唇まであと何センチ?


(青エク:雪燐)


 血の繋がった兄弟だとか、そもそも彼は悪魔として目覚めてしまっているだとか、己の欲望を押しとどめなければならない理由はそれこそ掃いて捨てるほど湧いて出てくる。よりにも寄ってどうしてこのひと相手なんだろう、と自分でも思わなくないのだけれど、矯正しなければまともな像も結べない視界のなかで、唯一彼だけがはっきりと捕えられるのだから、もうどうにもできないのだろう。
 もともと思考回路はネガティブ寄りで、自分の中のポジティブな部分はすべて兄が持って行ってしまっている。逆に兄の中のネガティブな部分がすべて自分に入り込んでしまっており、それはそれで彼が常に明るく笑っていられるなら別にいいかと考えてしまうのだからもはや重症だ。

 予定していた作業をすべて終わらせ、汗を流して部屋に戻れば呑気な寝息が耳に届く。修道院にいた頃から睡眠時間を多く必要としていたひとだったけれど、この寮に来てもそれは変わらない。今も昔も雪男はずっと燐の寝顔ばかり見ているような気がする。
 どちらかといえば間抜けなその顔を見て、どうして可愛い、と思ってしまうのか。何をどう間違えたらそんな感想を抱いてしまうというのか。雪男自身にも分からない。
 分からないけれど、きっと自分が守りたいものはこれなのだろう、ともそう思う。
 燐の眠るベッドの端に腰を下ろし、手を伸ばして髪を掬った。さらり、と零れるその感触を味わった後、額を撫で、頬を撫でる。尖った耳の先に、開いた唇の端から覗く牙。昔とは少し異なる部分もあるけれど、ここにあるものが雪男の唯一だ。

 ぎし、とベッドが軋む音がするのを、どこか他人事のように聞いていた。親指の腹で軽く触れた唇から視線を外せない。腕を付き、肘を曲げ、上体を折る。ゆっくりと顔を近づけ、音にならぬ声で「兄さん」と呼んだ。
 この唇にキスをしてみたい、と思うようになったのはいつからだろうか。
 いつの頃からか、唇を触れ合わせて心行くまでその口内を舐めてみたい、と。
 ひとには決して言えぬような感情を抱くようになってしまった。
 どうして、と自分でも思う。
 何をどう間違えてしまったのだろう、と。
 すうすうと小さな寝息が鼻先を擽り、そのくすぐったさに現実を取り戻すのもいつものこと。あとほんの数センチで触れ合えたというのに、どうせならキスをした後に我に返れば良いものを、と自分のことながら思う。はぁ、とため息をついて軽く額を触れ合わせた。きっと意気地のない自分にはこれが限界なのだろう。
 守りたいのだ、このひとを。この安らかな寝顔を。
 だとすれば、この先に進んではならない、たとえ彼が知らぬ間のことであったとしても。
 そう思い、緩く首を振って顔を上げようとしたところで。

「……ほんと、ビビリだな、お前」

 言葉と共に伸ばされた両手に後頭部を捕えられた。開かれた真っ青な目に捕えられ、頭の中が白く染まる。一体何が起こっているのか、兄が何を言っているのか、何を求めているのか、まったく理解できていない。
 いや、顔を引き寄せられることを享受し、徐々に唇の間の距離が狭まるのを傍観しているのだから、分からないふりをしているだけ、なのかもしれない。




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2012.04.23
















ヘタレと誘い受け。