彼にそこまで迷惑をかけるわけにはいかない。

「いやいやいや、大丈夫ですって! ひとりでなんとか立てますし!」

 そう固辞する少年を無言で見下ろしていた男は、ややあって、はあ、と大きくため息をついた。言葉はなかったが盛大に呆れているのが伝わってくる。いやでも、とレオナルドがさらに拒否の言葉を続ける前に、「じゃあこっちだな」とスティーブンの腕が伸びてきた。

「へ? あ、わ、うわぁっ!?」

 ぐらり、と身体が傾いたかと思えば、足の裏が床から離れ、身体が宙に浮く。不安定さに恐怖を覚えてとっさに近くにあったものにしがみついたが、それはスティーブンの肩だった。どうやらおんぶを拒否した場合は強制的に横抱き、いわゆるお姫さま抱っこをされてしまうらしい。下ろしてくれ、と暴れてみたが、落とすぞと脅されて結局許してもらえなかった。ずいぶんと近づいた整った顔を睨んでみるも、彼は楽しそうに笑うだけ。

「なんか、きみの重さに馴染みがある気がするんだよね。こうやって抱き上げたことがあるんじゃないかな」

 自分の名前を思い出せてはいるが、それ以外は朧気な部分も多い。お互いの名は記憶になかったが、忘れているだけで知り合いであった可能性は高いのではないか、とスティーブンは言う。そう言われると、レオナルドも彼の体温だとか、その力強さに覚えがある、ような気もしなくもない。

「いやでも、どんな関係なんですか、僕ら……」

 たとえばその容姿や声、しゃべり方が記憶に引っかかるのならばまだしも、重さだとか体温だとか、ある程度親しくなければ分かり得ないようなことを知っているだなんて、いったい自分たちはどういう間柄だというのか。首を傾げたレオナルドを見下ろし、「なんだと思う?」と彼は逆に尋ねてきた。
 身体に触れあうほどの親しさといえば身内、親子、兄弟、叔父と甥。考えてみるがどれもしっくり来ない。ほかに可能性は、と考え込むレオナルドを見る彼は、にまにまと面白そうに笑みを浮かべている。整ってはいるが緩んだその表情がなんとなく腹立たしい。む、と唇を尖らせたレオナルドは、はたと思いついてにたりと口もとを歪めて言った。

「……案外、恋人同士とかだったりして」

 もちろん冗談である。覚えているかぎり、レオナルドには恋人がいた過去などない。それなのに、明らかにハイスペックそうな彼と恋人同士だなんて、あり得ないだろう。そもそも生きている世界が違いそうだ。
 レオナルドの言葉にわずかに目をみはったスティーブンは、しかしすぐに笑みを浮かべてくちを開く。

「だったら、僕はきみにキスをしてもいいってわけだ」

 言うやいなや、整った男の顔が近づけられ、ぶちゅう、と唇を塞がれた。驚きのあまり開きかけた目を慌てて閉じれば、了承とでも受け取ったのか、伸びてきた舌に唇をこじ開けられねろねろとくちの中まで舐められてしまった。くぐもった声で抗議を示してみるが、すべて彼のくちに吸い込まれてしまって、耳には届いていない。
 あまりに長くくちを塞がれいたため酸素が足りず、苦しさからじたじたと暴れ出したところでようやく解放された。ぷはぁ、と息を吐き出し、肩を上下させて呼吸を整える。

「お、おとなのちゅーだ……」

 恋人がいた記憶がないレオナルドには、家族以外の誰かとキスをした記憶もない。ディープキスなどもってのほかで、初めての感覚に思わずそう呟きが零れた。レオナルドは決して子どもとはいえない年齢ではあるが、自分が大人だとも思えていない。まだまだ知らないことはたくさんあるし、経験していないことだって多い。実際、スティーブンのような大人の男性からすれば、レオナルドなどまだ子どもの域に入るのだろう。だからこのようないやらしいキスを誰かとするなど、もっとずっと先のことだと勝手に思っていた。それがこんなにも簡単に経験してしまうだなんて。
 レオナルドの呟きを聞き止めたスティーブンは、くつくつとのどを奮わせて笑いを零す。

「きみ、かわいいなぁ」

 そう言いながら、今度は顔中にキスの雨を降らせてきた。別にかわいくないですよ、と真っ赤な顔を背けて言うも、スティーブンはキスを止めようとはしない。感覚的にはほとんど初対面の相手だというのに、突然深いキスをされて、今もまた顔中に唇を落とされ、それでも嫌な気持ちにまったくならないのは、彼の顔が憎たらしいほど整っているせいだろうか。それとも、やはりどこかその唇の温もりにも覚えがあるから、だろうか。
 できればこの既視感について深く考えたいところだったが、状況がそれを許してはくれなさそうだ。何一つ解決には至れていない。穴から飛び出てくる触手も変わらずで、どうやら一定以上近づいたときに現れるようだった。

「エスメラルダ式血凍道、絶対零度の剣!」

 レオナルドを抱えたままであるため、派手に動くことができないスティーブンはそれでも、彼の足下から氷を生み出して触手へと攻撃を仕掛ける。幾本かの触手を凍らせ、切り落としてはいるが、触手は次から次に現れるため効果の程は怪しいところだ。

「あの穴のなか、触手の本体っぽいのがいます」
「じゃあ、なんとかしてそいつを引きずりださないとな」

 こちらに向かって伸びてきた一本の触手を、「絶対零度の盾」と氷で防ぎ、スティーブンは言う。

「きみを守るのが僕の役目な気がしてきた」

 スティーブンには戦う術がある。その方法も知っている。戦う目的はもっと違うものであったような気もするが、今腕に抱いている少年を守り通すのもその目的のうちの一つであった、そんな気がするのだ。
 触手の攻撃を避けながらそう言った男へ、レオナルドはぱちり、と開いた真っ青な瞳を向けた。

「僕の役目はたぶん、あなたのサポートをすることです」

 一見しただけで、普通の眼ではないと分かる青い光に、彼は少しだけ驚きつつもふ、と笑みを浮かべてみせる。この眼ができることはなんとなく分かる。妹を犠牲にして得たちからなど本当は使いたくないが、けれど彼の、彼らのためには惜しみなく使うと決めた。それがレオナルドの目的を果たすためにもっとも近い道となるはずだから。

「頼もしいね、それじゃあよろしく」

 彼はそう言ったあと、触手の飛び出てくる穴に向かって走りよりながら、「なあ、レオナルド」と腕のなかの少年を呼んだ。

「僕らが実際どういう関係なのかは分からないけど、ここから無事に出られたらそのときは本当に僕の恋人になってくれよ」

 きっと僕らはうまくやれると思うよ、と紡がれた言葉に結局レオナルドがなんと返したのだったか。
 無数の触手を伸ばしてきていた煙の塊のような何かを倒し、空の世界から脱出したときにはすでにふたりともきちんとお互いのことを正確に思い出せており、「最初から恋人でしたね」と笑い合うことになった。


おわり





2019.04.01
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