声にならない言葉 宿屋一階に設けられたスペースで、カップルがいちゃついていた。 女が男の背に指で文字を書いて後ろから「ねぇ、今のは?」と書いた言葉を尋ねているのだ。なんてベタな、と呆れながら、ククールは彼らの横を素通りしてカウンタへ向かう。 「『すき』だろ」と男が答え、女が「じゃあこれは?」と次の問題を出す。 「『あいしてる』。……そういうのは口で言って欲しいな」 ああ、もう頼むから部屋でやってくれ。 そう思いながら鍵を受け取ったククールは気付いていなかった。 エイトがまるで、動物園の檻の中を眺めるかのようにそのカップルへ視線を向けていたことに。 今日もまたいつものように相部屋となったククールとエイト。またいつものように窓側のベッドをククールが使用する。荷物を放り投げてひと息つくと、ククールはさっさと寝る準備を始めた。今日はなかなかハードな行程だったのだ。体力がないと常日頃からエイトにバカにされている身、平均より劣っているとは思わないが、確かにエイトたちに比べれば低いのも事実なので、こういう日は余計なことを考えずにすぐ寝てしまうことにしていた。 髪を解いてリングピアスを外す。堅苦しい騎士団の上着を脱ぎ捨てたところで、真向かいのベッドに腰掛けて同じように寝る準備をしていたエイトが、何を思ったのか立ち上がってこちらに向かってきた。 どうした、と問い掛けるまもなく、彼はククールのベッドに上って背後に回る。 彼がその気になったというのならば、多少の疲労はなかったことにして相手をしないでもない。 そんなことを考えていたククールの耳に、「ねぇ、何て書いたかあててね」と、どこかで聞いたことがあるような台詞が飛び込んできた。 同時にククールは軽い頭痛に襲われる。 どうやら彼は下で見たカップルの真似をしているらしい。 これであの二人と同じように『すき』だの『あいしている』だの書いたならば、そのまま問答無用で押し倒すことにしよう。 ククールがそんな決意を胸に秘めていることなど気付いていないエイトは、ゆっくりと彼の背中へ指を滑らせた。 「……か? ん、せ……」 一文字一文字拾って読み上げていく。すべて当たっているのだろう、エイトが「つまんねぇな」と呟いた。その間にも彼の指は文字を紡ぎ続ける。 「『かんせつがいたい』……関節? お前、口で言えよ、そういうことは」 最後まで読み終えて、ククールが呆れたように振り返って言った。わざわざ背中に文字を書いた意味が分からない。本当にただやってみたかっただけなのかもしれない。 「何で? どこかぶつけた?」 「いや、記憶にない。ってか、節々が痛い。肘とか膝とか」 ククールのベッドの上で足を伸ばし、自分の膝を撫でながらエイトは答える。 「ふぅん。成長期には関節が痛くなるけどな。お前、背、まだ伸びるんじゃない?」 そう言うと、エイトは「え? マジで?」と嬉しそうに顔を輝かせた。 「そうかそうか、俺、背が伸びるのか。明日の朝が楽しみだ!」 「いや、待て待て待て。いくらなんでも一晩じゃ伸びねぇ。お前、何類よ。何の植物よ」 呆れて声をかけはするものの、エイトは聞いている様子もない。嬉しそうにベッドから飛び降りると「じゃあお休み」と自分の布団の中へもぐりこんだ。 明日の朝、背が伸びていないことにエイトはどんな反応を示すだろうか。「嘘つき」とククールを罵るだろうか。残念がるだろうか。 そう考えて、どうせ覚えていないだろう、と結論付ける。 いやしかし、エイトのことだから本当に背丈を一晩で伸ばすくらいやりかねないな。 自分より大きくなったエイトを想像して、ククールは軽く首を振ると、彼もまた自分のベッドの中へともぐりこんだ。 いつも通りの朝を向かえ、いつも通りに出発の準備を整えて、いつも通りに次の目的地へ。 何ら変化のない始まりではあるが、旅の目的に着々と向かっている。それをひしひしと体で感じながら進む旅。 どんどんと強くなる魔物を相手にしているため怪我も絶えず、以前よりは確実に前へ進む速度が遅くなっている。しかし焦りは禁物、何ものにもまずこちらの命があってのことなのだ。たとえ遅々とした歩みであったとしても、一歩ずつでも前に進むことが大切なのだ。一戦一戦気を抜かずに、確実に敵をしとめる。ここのところ、トロデ王が毎日のように皆へ言っていることだった。 皆はその言葉を守るかのように、どんな敵が現れても正面から戦い、勝利を続けている。 そんな中、行く手をふさぐかのように立ちふさがった魔物の群を倒し終え、そろそろ昼も近いということで街道脇で休憩を取ろうという話になる。 その矢先のことだった。 「っ!?」 突然ククールの隣を歩いていたエイトが転んだのだ。 「お前、何やってんの」 呆れたような顔をしているククールから差し伸べられた手を素直に握って立ち上がると、エイトは服の埃を払って「躓いた」と簡潔に答えた。 しかし、そう答えはしたものの本当に躓いたのかどうかは本人にも分かっていなかった。 関節の痛みは昨晩から引くことがなく、むしろ酷くなっている気がする。今転んだのだっておそらくそのせいだと思う。どこか体も重い。昨晩ククールは成長期がどうのということを言っていた気もするが、そうならばそのうち引くだろうと、エイトはそう考えていた。 彼の返答を聞いたククールがどこか妙な顔をしていたが、その理由をエイトが分かるはずもない。それを考えるよりも、彼にはやらなければならないことがある。まずは馬車を移動させて、昼食の準備をしなければ。 さっさと自分の仕事へ戻ってしまったエイトは気付いていない。彼の背中を、やはりククールが首をかしげたまま見やっていたことに。 関節の痛みと重たい体を引きずって、何とか一日を乗り切った。エイトはほっと息をついて、宿屋のベッドへ体を沈める。こんなにも布団がありがたいと思ったことは久しぶりである気がする。特にこの旅を始めるようになってから、守るべき主君を馬車に眠らせて自分だけが、と中々ゆっくり休む気になれなかったため尚更だ。 服をくつろげることさえ面倒くさくてもうこのまま眠ってしまおうか、そう考えていたところでふとベッドが軋み沈んだ。そしてゆっくりと伸ばされた手に気付く。 「ちょ、ククール、何」 エイトの文句は最後まで言葉にならず、ククールの口腔内へと吸い込まれてしまう。そのままいつものように舌を差し入れられ、ぐちゃぐちゃとかき回される。息苦しさに胸を叩くと、ようやくククールが解放してくれた。 はぁ、と荒く息をついて、予告すらなく仕掛けてきた彼を睨む。 「何すんだよ。言っとくけど俺、今日する気ないからな」 唾液でぬれた口を拭いながらそう言うと、意外なことにあっさりとククールは体を引いた。そして無言のまま部屋を出て行く。 自分で拒否をしておきながら、エイトは彼のその反応に驚いていた。いつものククールならば、こちらがいくら拒絶しても何やら理由をつけて迫ってくる。結局は流されてしまうことも多い。 珍しく素直に引いてくれた彼に戸惑いながらも、エイトは「ま、今日は関節痛いし、いっか」と自分を納得させるかのように呟いた。 そう、今日は関節が痛いのだ。体も重たいし、そんな日に彼の相手をするなど冗談じゃない。 そう思いはするものの。 「あー……なんか俺、がっかりしてね?」 言葉にすると尚更そんな気がしてきて。 沈みそうになる意識を無視して、エイトはもう寝てしまおうと、そう思った。 どうせククールは今晩は戻ってこないだろう。エイトが相手にならないとなれば、酒場のおねいさんでもひっかけてよろしくやってくるだろう。彼がそういう人であることは分かっていたはずだ。それが悪いとも思っていない。 思っていないのだが。 優しく頬に触れた手、重なった唇、熱く柔らかい舌。 先ほどの感触がまざまざと蘇ってきて、今彼がここにいないことを余計にはっきりと感じてしまった。 ちくしょう、何で俺がこんな…… ぼんやりとそんなことを考えながら、人のいない隣のベッドを見やっていたところで、突然ガチャリと部屋のドアが開く音がする。 驚いてそちらを見やると、何やら硝子コップと包みを持ったククールがそこには立っていた。彼は部屋を出て行ったときと同じように無言でこちらへと近寄ってくる。 「何で、お前」 帰ってきたの、酒場のおねいさんは。 そう問いかけようとしたところで、手にしていたコップをサイドテーブルに置いたククールに支えられて上体を起こされた。いまだ頭に巻いたままだったバンダナを剥ぎ取られ、前髪を払って額をこつんと合わされる。 「お前、自分に熱あるの、気付いてなかったんだな。口の中、ずいぶんと熱かったぞ」 呆れたように言われて、エイトは驚いて目を丸くした。 「熱?」 「そう、お熱。関節が痛いって言ってたな、風邪だよ、そりゃ」 悪かったな、昨日の夜気付いてやれなくて。 すまなそうに顔をしかめられて、エイトは首をかしげる。どうして彼が謝るのだろう、体調を悪くしたのエイト自身の管理がなっていなかったからで、それに気付けなかったのも彼が悪いわけではないのに。 しかしその疑問を発する気力さえ、既にエイトには残っていなかった。 「薬飲んで、今日は一晩ゆっくり寝ろ。ゼシカたちには言ってあるから、引かなかったら明日も寝てろ」 そう言いながら、ククールはテーブルの上の硝子コップと粉薬をエイトに手渡した。熱があると言われたからか、急に頭が重くなり、全身のダルさも増した気がする。ククールの言葉に素直に頷いて、エイトは薬を飲み干した。その彼の様子を見てククールは「偉い偉い」と子供にするように頭を撫でてくる。 服をくつろげさせられて、そのまま布団に押し込められて。 普段はあれだけ飄々とした態度の彼ではあるが、こういうところでは案外世話焼きなのだ。きっとこんな彼を知っている人間は少ないだろう。 そんなことをぼんやりと考えていると、ククールの手が額に伸びてきた。少しだけ眉をひそめると、彼はまた無言のまま立ち上がる。 今度こそどこかへ行ってしまうのではないだろうか。 そんな不安に襲われたエイトは、咄嗟にククールの服のすそを掴んだ。 「どこ、いくの?」 尋ねたその顔がよほどおかしかったのだろうか。 目を見張ったあとで彼はくすりと笑みをこぼして、「氷枕もらってくる。すぐ戻ってくるから」と優しくエイトの手を布団の中へと戻した。 そのまま部屋を出て行ったククールは、宣言通りにすぐに氷枕を手に戻ってきた。タオルでくるまれたそれを頭の下へ差し入れられて、ひんやりとした心地にエイトはゆっくりと目を閉じる。 しっかりと手を握り返されたその安堵感と、優しく髪を梳かれる心地よさに、エイトはすぐに眠りの世界へと旅立っていった。 すやすやと安定した寝息を吐き出すエイトを見下ろして、ククールは軽くため息をつく。 彼の左手はエイトにしっかりと握り締められていて解けそうもない。たとえその力が弱くともほどくつもりはなかったが。 彼は気付いているのだろうか。 ククールが氷枕を手に戻ってきたとき、その姿を目にした瞬間、明らかにほっとした表情を浮かべていたことに。 伸ばされた手を握り返してやると、嬉しそうに微笑んだことに。 「ちくしょう、可愛いじゃねぇか……」 悔しそうな言葉が、静かな室内へぼそりと呟かれた。 ブラウザバックでお戻りください。 2005.03.26
「風邪をひいているのに気付いていないエイトさんと、それに気付くククールさん」というリクを頂いたので。 …………今回はちょっとリク内容に沿ってるっぽくないですか?(自画自賛) |