恐怖にその身を支配され


「オレは、たまにお前が怖くて仕方ないよ」

 いつのことだっただろうか、以前、共に旅を始めた直後だった気もするし、ずいぶんと時間を共有した後だったような気もする。とにかく以前、彼にそう言ったことがあった。彼はいつものようにおどけて「こんなに優しくて紳士的な俺さまのどこを怖がるの」と言っていたが、発したその言葉は本心だった。

 彼の姿を見ていると、特に、オレンジ色のバンダナを揺らして先頭を歩くその小さな背を見ていると、怖くて仕方がなかった。

 一体その背にどれだけのものを背負っているのだろうか、と。
 常人なら絶えられぬほどのものを背負っているはずなのに、どこまで行くつもりなのか、と。

 何も言わぬこちらをどう思ったのか、彼は少しだけ怪訝そうな顔をして「何泣きそうな顔してんだ」と、そう言った。

「……何が怖いんだよ」

 どうやらふざけて言っているのではないことを感じ取ったらしい。続けて彼にそう問われ、少し考えて口を開く。

「お前、優しいから」
「優しい? 俺が?」

 驚いたように目を見張る。それもそうだろう、おそらく彼はそのようなことを言われたことがないはずで、それを意識したこともないはずだ。

 だからこそ、怖かった。
 無意識なのだ、彼の優しさは。
 誰かを助けたいとか、よく思われたいとか、そういった考えや打算が働いた末でのものではなく、無意識なのだ。
 そうあらねばならぬ、と、身体が覚えこんでいるだけなのだ。
 背景に何もない優しさほど怖いものはない。
 彼を見ているとそのことを深く痛感する。

 たとえば、好きな相手を身を呈して守る。
 そこには人によってはそれによって好意を得られるかもしれない、という打算を持つこともあるだろう、あるいは単純に、好きな人に傷ついてもらいたくないという気持ちだけあるのかもしれない。守ったその結果胸に広がるのは満足感のはずで、その満足感を得られただけでも身体を投げ出すには十分だ、そういう考えもあるかもしれない。
 しかし、彼にはそういった満足感さえない。
 相手が好きだから守るとか、そうではないのだ。
 守らなければならないから守る。彼の中にあるのはそれだけで、それによって彼が得られるものは何もない。
 何ひとつ、ない。

 たとえば、傷つくことによって彼が何かを得られるのなら自分勝手な奴だ、と怒ればそれで済む。お前は満足だろうが、それを見るこちらの身にもなれ、と。
 その言葉を彼に言ったところで一切無駄である、と気づいたのはいつ頃だっただろうか。
 そもそも人を守ることで彼は満足を得ていない。
 前提からして間違っているのだ。

「お前はどうしてそんなに一人でどこまでも行こうとするんだろうな」

 抽象的な物言いに彼は顔を顰める。

「一人じゃねぇよ、皆いるじゃん」
「よく言うよ、誰も、」

 信じていないくせに。

 そう言おうと思って、口をつぐんだ。
 言ってはいけない言葉だ、そう思う。
 彼が傷つくとか、そういう問題ではなく、それを肯定されたらどうしたらいいか分からなくなる、だから言わないほうがいい。


 彼は誰も信じてはいない。そもそも信じるということがどういうことなのか、分かってすらいないかもしれない。
 それなのに、いや、それだからこそ、全てを守るかのように武器を手に取り、先頭を歩く。
 おそらく誰が止めようが、どこまででも歩き続けるだろう。
 どれほどその身体に傷がつこうが、構うことなく歩き続けるだろう。

 そんな彼の姿を見るのが、怖かった。
 怖くて、悲しかった。
 悲しくて、腹立たしかった。

 何故一人で全てを背負うのか、と。
 痛いのなら痛いと、辛いのなら辛いと声を上げてくれさえすれば。
 名を呼んでくれさえすれば、いくらでも共に歩むというのに。
 いくらでもその負担を軽減するように努めるというのに。

 どうして何も言わないのか。
 どうして名を呼んでくれないのか。
 そう思うと、腹立たしくて仕方がなかった。




**  **




 何かを考えていたのか、と問われれば否と答える。
 ただ怖かったのだ。
 彼の姿を見るのが怖かった。
 まるで、たった一人であの巨大な敵へと向かっているかのようなその背中を見ていると、怖くて仕方がなかった。
 その恐怖を感じたが最後、身体が自然と動いていたのだ。
 そうすることが当たり前で、違和感などどこにもなく、そうしなければならないという義務感もなかった。
 ただ身体が動いた、それだけだ。
 以前からそうするように決められていたかのように、本当に自然に。

 神とまで呼ばれる存在の攻撃を身体一つで受けようなど、無茶で済む問題ではない。地上に現れる魔物とは格が違うのだ、あとで回復魔法を、というわけにはいかない。
 それでも、身体が動いていた。

 誰も傷つかぬよう、その背に全てを背負って先頭を切る彼を守るように、身体が動いていたのだ。

 赤い服を更に赤く染める血液、手袋の上からだというのにぬるり、と嫌な感触がする。
 膝に力が入らない、出血が酷いわけではない、攻撃された衝撃のせいだろう、と他人事のように冷静に考えている自分がおかしくて、思わず笑みを浮かべた口端から、つぅ、と血が流れた。
 口の中に広がる鉄の味を感じながら、せめて一度だけでもいいから名を呼ばれたかった、とふと思う。普段の会話の中では何度となく呼ばれてきたけれど、そういう意味ではなく。
 助けを求める、その声が。
 自分を必要として呼ぶその声が聞きたかった。



 なぁエイト、一度だけでもいいから、オレを呼んでくれよ。





***





 いつのことだっただろうか、以前、共に旅を始めた直後だった気もするし、ずいぶんと時間を共有した後だったような気もする。とにかく以前、彼に言われたことがあった。

「オレは、たまにお前が怖くて仕方ないよ」

 その言葉の真意を理解することはできなかった。今も分からないままだ。
 しかし今は、今だけはその言葉をそっくりそのまま彼に返してやりたかった。

 彼が怖くて仕方がない。
 今まさに目の前で崩れ落ちていく彼が、このままどこか手の届かぬ場所に行ってしまうのではないか、と。
 そんな恐怖に、そうそれはまさしく恐怖と呼ぶ以外ない感情に、体中が支配された。
 その感情のまま、
 自分を置いていってしまわぬよう、全霊を込めて叫ぶ。

 この世で唯一の、その名前を。



「ククールッ!!」





ブラウザバックでお戻りください。
2005.06.07








双方の呼びかけが届けばいい、そう思います。