやらかしてるでがすなぁ」と感心したように呟いた。はぁ、とため息をつき、「くぉらっ、エイトォッ!」と少年を呼びつける。

「なんだ、バカヒツジッ! ひとを呼び捨てにすんなっ!」
「様付けされたきゃ、それ相応の言動を取れ。バケツと雑巾持ってこい」
「なんで俺がっ!」
「てめぇで汚したんだ、てめぇで掃除しやがれっ!」
「うっせぇ、ヒツジのくせに!」
「だから、いつ誰が家畜になったんだっつーんだよっ! いいからさっさと掃除しろ」
「嫌だ、それはお前らの仕事だろ!」

 嫌ならさっさと出て行けばーか、といつものように続けられた言葉に、かちん、とくるのもまたいつものこと。常ならばククールが怒鳴り返して言い争いが続くのだが。

「…………分かった」

 低い声でそう口にし、真っ直ぐにエイトを見つめる。

「そんなに追い出したいなら出てってやるよ」

 ここの掃除は餞別代りにオレがやっておく、と続ければ、は、と目を見開いた後何か言いたそうに口を開いたエイトは、しかしすぐに顔を歪めると「ククールのバカヒツジッ!」と捨て台詞を残して玄関から飛び出て行った。

「だから、誰が羊だっての」

 呟きながら、気を利かせて掃除道具を持ってきてくれたヤンガスからそれらを受け取り、とりあえず水彩絵の具と思しきもので描かれたものたちを片づけてしまおう、と腕まくりをしたところで、「ククール」と名を呼ばれた。

「……これは、ゼシカお嬢さま」

 眉を顰めた彼女の視界にはカラフルに染まった床が映り込んでいるだろう。
 すぐに片づけますので、と頭を下げたククールへ「お願いね」と口にした後、彼女は再び「ククール」と執事の名を呼んだ。

「あなたここにきてどれくらい経つかしら」
「そう、ですね。半年くらいはもうお世話になっているかと」

 その返答にゼシカは「長いわね」と呟く。本来執事という職において半年は短い方だと言えるだろう。年単位で同じ館に勤めるのは当然で、主を一人と決め一生つき従うものもいるくらいだ。それなのに高々半年ほどを長い、と彼女が口にするのは、もちろん彼女の弟の態度が原因である。

「……たぶんねあなた、エイトと相性がいいのよ」

 彼女は空恐ろしいことを口にし、「あと、エイトが本気を出してないっていうのもあるけど」と更に恐ろしいことを付け加えた。ことあるごとに「さっさと出て行け」と言われ続けてはいたが、あの少年が本気で相手を追い出そうと思えば、もっと酷い手段も辞さないという意味だろう。

「さっきの言葉は本気?」

 続けられた言葉に首をひねったククールへ、「出て行く、っていうの」とゼシカは補足した。ああ、と頷き考える。
 あの少年の相手が辛い、というのは事実だ。毎日毎日どうでもいいことで怒りを覚え、怒鳴っている。お陰で声量だけは無駄に鍛えられた気がするが、執事としての職務からは大きく逸脱しているのはククール自身理解していた。そもそもが主(その子供たち)へ苦言を呈するだけならまだしも、呼び捨てにして怒鳴りつけるなど、普通の貴族が相手なら首をはねられてもおかしくはない。
 ふぅ、とため息をつきカラフルな床を眺め、顔を上げたククールは小さく肩を竦めた。

「……オレ以外にあのガキに付き合える執事がいるとは思えないな」

 だからこそ皆、一月も持たずに辞めていってしまったのだろう。しかし自分ならば大丈夫だ、と。
 そう言ったククールへゼシカは「ありがとう」と嬉しそうに笑みを浮かべる。

「それじゃあ悪いんだけど、ここのお掃除をお願いね。ヤンガスも、ククールを手伝ってあげてくれるかしら」

 私は子供の機嫌を取ってくるから、と鮮やかなオレンジ色のツインテールを揺らし、彼女は弟が駆けのぼっていった階段へ足を向けた。




「エイト」

 一つ年下の弟が拗ねると、必ずゼシカの部屋にやってくる。勝手に入り込んではベッドの上、シーツにくるまって丸くなるのだ。今日もまた案の定、招き入れた覚えもないのに広いベッドの上に丸まる姿。名前を呼べばぴくり、とその塊が震えた。

「あんなこと言って、本当にククールが出て行ってもいいの?」

 ベッドのふちに腰を掛けて静かに問えば、「さっさと出て行けばいいんだ、あんなやつ」と返ってきた。素直じゃない少年に小さくため息をつき、「でも、」とゼシカは手を伸ばす。

「ククールは今までうちに来てた執事たちとは違う、ってエイトも分かってるでしょう?」

 どうして姉弟だけで、郊外の森にある館に住んでいるのか。それは二人の父親が彼ら姉弟を邪魔に思っているからに過ぎない。二人の母親である妻を亡くし、次なる女性を射とめるためには子供は要らないのだそうだ。だからといって完全に見捨てるわけでもなく、不自由なく暮らすためのものは与えてもらえているため、二人とも今の境遇に不満を抱いているわけではない。
 唯一の難点が、父親に見捨てられた貴族の子供ということに付け込もうとする大馬鹿者が多い、ということ。その上、姉であるゼシカは少しきつめの顔をしているものの、美少女と謳われるほどの人物で、彼女を狙う男たちも後を絶たない。
 財産かゼシカか。そのどちらか、あるいは両方を目当てに館にやってくるものばかりで、父が雇い入れた使用人といえど簡単に信用できるものではなかった。若い男などは特に、だ。
 エイトが新しく来た執事を異様に嫌い、子供っぽい悪戯を繰り返すのは背景にそういった理由がある。

「エイトが、一生懸命館と私を守ろうとしてくれてるのは分かってるし、すごく嬉しい」

 実際に性質の悪い使用人に財産を奪われそうになったり、ゼシカが襲われそうになったりということも何度かあったため、新しい使用人を疑ってしまうのは仕方ないだろう。見極めるために、あえてゼシカもエイトの悪戯を止めずに放置している部分もある。

「半年もああやって我慢して、エイトを叱ってくれた人、初めてじゃない」

 もうそろそろいいのではないか、とゼシカはぽん、とエイトの頭をシーツの上から撫でながら言った。そしてもう一度、「本当にいいの」と尋ねる。

「ククールが出て行っても」

 しばらくの静寂の後、シーツの中から小さく答えが返ってきた、やだ、と一言。
 エイトだって分かってはいるのだ、あの銀髪の綺麗な若い執事が今までのものたちとどこか違うということが。そもそも雇い主の息子であるエイトに、ああも簡単に手を上げ、怒鳴り散らす執事などそういない。
 怒られるから嫌だ、とは思わない。むしろ怒られて当然のことをしていると自覚を持ち、あえてそちらを選んで行動しているのはエイトの方だ。始めはいつものように、早く出て行けばいいという想いを込めた嫌がらせにすぎなかった。若い男というだけでゼシカと財産を狙って入り込んできた悪党にしか見えず、かなり酷い悪戯を毎日のように繰り返していた。
 大抵の執事はそれに根を上げてさっさと出て行ってしまうのに、あの男は違った。あろうことかエイトを捕まえて正座させ、こんこんと説教を始めたのだ。今までの執事たちとは違うということに唖然としてしまったが、その次にわき起こった感情は面白い、というもの。
 こんな執事は初めてで、エイトの方もまた加減を忘れてしまっていた。
 ゼシカの言うとおり、あの若者はきっとエイトたちに害をなす者ではないのだろう。二人の身の回りの世話を小まめにこなし、館の管理も任せておける、その上遊び相手としてもこの上ない。
 だったらほら、とゼシカは白いシーツを引きはがしてエイトの顔を覗き込んだ。

「謝りにいきましょう?」

 自分が悪いということは分かっている。どんな悪戯にも反応を返してくれることが楽しくて、ついやりすぎてしまった、言い過ぎてしまった。その自覚はあるが、素直に謝るには抵抗がある。
 でも、とぐずるエイトを見下ろし、苦笑を浮かべ、「お姉ちゃんが一緒に謝ってあげるから」とゼシカはエイトの大地色の頭をゆるりと撫でた。





***  ***





「つーかさ、試す必要がなくなったんならもう悪戯とかいらねぇだろ」
「いや、これは純然たる俺の趣味」
「ほぉ、お前さんは趣味で玄関前の柱に縄括りつけて人様をこけさそうとかすんのか」
「人様っていうかククールオンリー? 我ながらいい趣味してんなぁ」
「――ッ、お前は! どこまで頭が不自由なんだっ!? どうせ持ち腐れだろ、首の上に乗っかってるでっかい球体寄こせ! 花瓶にしてやるっ!」
「誰がやるか、こんなレアなもんっ! そっちこそ、頭の毛ぇ刈ってつるっぱげにしてやるぞ、バカヒツジッ!」
「だから! 誰が脊椎動物門哺乳綱ウシ目ウシ科ヤギ亜科の動物だっつーんだ!」
「意味分かんないこと言ってんなっ! 俺に分かるように喋れ!」
「そりゃお前の教養が足りてねぇせいだ、恨むなら自分の空っぽな頭を恨め」
「んだとぉ!? ちょっと頭が良いからって、お前ムカツクッ!」
「いってぇっ! お、まえっ、手ぇ出したな!?」
「手じゃなくて足ですぅー」
「そういう意味じゃねぇっ!」
「――――ッ! ちょっとあんたたち、うるさいわよっ! 裏の泉に素っ裸で沈められたいのっ!?」
「いっ!?」
「――ッ」
「泉は、さすがに、風邪、引く、気が、する、なぁ」
「……ゼシカさま、お嬢さまが素っ裸とか沈めるとかいう単語を口にするのはどうかと思われます……」
「つか、ねーちゃんの声が一番うるせぇよな」
「なぁ」
「何か言った!?」
「いいえ、何も!」
「一言も口にしてません」




ブラウザバックでお戻りください。
2010.10.12
















姉弟なゼシカ+エイトさんに関してはなんとなくクリアしてると思いますが。
…………クク主、どこだ、これ。

リクエスト、ありがとうございました!