ええと、とレオナルドが小さく呻いたところで、正面にいる男も「あー、」と戸惑ったような声をあげた。その声も、聞き覚えが、ある。 「す、てぃーぶん、さん?」 「ああ、レオ、だよな?」 定かではない記憶のなかから自然に転がり出てきた名前をくちにし、ようやくふたりはお互いの存在をはっきりと思い出すことができた。しかしだからといってこの状況が理解できるかどうかはまた別の話である。 くるりとあたりを見回せば、そこは真っ青な空と雲の広がる世界だった。より正確にいえば、空と雲しかない世界だった。ほかにはレオナルドとスティーブンがいるだけで、何もない。 ぽすぽすと足を踏みならし、本当に雲の上に立っているのかどうか確認していたレオナルドの横で、「これ、堕落王絡みだと思う?」とスティーブンがくちにする。 「んー、それっぽい感じはないですけどねぇ。あのクリーチャー好きが、化け物を配置してないってありえなくないです?」 「時間差で出現とか。それかもうすでに化け物の腹の中とか」 考えられなくはないことだが、正直こんな内臓器官を持つ化け物はどうかと思う。そもそもレオナルドには化け物に食べられた記憶などないのだ。 「どこまで覚えてます?」 「ライブラの飲み会で飲んでたところまで、かな」 スティーブンの答えに、僕もです、と少年も頷いて答える。少しばかり大きな作戦をこなし、その成功祝いにリーダの企画した飲み会だった。肉弾戦よりは術と技術力のぶつかり合いがメインであったため、集まったメンバも戦闘員二割、技術課組八割だったが、いつも執務室に集まっている能力者はほぼ全員顔を出していた、ように覚えている。もちろん副官であるスティーブンもその場にはいたのだが、それぞれの技術課に所属するメンバと高尚そうでハイレベルな会話をしていたため、レオナルドはほとんど彼と話すことができず、少しだけ、ほんのちょっぴり、寂しいなと思っていたのだ。 それがどうして突然こんな場所に立っているのか、まるで理解ができない。スティーブンのほうも同じらしく、かつかつと足場を蹴ってみたり、両手を握りしめたり開いてみたりを繰り返している。 「どうにも感覚が曖昧だなぁ。血凍道は使えそうだけど。夢でも見てるような」 ぽつりと紡がれた言葉に、思わず「あ」と声が漏れた。夢、そう夢だ。思い出した。眼を開いて周囲を見回し、やはり何も出てきそうもないことを確認してからスティーブンを見上げる。 「そういえばザップさんがなんか変なグッズ、持ち込んでたんですよ。夢がどうのとか、TRPGの世界がどうのとか」 愛人のうちのひとりからもらったものだ、と言っていたような気がする。危険はないらしいが、どうなっているのかいまいちよく分からないからお前ためしてみろよ、と非常に理不尽なことを言っていた。もちろんレオナルドはきっぱりと拒否したのだけれども。 「……ということはつまり?」 「SS先輩のせいって可能性が高いです」 というか、ほぼそうだと断定してもいいだろう。でなければ、突然このような場所にふたりして飛ばされる理由が見当たらない。うーんそっかー、と相づちを打つスティーブンの声は穏やかだったが、おそらく戻ればザップにきつい仕置きを据えるつもりだろう。自業自得であるため同情はしないが、骨ぐらいは拾ってあげてもいいかもしれない。 ザップの持ち込んだグッズのせいだ、と結論が出たところで、しかしこれからどうするべきか。 そう思ってスティーブンを見やれば、彼は小さく笑って、「することないし、昼寝でもしてようか」と足下の雲を指さして言う。 「ずいぶん呑気ですね」 促されるままスティーブンの隣へと腰を下ろした。そのとき彼はすでに長身を雲に横たえ、空を見上げている。 「だって、こんな青空、久しぶりに見たからさ」 ふたりが生きている場所は霧に覆われた街だ。太陽の光が霧の隙間を縫って届くことはあれど、こんなにもすっきりと晴れた空を見ることは決して叶わない。ゲットーヘイツ内にある偽物の青空には表現しきれない、どこまでも広がる果てしない空。夢の中といえど、青空をスティーブンとふたりで眺められる日がくるとは思ってもいなかった。 「僕、雲に寝転ぶのって子どものころからの夢だったんですよ」 おそらくみな一度は考えたことがあるのではないだろうか。空に浮かぶ白い綿雲に触れてみたい、寝転んでみたい、きっとふわふわもこもこで、最高の心地に違いない、と。 「寝転んでみた感想は?」 「…………思ってたより柔らかくないです。でもまあ、」 隣にスティーブンさんがいるんで。 どのような場所であろうと、恋人とともに過ごせるのなら悪い気はしない。ふふ、と笑ってそうくちにするレオナルドを抱き寄せ、スティーブンはその額に唇を寄せた。 雲一つない真っ青な空よりは、大きな入道雲のある夏の空のほうが好きなこと。 天気の良い日には簡単なサンドイッチを作って外で食べるのが好きだったこと。 面白い形の雲を見つけて追いかけているうちに川に転がり落ちてしまったこと。 雨雲の見分け方を知ってから曇り空を見上げることも好きになったこと。 ヘルサレムズ・ロットで青空を見る方法について。 他愛もない話をしているうちにまぶたは徐々に重くなり、しばらくして本当に寝息を立て始めてしまった。 夢のなかのふたりが寄り添って幸せな昼寝に勤しんでいる間、現実のふたりもまた、ライブラ執務室にある大きなソファで重なるように眠っていた。お互いの体温に安心しきった顔をしてすやすやと眠る副官と秘蔵っ子の姿に、包帯で顔面を覆った有能執事は静かに笑みを浮かべる。空調設備は整っているが、それでも風邪など引いてしまわないように、と彼がふたりにかけてあげたブランケットは、真っ白でもこもこふわふわとした、雲を薄く広げて伸ばしたかのようなものだった。 おわり
2019.04.01
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