「すみません、じゃあ失礼します」

 とん、とん、と片足で跳ね、スティーブンに近寄って背中にのし掛かる。よいせ、と声を出してはいたが、さほど重たそうな様子も見せず彼はす、と立ち上がった。視線がぐんと上がる。背の高いひとの視界というのはこういうものらしい。空が少しだけ近くなったような気がした。
 細身に見えるが案外がっしりとしている肩、広い背中、大人の男の身体だ、とそう思う。その温かさに安心を覚えるのは、見知らぬ場所、理解できない状況に心細く思っているからだろうか。肩に軽く手をかけるようにして上半身をあまり寄りかからせずにいれば、「落っこちても知らないぞ」と笑われた。お互いのことをよく知らない状態でべったりとくっつくのは申し訳ないと思ったからなのだが、スティーブンが気にしないというのなら、遠慮なく身体を預けさせてもらうことにする。

「それでさっきは何が起こったんだ? 穴の中に敵でもいるのか?」

 彼のその推測はおおかた当たっているのだと思う。レオナルドの眼でなければ捕らえられないほど素早く伸びてきたものは、表現するとしたら触手、のようなものだと思う。

「HL周回の海にいるような?」
「そうですね。あそこまで大きくはないですけど。ただ、」

 あれよりもずっとおぞましい何かであるように見えた。ひとの身では決して触れてはいけないような何か。それがあの穴から伸びてきたのだ。
 レオナルドの言葉を信じてくれているのかいないのか。ひとしきり聞き終わったあと、ふむ、と頷いたスティーブンはそのまま考え込んでしまった。
 あの穴のほかには取り立てて変わった点のない場所だ。現状を打破するためにも、何らかのキーポイントになっているとは思うのだが、どう攻略すべきか。

「……ここで見たことはできるだけ忘れてくれよ、少年」

 そう言ったあと、男はぱすん、と空気の抜けるような音を立てて左足を前に踏み出した。

「エスメラルダ式血凍道、絶対零度の剣」

 言葉が紡がれると同時にどこぞより生み出された氷の刃が、ぽっかりと空いた穴のほうへと音を立てて伸びていく。しかし一定の位置まで近づいたところでぱりん、と派手に砕け散った。穴の内側から伸びてきた触手に払い飛ばされたのだ。二度、三度と同じことを繰り返し、「なるほどね」とスティーブンは頷く。
 触手のその元、本体のようなものがあるのかどうか。スティーブンに背負ってもらっているため、顔を見られる心配もない。念のためにゴーグルはかけたまま義眼で探るが、もやもやとした煙のようなものがあるのが見えるだけだ。雲のエフェクトが穴の内部にまで深く広がっているのかと思ったが、それとは違うような気もする。

「じゃあ、これならどうだ?」

 背中の上でレオナルドが考え込んでいる間に、スティーブンはまた新たな技を繰り出した。

「絶対零度の盾!」

 ぱきぱき、と小さく音を立てて広がった氷(おそらく彼の足下から生み出されている)が、触手の出てこないぎりぎりの位置を見極めてぐるりと取り囲むように形成される。さらに「絶対零度の地平」と技を重ね、壊されてしまう前に穴を塞ぐように氷の蓋を作り上げてしまった。

「……内側から触手が外に出ようと氷に攻撃してますね」

 耳を澄ませばかきん、こきん、と鈍く小さな音が氷の下から聞こえてくるのが分かるかもしれない。距離を保ったまま様子を見守っていれば、びしっ、と氷の蓋に大きくひびが入るのが見て取れた。どうやら持たなかったらしい。

「うかつに近寄ってなくてよかったな」

 蓋を作った本人はさほど動揺しているようでもなかったため、想定内のことなのだろう。穴からさらに離れた位置でレオナルドを一度下ろすと、スティーブンは音を立てて砕け散った氷の蓋のほうへと身体を向けた。逃げるのではなく迎え撃つ気らしい。戦闘に慣れているとも言っていた彼は、おそらく氷を使って戦うのだろう。
 ぼっふん、とそこから飛び出てきたものは雲のような煙のようなもの。実際に物体としてひとが触れることができるかどうか怪しい存在で、けれどレオナルドたちを襲ってきた触手は確かにその煙から伸びているようだった。
 おそらく煙の部分に攻撃をしてもすり抜けてしまうだろう。かといって触手に攻撃をして本体にダメージが与えられるかどうかは疑問だ。どこか攻撃ができる点はないだろうか。
 飛び出てきた煙の塊を見上げ、青い目を光らせる少年が「スターフェイズさんっ!」と攻撃態勢に入っていた男を呼んだ。

「向かって右側、上から三本目の触手の付け根を狙ってください!」

 それが彼にできるのかどうか、という疑問は不思議と抱かなかった。きっとスティーブンならこなしてくれるだろう、とそう思ったのだ。
 実際、繰り出される触手の攻撃を避けつつ、自ら生み出した氷を足場にしながら彼は素早く煙に近づき、レオナルドが指示した通りの箇所へ蹴りを叩き込む。弱点であったのだろう箇所を氷の槍で貫かれた煙お化けは、ぶるるる、と震えたかと思えば、ばすん、と空中で破裂し、消滅してしまった。

「とりあえず倒してみたけど、さて、どうなるかな」

 あのモンスタを倒せばこの世界から抜け出せる、という確証があるわけではない。怪しそうであったから戦っただけであり、何も変わらない可能性だってある。
 せめてもう少しヒントが欲しいものだね、とレオナルドの元まで戻ってきた男が苦笑を浮かべて言ったところでがくん、とふたりの身体が大きく傾いた。

「ッ!?」

 ひゅ、と息を呑んだのもつかの間、正常に働いているらしい重力に引っ張られ、自分たちが落下しはじめたことに気がつく。雲のエフェクトに覆われていた床が突如消え失せてしまったのだ。

「う、そだろっ」
「うわわわわわっ」

 わたわたと手足を動かしてみるが、もちろん上に戻れるわけもなく、落下速度を落とせるわけでもない。下を見る、などということができるはずもなく、パニックになるレオナルドの腕をスティーブンががしり、と掴んだ。

「レオッ」

 強いちからで引き寄せられ、その腕のなかに抱き込まれる。全身が冷たい風に晒されていたが、スティーブンの腕のなかはとても温かい。現状は何一つ解決しておらず、事態が好転する兆しも見えない。どこに向かって落ちているのか、どれくらい落ちるのか、何も分からないままで、楽観視などできるはずもないというのに、レオナルドはどうしてだか、安堵を覚えている自分に気がついた。それはきっとスティーブンが抱きしめてくれているからだ。
 ちらりと視線を向ければ、スティーブンのほうも為す術がないといった様子で、どこか諦めの表情を浮かべている。けれどレオナルドの視線に気がついた彼は、小さく笑みを浮かべてくれた。ひどく自然なその表情はなんだかとても見覚えのあるもので。
 ただひたすら落下していくなか、最後に一緒に過ごしたのがこのひとで良かった、とレオナルドは思っていた。


おわり





2019.04.01
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