泡に対し背を向けることになるククールに代わり、エイトが中腰になって身構えた。そろり、そろり、と水をかき分けて近づいていたところで突然水面が盛り上がりボートが傾く。距離があったため転覆するほどの揺れではなかったが、なんとかバランスを取って堪えていたふたりの視界には、今まで見たこともないようなおぞましい姿の化け物がそびえ立っていた。
 全体像はなめくじのようだが、頭から三本の突起が伸び、先端にそれぞれ目玉がついている。胴体は謎の突起で覆われており、背中には鋭いとげが幾本も生えていた。湖の中に生息しているのであろう。全身が濡れており、ぬめぬめてらてらと光っている。明らかに今まで見たことのあるモンスタとは違う次元の存在だ、とふたりは一瞬にして感じ取ることができた。

「ッ!?」
「――――」

 目を見開き息を呑む。言葉を失ったまま、不安定なボートの上で化け物を見上げれば、ぎょろり、と三つの目玉が突然こちらを向いた。ぞ、と全身を悪寒が這い回る。

「じ、ジゴスパーク!」
「天国への階段っ」

 足場の悪い中での戦闘も経験はなくもない。しかしさすがに湖の上、小さなボートに乗っている状態では満足な攻撃など繰り出せず、いつもの半分以下の威力で放ったそれらは、三つ目の化け物へ当たる直前にぽひゅん、と消えてしまった。全力で叩きつけたとしても、もしかしたら同じように消滅してしまうかもしれない。

「ッ、て、撤収ッ! 撤収だ撤収! 逃げんぞっ!」
「逃げ、てん、だよ、これでもっ!」

 言葉どおりククールは必死にオールを漕いでいるが、湖が大きく揺れているためなかなか進まない。化け物はこちらをどのように認識しているのかは分からないが、ゆっくりと目玉が動いているため存在を把握されてはいるようだ。

「ククール、代われっ」

 ボートに乗る前に言っていたとおり、パワーならばエイトのほうが上だ。手早く位置を入れ替え、今度はエイトがエンジン役を担う。水しぶきを浴びながらオールを漕ぐエイトをサポートするように、僧侶は赤いマントをひらめかせて風の魔法を紡いだ。この緊張感のなか、化け物をこれ以上刺激しないよう、そしてボートが壊れてしまわないよう、絶妙なちから加減が必要となるだろうが、生み出した竜巻を器用に操りボートを押す。あれ、これ、俺が漕ぐ必要ないんじゃね? とエイトが思ったところで、三つ目の化け物が初めて大きなアクションを起こした。ぬるん、と伸びてきたのは身体を覆っていた突起の一つか、あるいは背中のとげか。化け物に背を向けているため、ククールはぬめぬめとした触手が彼を狙っていることにまだ気づけていない。

「危ないッ」

 男の腕を引いて引き寄せ、ほとんど意味を成していなかったオールで触手を弾き飛ばす。ボートはすでに岸のすぐ近くまでたどり着けており、これなら飛び移ることもできそうだ。

「エイトっ!」

 先に岸へ飛び移ったククールが手を差し伸べてエイトを呼ぶ。構えていたオールに触手が絡みつき、さらにエイトの手にまで伸びてきた。

「無理無理無理っ、生理的に無理ッ!」

 ぬめぬめうぞうぞとしたフォルムを前に、鳥肌の立たない人間がいれば見てみたい。思わず手の甲に伸びていた触手の先端を払いのけ、オールから手を離す。触手の粘液のようなものに触れた手がぴりりと痺れるような痛みを訴えてきていたが、今はそれに構っていられる余裕もない。もう一本転がっていたオールを触手に向かって投げつけてから、エイトはボートを蹴って岸へと飛んだ。その身体をククールの腕が受け止める。

「動けるか? とりあえず湖から離れるぞ」

 仲間がそう言っているのは聞こえるのだが、どうにも頭がくらくらして仕方がない。己の不調を訴えようにも、舌すらうまく回らなくなっており、低い呻き声しか零れなかった。どさり、と地面に倒れる瞬間、おそらくあの触手に触れた箇所だろう、両手の甲が紫色に変色している様子が目に入る。

「エイトッ! おい、エイト!?」

 触っただけで即死かよ、とついた悪態は、結局誰の耳にも届くことはなかった。







「――と、―イト、おい、ぐうたら勇者っ!」

 ぺちん、と乾いた音があたりに響き、エイトはぱちくりと目を瞬かせる。ええと、と現状を把握しようと思ったが、とりあえず目の前にはこちらを覗き込んできているやたら整った顔の男がいる、ということしか分からなかった。ゆらゆらと、身体が揺れている気がする。
 やっと起きたか、だとかなんだとか呟いている仲間の言葉を聞き流しながらゆっくりと身体を起こし、エイトは自分が小さなボートに乗っていることに気がついた。当然のように周囲には水が広がっており、脳内にあのおぞましい化け物の姿が蘇る。ぽここ、と小さな音を立てて浮かび上がった水泡が、ぱちん、と弾けた。

「――――ッ」

 真っ青な顔のまま少年勇者は突然立ち上がる。「あ、おい、ばかっ」とククールが慌てたように手を伸ばしていたが、半ばパニックを起こしているエイトには聞こえていない。とにかくここから逃げなければ、という一心で大きく身体を捻ったエイトだったが、急な動きに大きく揺れたボートはバランスを崩してそのままひっくり返ってしまった。ざぱーん、という大きく、無情な音が森の中に響く。

「あ、あにきぃいいっ!」
「…………何やってんの、あいつら」

 岸辺でのんびりと休憩をしていたヤンガスとゼシカが、それぞれ声をあげていた。
 旅の合間に少し気分転換でもしよう、と訪れた先は呪いを解く効果があるといわれている泉のある場所。一時的ではあるが人間に戻ったミーティア姫も加えて日々の疲れを癒やしていた一行だったが、ボートで昼寝をしていたリーダの奇行により一気に日常の騒がしさが戻ってきてしまった。
 さほど広い泉でもないため、泉に落ちたエイトとククールはなんなく岸まで泳いできたが、当然のことながら全身水浸しである。

「……おい、アホ勇者。ボートの上で激しく動いたら、ひっくり返るって知ってたか?」
「今、身を以てがくしゅう、しました……ごめんなさい、もーしません……」

 寝ぼけていたとはいえ、今のは明らかにエイトが悪い。ククールはとばっちりを食らっただけだ。むにぃいいと右ほおを引っ張られるのも甘んじて受け入れよう。ここで「いよっ、水も滴るいい男!」だなんて茶化したら、きっと左のほおも無事では済むまい。

「あーもう、いいからさっさと着替えなさいよ。バカでも風邪は引くのよ?」
「兄貴、タオル! タオル持ってきたでがす!」

 手渡されたタオルでがしがしと顔を拭きながら、ちらりとひっくり返ったボートの浮かぶ泉を見やる。ふたりのせいで水面はまだ荒れたままであったが、あの三つ目の怪物が現れる様子はなく、エイトは人知れず胸を撫で下ろしたのだった。


おわり





2019.04.01
TOPに戻る