空の中に一つ エイトよりも一つ上であるらしいその男は、気が向いたときにふらりと現れて参加し、気が済めばふらりといなくなる、まさしく幽霊のような部員だ、という話を聞いていた。 幼馴染である彼女がどうしても、と希望し、付き合いで入った部とは言え、なおざりにするわけにもいかずエイトなりに真面目に参加してはいる。活動日にはほぼ休まず来ているが、それでも一年弱、その男の姿を見たことがなかった。 だから都市伝説だとか、七不思議だとか、そのあたりと同じ類の噂だろう、そう思っていた。 早朝の弓道場。 大会間近であるため、人よりも多少腕が劣っていると自覚しているエイトは朝練に打ち込もう、と一人着替えてやってきた。鍵が開いていたことに疑問を覚え、僅かに感じる人の気配に、自分以外にも物好きがいることに気がつく。 彼だか彼女だかは分からないが、とりあえず邪魔はしないようにしよう、そう思い物音を立てぬよう射場へ続く扉を開ければその男は静かにそこに立っていた。 す、と伸びた背は白筒袖に包まれ、後頭部で結わえられた銀髪がふわり、と揺れる。作り物めいた横顔が捕える先には当然のように的があり、男は流れるような動作で弓を構えた。衣擦れの音一つも立てぬ静かな動作。きり、と引かれる矢、眉を動かすこともなく、無表情のまま放たれたそれが射た個所は、的の中央。 その事実を確認した後でもやはり男は何の感情も浮かべない。それがごく当たり前のことであるかのような、あるいは結果などどうでもよいことだと言わんばかりのような。どこまでも静かで穏やかなように見えて、他者の一切を拒絶するかのような迫力のある弓。 一連の流れも含め男の存在自体が一つの美術品のようで、思わず息をすることさえ忘れ見入ってしまった。 はた、とエイトが気がついたのと、男がこちらの存在に気付いたのはほぼ同時。 瞬間男の眉の間に皴が寄り、綺麗な顔がぐなり、と歪んだ。 「……見たのか、今の」 嫌そうにそう問われ、どうやら歓迎されていないことを察する。 「残念ながら」 肩を竦めて答えれば、あからさまにちっ、と舌打ちをされた。 「覗き見とはいい趣味だな」 「別に覗いた覚えはない。あんたが気付かなかっただけ」 言い返せば男はますます表情を歪める。そんな男を無視して足を進め、そこでようやく思い出した。弓道部仲間から聞いた噂のことを。 「ああ、あんたがあの、幽霊部員先輩か。二年の、えーっと、なんてったっけ、クール、だとか、クルーだとか……」 「冷たくもねぇし、船員でもねぇよ、オレは。ククールだ」 眉を寄せたまま訂正され、そうそうそんな名前、とエイトは本人を前にしてぽむ、と手を打つ。彼が誰だかは認識ができた。つまりは部の先輩だったということで、これは多少態度を改めねばならないかもしれない。たとえ人格的にどうであろうと、先輩は敬わねばならぬ、というのが学生部活動における鉄則のようなものだ。 「邪魔かもしれませんが、俺にも練習させてください」 ぺこり、と頭を下げて言えば、突然態度を変えたエイトを前に鼻白んだ顔をした男は、「好きにしろ」と投げやりな言葉を返してきた。背を向けた彼はそのまま道場を出ていくかと思ったが、まだ気が済んでいないらしい。再び矢を手に的へと視線を向ける。 弓にはその人の人格が出る、と教わった。実際に力強く射る人、柔らかな弓の人、同じ動作をしているはずなのに、他者へ与える印象が個人でまるで違う。自分にはどのような弓が合っているのか、どのような弓が引きたいのか、それを見つけるのもまた弓道の目的の一つ、なのだという。 (そんなこと言われてもなぁ……) 昔は剣道を軽くやっていたこともあり、武道をたしなむことは嫌いではない、と思う。背筋の伸びるような軽い緊張感は、心地よいとすら思える。しかし、対人として技術を磨く剣道とは異なり、弓道は飽くまでも自分と向き合わねばならぬ道だ。 どうしてもエイトにはその部分が理解できないままで、だからこそ。 「……あったらねぇー」 型は綺麗なんだけどね、と指導してくれる顧問にも良く言われる。しかしエイトが出来るのは型までで、実際に射てみればその矢はあらぬ方向へと向かって行くのだ。 「自由奔放すぎるだろ、俺の矢」 本来ならば静かにしていなければならないのだろうが、思わずそう呟きが零れる。だからこそわざわざ早朝に練習をしに来たのだが、この分だと成果は期待できないかもしれない。ふぅ、と溜息をつき、もう一度、と矢を構えようとしたところで、「お前さ」と背後から声がかけられた。 まさか話しかけられるとは思っておらず、驚いて振り返れば、どこか険しげな顔をしたククールと視線が合う。 「矢から手を離すとき、何、考えてる?」 「……は?」 「いや、だからさ、中れ、とか、そういうの考えてたりするか?」 尋ねられ、斜め上を見上げて考える。が、よく分からなかったため首を横に振れば、「だからだろ」と言われてしまった。 何がどう「だから」なのか分からず首を傾げれば、「お前の弓」と綺麗な指がエイトを指す。 「七情は集中力を妨げる。七障とも言うくらいだしな、構えている間は排除すべきだろうよ。でもだからって、ホントに頭の中、空っぽにして何かができると思うなよ。せめて的のことくらい考えてやれば?」 お前の弓、何にもなさすぎる。 たった数射見ただけで、彼はエイトをそう判断する。今まで誰からもそう指摘されたことはなく、与えられる助言は心を静めろ、とそればかり。気が急いては良い弓は引けない、と。 だからこそエイトは言われた通り、それこそ心を無にしてただひたすら構えて射る、を繰り返していたのだが、結果を残せたことはほとんどない。 「あー……じゃあ、やっぱ俺には弓、無理じゃん」 一つ年上の綺麗な男からの言葉に、エイトはぽつり、そう呟いた。どういう意味だ、と今度はククールの方が眉を顰める。そんな男へ、へらり、と笑みを浮かべ、何でもないことのように、エイトは言った。 「だって、俺ん中、始めっから何もねぇもん」 自分に負けぬようにあろうという気概も、誰かに負けたくないと思う意地も、良い姿でありたいという見栄も、これが自分だという誇りも、こうありたいと思う理想も、何もかもがエイトの中からは欠如してしまっている。 「……そんな人間がいるわけねぇだろ」 眉を寄せたまま告げられた言葉に、緩く首を振ったエイトの顔には諦めの表情が浮かんでいた。 「これね、俺の幼馴染とその家族しか知らないトップシークレット」 俺、小さい頃の記憶、ねぇんだ。 幼いころの記憶など、成長するにしたがって次第に薄れてゆくものだろう。はっきりと思い出せなくとも問題はないことのほうが多いが、エイトの喪失はそれどころではない。ある時期を境に、それより前の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。記憶が真っ白になっているという表現をときどき目にするが、エイトの場合、白という色でさえそこには存在していなかった。「無い」ということさえ表現できないほどの無。 そのせいじゃないかしらね、と以前一度だけかかったことのある病院のカウンセラーは言っていた。医者にしておくにはもったいないほどの美貌とスタイルを持っていた彼女は、ひどく可哀そうなものを見る目でエイトを見つめ、「あなたのそれは治らないわ」と面と向かって告げたものだ。それがどれなのかすら分かっていないエイトに女医の言葉はそもそもが理解しがたく、だからこそ彼女もまた「治らない」と言い切ったのだろう。 「記憶ができないわけじゃなくて、何かを入れることができないんだってさ」 どこまでも空っぽのまま。 地に足を付けることもできず、芯の抜けたまま上の空で今まで生きてきたようなものだ。それがただ弓に現れていた、それだけのことだったのだろう。 これでは弓を続けたところで、何らかの結果を残せるとは思えない。 熱心に誘ってくれた幼馴染の彼女には悪いが潮時かもしれない、エイトがそう思ったところで、「ほんとに、」と静かな声が耳に届いた。 「何にも入らねぇの、お前の中」 「……さあ。そう言われたからそうなのかなって。ああ、正確に言えば、入れたままにしておくことができない、だったかな。底も蓋もねぇの」 たとえ入り込んだとしてもすぐに出ていってしまうらしい、と説明するエイトの言葉に、「ふぅん」と相槌を打った男は何かを考えるように顎へ手を置いた。す、と細められたその両目が青く輝いていることを今気がつく。 綺麗な目だ、と素直にそう思ったところで顔を上げたククールが、じゃあさ、と言葉を紡いだ。 「お前の中にオレを入れといてよ」 「は?」 突然過ぎる提案に間の抜けた声を返した後、「いや、だからさ」とエイトは眉を顰める。 「入れてもすぐ出ていっちゃう、って」 人の話を聞いていたのか、と口にすれば、男は楽しそうに口元を緩めたまま。 「でも今はオレここにいる。さすがにこんなに近くにいれば気配くらいは分かるだろ?」 ずい、と足を進められ、吐息が掛かるほどまでに近寄られる。確かにこれで側に人がいないと思う方が難しいだろう。 「…………この状態じゃ構えられませんケド」 「そりゃそうか。じゃあこっち」 正面に立っていた男がエイトの背後へと回り、「ほら、構え」と肩を掴まれた。 ふ、と息を吐き出し、足を広げる。両脚に上体を乗せ、腕を水平に掲げた。その間、背後に立った男はエイトの邪魔にならぬように、それでもその気配を消すことなく支えるように両肩へ手を置いている。 他人の気配をここまで近くに覚えたまま射るのは初めてかもしれない。そう思ったところで、低く囁かれる言葉。 「忘れんな、他人じゃねぇ、オレがいるんだ」 銀髪の綺麗な、芸術のような弓を引く男。思わず見とれてしまったあの姿を思い起こし、小さく頷いたエイトはきり、と矢を引いた。 空を裂き、宙を飛んだそれが落ちた個所。 「…………中った……」 「やっぱりな。お前、立ち姿も構えもしっかりしてんだから、後は芯さえ通れば中るんだよ」 その調子だ、と軽く背を押され、思わずエイトの顔にも笑みが浮かぶ。頬をほころばせたまま「あざーっす!」と男へ頭を下げれば、「しっかり励めよ、後輩くん」と返ってきた。 ** ** 「で、だ。オレが教えたのに、なんでこんな成績になってるわけ、お前はっ!」 「しょーがねぇじゃん、だってセンパイいなかったしっ!」 大会当日、折角の朝練も虚しく、情けない結果に終わったエイトを前に眉を吊り上げて怒るククールの姿があり、珍しい組み合わせに他の弓道部員は唖然と彼らを見つめている光景が繰り広げられることになった。 ブラウザバックでお戻りください。 2010.09.12
なんちゃって弓道でお願いします。 李夢さま、リクエスト、ありがとうございました! |