たとえこちらに神の炎が宿っているとはいえ、戦えばもしかすれば倒すことができるのかもしれない相手とはいえ、無理なものは無理だ。生理的に正面から捕らえることを受け入れられない相手というものが存在する。今ふたりが正気を保っていられているのも、たぶんこうして手を繋いでいるからだ。誰よりも近い相手の温もりを直に感じていられるからこそ、己が誰であるのか、手を繋いでいる相手が誰であるのか、見失わずに済んでいる。 ぞわぞわと、背後の空気が蠢く気配を覚え、足場の悪い道を走りながらちらりと視線を背後に向ければ、何本かの触手がこちらに向かって伸びてきているところだった。ざっと顔を青ざめさせ、燐は慌てて頭を前へと向ける。お前は振り返るなよ、と弟に言えば、彼もまた青い顔のまま、そうする、と端的に答えた。 洞窟らしき道が続いていることを幸いに、ただひたすら触手化け物から遠ざかるために走っていた途中、飛び出た石に足を取られ、雪男が盛大に転んでしまう。 「雪男ッ!」 「っ、う……ッ」 薄暗い足下は土や砂といった地面ではなく、どちらかといえば岩が削れたような場所だ。打ち付けた膝に痛みが走り、雪男は呻いて身体を丸めた。 「ゆき、雪男っ、大丈夫か!?」 慌ててそばに膝をつき、その身体が起きるのを助けてやる。岩にでも引っかけてしまったのか、弟のスラックスは左膝のあたりが大きく裂け、暗い中でも血が滲んでいることが分かった。怪我には詳しくないが、擦り傷かすり傷というレベルではなさそうだ。下手をしたら肉がえぐれているか、あるいは骨にも異常が起きているかもしれない。 痛みを堪えるかのように浅く息を吐き出した雪男は、「兄さん」と燐を見やってくちを開く。 「ごめん、すぐ走れそうもない。僕に構わず逃げて」 まさかそのような台詞を聞くことになろうとは思ってもいなかった。シチュエーション的にという意味でもそうだが、そもそも燐にそんなことができるはずもないことなど、雪男には分かっているだろうに。 雪男、と眉間にしわを寄せ、鋭く弟を呼ぶ。しかし彼は荒くなった息を整えながらふるり、と首を横に振った。 「ここにいたら兄さんも危ない。いいから早く逃げて」 でも、と言葉を句切り、雪男は燐を正面から見つめてへにゃりと笑う。 「できるだけ早くあいつを倒せる方法を探してきてね。待ってるから」 雪男は、兄が自分を見捨てることなど万に一つもないと知っている。理解している。燐と雪男は生まれたときからそういう存在だったのだ。だから自分を置いて行け、などということもくちにすることができる。必ず助けに来てくれると信じているのだ。 無条件の信頼は、つまり無条件の愛情を根拠としている。自分が燐を愛し、必要としているのと同じほど、兄からの愛を疑っていない。そんな弟の姿を前に、感極まった双子の兄は「雪男っ!」と愛しい男の頭を掻き抱いた。兄さん、と雪男の腕も燐の背に回る。 「もっとよく兄さんの顔を見せて。触らせて」 最後になってしまうかもしれないから、という言葉は続けない。しばしの別れを耐えるために、燐を補給したいのだ。甘えるようにほおを寄せてくる弟の頭を撫でながら、「ばか」と燐は笑ってくちを開く。 「お前、けが人なんだから動くなって。全部兄ちゃんがやってやる」 そう言って雪男の頭を上向かせ、ちゅ、とそのほおに唇を落とした。ちゅ、ちゅっ、と鼻の頭や唇へとキスを降らせる。意外に常識人で羞恥心の強い燐は、触れ合うことに対しあまり積極的な姿勢は見せない。兄弟としてのスキンシップは燐からのもののほうが多いのだが、それが恋人のものとなるとからっきしで、進んでキスをしてくれている現状に、雪男は内心ガッツポーズを決めていた。 ゆるゆると確かめるように弟の顔を撫で、肩をさすり、胸や腹を探ってさらにその下まで。明確な意図を持ち、その欲望を煽るように蠢く兄の白い手に、弟はこくり、と生唾を飲み込んだ。コートをはだけ、重たい装備品を外し、シャツをひっぱり出してスラックスの前立てにまで指をかける姿を見下ろし、「そこまでしてくれるの?」と雪男は笑いながら聞いた。本心はこの場で飛び上がって小躍りしたいくらいテンションが上がっているのだが、そのような気分をすべて分厚い面の皮の下に押し込め、平静を装う。そんな弟の様子に気がついているのかいないのか、兄ははにかんだような笑みを浮かべてうん、と小さく頷いた。あざとかわいさが爆発している。跳ね起きて燐を押し倒さなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。 たまには瀕死生き別れプレイもいいなぁ、と思いながらかわいい恋人からの奉仕を受けていたところで、ふいにこちらに向かって伸びてくるものに気がついた。 「あ」 思わず声をあげた雪男に、燐もまた顔を上げる。 「あ」 双子の視界に映ったものは、まるで様子を窺っているかのようにおずおずと近づいてこようとしている触手の姿。それはまるで、「もういい? もう攻撃してもいい?」と聞いてきているかのようで、非常にいいところに水を差されたかたちになった双子の兄弟はにっこりと、それはそれはよく似た笑みを浮かべ、青い炎を生み出した。 「「邪魔すんな?」」 青い炎に包まれ為す術もなく灰へと還っていく触手化け物など気にする様子も見せず、盛り上がった雰囲気のままやることをすませた双子の兄弟は、すっきりした顔をしてその洞窟から抜け出し、無事に自宅までたどり着いたとさ。ちなみに雪男の左膝は、触手が侵入してきたころには当然完治していたそうである。 おわり
2019.04.01
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