暗い闇を切り裂くように発した悲鳴が、実際には音にならず、ただ空しく喉を切り裂くだけだった。
 がばり、と身を起こして、シーツを固く握る。
 「飛び起きる」という動詞がぴったりと当てはまりそうな動作のあと、吐き出される荒い息。その物音にもともと眠りの浅い彼が意識を覚醒させてしまうのも当然で。

「……エイト?」

 低く、呼びかけられる声。
 それにびくり、と震える反応を示すものの、エイトは今このタイミングで彼が起き、声をかけてくれることを、心のどこかで(それはおそらくエイト自身さえ気付かないような深い深い奥底で)望んでいたのも事実だった。
 しかしそんなことを表面に表すこともなく(それは当然彼自身が気付いていないということであり)、「悪い、起こした」と当り障りの無い謝罪の言葉を口にする。
 ばくばくとうるさいくらいに跳ねる心臓を押さえ込みながら発したその言葉は、口にした本人でさえ震えていることが分かる。情けない、と小さく自嘲の笑みを浮かべ、エイトは深く呼吸をした。
 夜気に染められた冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、新鮮な酸素を体内へ取り込む。呼吸をする、という日常的な行為を繰り返すことによって徐々に落ち着きが取り戻せるのは何故だろうか。
 おそらく当たり前すぎる行為だから、だろう。
 そんなことを考えていたエイトは気付かなかった。隣の、窓際のベッドの上で彼が身を起こし、じっとこちらを凝視していたことに。

 エイトの神経がククールへ向いたのは、彼が起き上がってエイトのベッドへ近寄ってきたときだった。
 銀糸の髪を持つ彼は無言のままエイトを見下ろしたかと思うと、何の戸惑いもなくすっとその利き手を伸ばしてくる。冷えた指先が頬をたどり、ゆっくりと眦まで登ってくる。
 ククールのその動作に、エイトはようやく、自分が涙を流していることに気がついた。

「これで『何でもない』っつったら、怒るよ?」

 涙に濡れたその細い指を一度エイトの頬から離すと、見せ付けるように自分の口元へと持っていく。
 平坦なその声に感情は読み取れず、だからこそ逆に、その言葉が彼の心の底からのものであることを物語っているようだった。
 エイトは諦めるようにもう一度深く息を吐くと、今度は自分で乱暴に涙を拭ってから、ククールを見上げた。

 青い目が真っ直ぐにこちらを見下ろしている。

 誘われるように手を伸ばしてククールを自分のベッドへと引き入れた。逆らうこともなく素直に隣に転がった彼へ、自分から腕をまわしてぎゅうと抱きつく。
 自分よりいくぶん低いとはいえ、それでも暖かいその体温に安心するかのように、エイトはほっと、息を吐いた。

 彼はここにいるのだ、と。
 体の全てで感じ取りたかった。

 いつもの彼からはかなりかけ離れたその行動に、ククールは何を言うこともなくただされるがままだった。胸元に顔を埋めるエイトの髪を戯れに梳き、細い肩へ指を這わせる。それは夜の艶やかさを伴ったものではなく、単純に、エイトへの愛しさの溢れた動き。そう、それは子供をあやし、慰める母親のそれによく似ていた。

「夢を、見たんだ」

 どこまでも優しく、甘く身体を這う彼の手のひらに促されるように、エイトはくぐもった声で、ぽつり、と呟く。

「お前が、消えてしまう夢」

 夢の中で自分は、どこか分からぬ場所にいた。
 何もない、空っぽの世界。
 見知らぬ場所だというのに心細さを感じなかったのは、おそらく隣に何よりも大事で、何よりも愛しく思う存在を感じていたから。
 だから不安など、まったく感じていなかった。それなのに。

「突然真っ白に世界が光って、今まで、確かに隣にいたのに」

 愛しい人が線だけになって、そのまま消えてしまう夢。


 たまに、彼を見ていて思う。
 このまま消えてしまうのではないだろうか、と。
 何故そう思うのかは分からない。
 ただ、たまに強く思う。

 彼は、自分を置いてこのまま消えてしまうのではないだろうか、と。


 そんな彼をどうしたらここに、自分のもとにつなぎとめられるのか。
 エイトにはまったく分からなかった。


「俺には、何もないから」
 お前をつなぎとめられるようなものが、何も。

 夢の中で見た、空っぽで何もない世界は、おそらくエイト自身の心の中。
 エイトの中には何もない。本当に何もない。
 何かがあるとしたら、それはきっとどうしようも出来ないほど醜く、どろどろと湿った彼への執着心だけで。


 震える手でしがみ付いてくるエイトをそっと抱きしめて、ククールは俯いたままだった彼の顔を上げさせた。
 先ほどまで漆黒の瞳を彩っていた涙は今や影もなく、夜の闇と同化そうなほど深いその目は、目の前にいるはずのククールを捕らえているようで、その背後の、何もない空間を射抜いているようでもあった。

 何もない、とエイトは言う。
 自分には何もない、と。
 それは確かにそうだ、とククールも思う。
 おそらく否定してやらなければならないことなのだろうけれど、ククールにはそれができない。
 エイトには何もない。
 強い漆黒の瞳が何かを映したことなど、おそらくこれまで無かっただろう。
 そしてこれからも無いだろう。
 どこまでも、果てしなく空虚な存在、それが彼が求めてやまぬエイトという人間だった。

 くつり、と笑みを(おそらく自嘲の笑みを)浮かべて、ククールは口を開いた。

「いいんじゃね? オレにも何もないから」

 ククールにだって、何もない。
 エイトを満たしてやることが出来るようなものを、ククールは何も持っていない。
 銀髪だとか、青い目だとか、整った容姿だとか。
 恵まれている、と思えるようなものを得ていてさえ、彼へ与えられるものがなければ、何も手にしていないのと同じだった。
 だから、ククールにも何もない。
 本当に何もない。

「何もないお前と、オレと。それでちょうどいいんじゃねぇの?」

 互いに互いを満たすことが出来ず、それならばそれで、ちょうど良いのかもしれない。
 そう思わなければ、この小さな身体へ触れることさえできなくなりそうだった。

 軽く、どこまでも軽くそう言ったククールへ、エイトは「お前らし」と小さく笑をこぼす。そのままククールの腕の中でくすくすと笑い、暫くして顔を上げた彼は、やはり空虚な目のままにやりと笑みを浮かべた。


「どうせこの世界にだって、何もねぇもんな」


 この世界にだって、何もない。
 ククールをつなぎとめるものも、
 エイトを満たすものも。
 本当に、何もない。


 何もない世界で、何もない二人が互いに額をつき合わせ、
 何もない笑みを浮かべて、
 そのまま長い口づけを。


 この世界に何もないのだとしたら、
 きっとおそらく。
 二人の間に横たわるものも何もなく。
 二人を隔てるものさえないのだろう。


 それを確かめるかのように、
 しっとりと重ねられた唇は当分の間離れることはなかった。




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2005.05.26








初っ端からマイナ路線を走ってみた。