rainy day


 頭上に広がる空間は「空」と呼ばれるものらしい。
 その空からたまに落ちてくるものがある。その落ちてくるものか、それともその現象そのものかは分からないが、とりあえずそれらは「雨」というらしい。
 雨が「川」を流れる「水」と同じものであることに気づいたのは、それを知ってからしばらくしてのことだった。
 流れる水はどんなものでも押し流してしまいそうなほど力を持っているように見え、あまり近づきたいと思う対象ではなかった。
 その水と同じものが空から落ちてくるのだ。
 怖いな、と漠然とした思いを抱くのも仕方がないことで、ただその思いを彼が「恐怖」として理解したかはまた別の問題だった。



 コンコン、とノックの音が室内に響く、小さな町の宿屋の一室。カーテンを引いているわけでもないのに室内が薄暗いのは、外が雨のせいだった。たまたまそういう時期だったのか、雨はこれで三日、降り続いている。
 外を歩く分には多少の雨など障害にならないが、魔物を倒しながら旅をする身にとって悪天候はそのまま命の危険へと繋がる。足場も悪く見通しも悪い中で魔物と戦闘などしていられない。それでなくともこちらには、元王女だという白馬がいる。優雅に歩く彼女を雨にさらせるはずがない、とトロデ王が出立を拒否するので動くに動けない。仕方なくエイトたち四人は、雨が止むまでゆっくりと宿屋で静養することになった。

「どうぞ」

 屋根を叩く雨の音を縫うように響いた音に、室内にいた人間が返事をする。扉のきしむ音がしたと同時に、パーティメンバの紅一点、ゼシカが顔を覗かせた。

「あら? あんた、眼鏡なんてかけるの?」

 部屋に入り椅子に腰掛けて本を読んでいたククールを見て、ゼシカは首を傾げる。銀縁でシンプルな眼鏡をかけて文字を追う彼は、「エイト対策」と言葉を発した。

「『本を読むなら眼鏡は必須』ってのが馬鹿の言い分なんだよ。無視してると鼻眼鏡かけさせるぞ、って脅迫してくるから」

 その言葉にゼシカは苦笑を浮かべて肩をすくめる。確かに、エイトなら言いそうな言葉だ。そしておそらく彼は鼻眼鏡を持っている。それもパーティメンバ全員分は確実に用意しているだろう。部屋で本を読もうとするたびにその攻防が繰り広げられ、対策として眼鏡をかけていたのが習性になってしまったのだと、ククールはそう言った。

「で、その馬鹿は?」

 ゼシカが尋ねるとククールは壁際のベッドを指差す。近寄って覗き込むと、そこにはすやすやと眠り込むエイトの姿があった。彼の頭の側にはきちんと閉じられた本と、その上にちょこんと乗っかる鼻眼鏡。やっぱり用意してたか、と苦笑し、彼を起こさぬようにそのベッドへと腰掛けた。

「もしかしてこの子、ずっと鼻眼鏡かけて本読んでるの?」
「もう慣れた」

 言いながらククールは本を裏返して机の上に置くと、立ち上がって備え付けの戸棚の方へと足を向ける。
 おそらく本を読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。きちんと閉じられた本や、かけられたシーツはそれに気づいたククールがやったに違いない。普段は飄々とし軽い空気を持つ彼だが、意外に几帳面な性格なのだ。
 どうぞ、と渡された紅茶の香りを楽しみながら、ゼシカはその世話焼きな男を見やる。
 彼は取り立ててゼシカを相手にすることもなく、再び静かに読書へと没頭していった。

「あんたって、本読むの、好きよね」

 ふぅ、と湯気を吹きながらそう言うと、ククールは「んー、まぁ、暇なときは大抵読んでるかな」と答える。言いながらも文字を追うことを止めないのだから、なかなか器用だ。
 その彼の返答に、ゼシカはふふふ、と笑みを零す。それを聞きとめたククールは、ようやく顔を上げて彼女の方を見た。

「いや、だって、前のあんたなら『女性を口説くのに必要な教養を得るためさ』とかなんとか、適当なこと言ってそうじゃない。そんな風に誤魔化されなくなったのって、仲間として認めてもらえたのかなって」

 嬉しそうに笑いながらそういうゼシカへ、思わずククールも笑みを浮かべる。
 確かに彼女の言うことも一理ある。それほど深く関わる気のない相手には適当なことを言う癖が付いているのだ。相手に深入りをせず、深入りもさせず。淡白な関係が自分には合っていると思っていたのだが。

「ヤンガスは?」
「エイトと同じ。昼寝してるわ」

 だから話相手もおらず、退屈していたのだろう。この小さな町に娯楽施設などあるはずもない上に、そもそもこの雨なのだ、どこへ出かける気にもなれない。
 カップを口へ運びながら、ゼシカはエイトの側に閉じてあった本を手に取った。膝の上でぱらぱらとめくり、「これって小説?」と首を傾げる。

「実話って謳われてるけどな。冒険小説に近い」
「へぇ。エイト、こういうの読むんだ」
「てか、オレが貸した。小難しい話は無理だろ、そいつには」
「確かに」

 雨音しか響かない静かな部屋の中で、二人の会話が穏やかに続く。普段はあまり漂わない雰囲気に、それぞれが居心地の良さを感じている。たまには先のことを忘れたこういう時間も取った方がいいのだろう。もしかしたらトロデ王はそこまで見越して、強固に出立を拒否したのかもしれない。
 ふと窓の方を見やればしとしとと降り続く雨が目に入る。外の景色は灰色のヴェールを被ったかのように、ぼんやりとして見えた。

「オレ、雨って苦手なんだよなぁ」

 ぼそり、と呟かれたことに、「そうなの?」とゼシカが首を傾げる。

「あんまりいい思い出がないんだ。オディロ院長の葬儀も雨の日だったし」
「ああ、そうね、あの日も雨が降ってた」

 大勢の騎士団員や教会の人間に見守られながら彼が大地へと還っていったあの日、まるで泣いているかのように空からも大粒の雨が降っていた。

「私は結構雨って好きよ。なんだか時間がゆっくり流れてる気がするし、こんな風にのんびりできるのも雨だからでしょ? 髪の毛が跳ねちゃうのがちょっとあれだけど」

 付け加えられた女性らしい言葉に、ククールが笑みを浮かべる。
 跳ねてても可愛いから問題ないと思うけど? そんな言葉を口にしようとしたところで、ゼシカの背後からうめき声が聞こえてきた。どうやらエイトが目覚めかけているらしい。
 サイドテーブルの上へカップを置いて振り返った彼女は、笑みを浮かべて「おはよう、起きた?」とエイトの前髪を払う。
 一度ぎゅう、と硬く閉じられたあとゆっくりと開かれた目はぼんやりとしており、彼はまだ半分夢の世界にいるようだった。しかし夢うつつながら少し前から意識は浮上していたらしく、エイトは掠れた声で「俺も」と呟いた。

「俺も、雨、苦手」

 つい今しがたの二人の会話を聞いての言葉なのだろう。舌足らずな口調での発言に、ゼシカとククールは顔を見合わせて苦笑を浮かべる。

「どうして苦手なの?」

 いつものエイトからは考えられないほど無防備なその表情に、いつも以上に彼が幼く見える。年の近い弟がいたらこんな感じかしら、とゼシカはなんとなく思った。
 頭を撫でられると安心するのか、気持ち良さそうに目を細めて、エイトはぽつりぽつりと言葉を続ける。

「昔、見た川……流れが速くて、全部押し流してしまえそうだったんだ。空から降ってくる雨っていうのが、川に流れているものと、同じものなんだって気づいてから、雨、駄目になった」

 どこか違和感の残る言葉。しかし二人ともエイトが人とは少し違った幼少期を送っていることを知っている。優しく髪を梳いてやりながら「流されそうで、怖かったの?」とゼシカが尋ねると、彼は小さく首を振る。

「だって、雨、避けようが、ないじゃん」

 相手が川ならばそこに落ちなければ良いだけの話。しかし雨の場合はそうは行かない。いくら避けるといっても外出中に突然降られることだってあるわけで。


「俺、もともと、何も持ってないのに。
 これ以上、何かを、流されたくない……」


 世界は自分には分からないことだらけだった。漠然とした空間、漠然とした物体、漠然とした感情。捕らえどころのないものばかりに囲まれていたあの時期に初めて見た川は、とても流れが速いものだった。近くに掛けられていたのだろう橋が勢いに押されて粉々に砕け、その欠片が濁流に飲み込まれていく。
 それが「川」と呼ばれるもので、流れている茶色のものは「水」というもので、水は全てをどこかへ押し流してしまうのだと。
 穏やかな流れを知る前にその思いが頭にこびりついてしまったものだから。
 空から落ちてくる「雨」が「水」であることに気づくと同時に、だとしたらこの雨も全てを押し流してしまうのだろうか、とそう思った。
 あの川と同じように。
 ほんの少し前まで手の届く位置にあったはずのものを、あっという間に遠くへ運び去るのだろうかと。
 そうなったものはおそらく、もうニ度と自分の手の中には戻ってこない。
 押し流されていった橋の破片と同じように。

 自分が何も持っていないらしいことは薄々分かっていた。それが家族だとか家だとかそういった物理的なものではなく、もっと精神的な、目に見えない何かすらおそらく欠如しているのだろうということはなんとなく分かっていた。後々物事を知るにつれそれらが知識だとか感情だとか、そう呼ばれるものだと分かってきたが、それを知ってより一層、そういったものが自分に欠けていることに気が付いた。
 折角ここまで物事を学んだのだ。
 足元に広がるものを「大地」と呼び、頭上に広がるものを「空」と呼ぶこと。大きな水溜りは「海」、空に浮かぶ光る塊が「太陽」。太陽が出ているときは「昼」、太陽が沈み暗くなったら「夜」。夜になったら目を閉じて眠る、しばらく眠らないと動けなくなる。朝昼晩と三回食事を取る、しばらく取らないと動けなくなる。一つ一つ、ゆっくりと吸収していった。
 相変わらず感情というものが良く分からなかったが、いくつかのパターンを繰り返して見、体験するうちにどういうときに人が「喜び」、どういうときに「悲しむ」のか、またそれらの表情を知った。
 人と同じような知識を蓄え、人と同じように喜び、悲しむ。


「折角、人に、ちょっとだけ、近づけたのに」


 水は全てを押し流す。
 得たもの全てを流されてしまったら、自分はまた昔のように何も分からなくなってしまうのではないだろうか。
 それが、嫌だった。

 それが、怖かった。


 雨の音を聞くと自然と脳裏に蘇る流れの速い川。
 だからエイトは雨が苦手なのだ。
 ぼんやりと白いシーツを眺めながら、エイトは目を細める。柔らかく髪の毛を梳いてくれる感触が心地よい。遠くの方から聞こえてくる雨の音も気にならなくなりそうだ。
 そんなことを考えながらそのまま目を閉じると、雨の音を消すように「大丈夫だよ」と優しい声が耳に届いた。誰の声だろうか、考えるが名前が出て来ない。もしかしたらもう雨に流され始めているのかもしれない。
 それでもよく知っているその声は聞いているだけで安心できる。そんな低い声に「大丈夫」と柔らかな女性の声も重なった。これもよく知っている、とても安心できる声。誰だっただろうか、やはり名前が出て来ない。


「雨がお前の何かを流したとしても、すぐにオレたちが拾い集めてやるから」
「ちゃんと全部エイトに返してあげるわよ」


 エイト、というのはおそらく名前、ああ、それが自分の名前だ。
 もっと呼んでもらいたいな、とふと思う。
 名前を呼んでもらえるということは、自分がそこにいるということ。きちんと同じ空間に存在しているのだということ。


「たとえ見つからなくても、また別の何かを手にすればいいのよ」
「そうだぞ、エイト。世界はお前が思ってるほど狭くない。まだたくさん色んなことが転がってるんだ」


 知らないことがたくさんあるのも、悪いことではないのかもしれない。
 そう思え始めたのも、確か、この声の主たちのおかげ、だったような気がする。
 「大丈夫だから」そう言ってくれる彼らがいたから。
 ふわり、と大きな手に頭を撫でられ、同時に「だから安心して寝てろ」と囁き声。
 柔らかく温かな何かが頬に触れ、同時に「良い夢をね、エイト」と囁き声。
 それに頷きを返したところで、すぐそこにまで来ていた睡魔に身を委ねた。



 「ん」と小さく返事をしたあと安心したような笑みを浮かべ、エイトは再び眠りの世界へと入っていった。すうすうと可愛らしく寝息を立てる彼を見やる二人の目つきはどこまでも優しく、深い愛情に満ち溢れていた。

 守るとか守られるとか、そんな物騒な思いは抱かない。ただただ彼と共に生きたいと、そう思う。もし彼が欲するのなら支えになろう。力になろう。求められたらできる限り答えたい。だから、彼の側にあることを許してもらいたい、そう思う。
 好きなのだ、何処までも幼く、何処までも強いこの少年が。どうしようもなく、どこまでも共に歩きたいと思えるくらいに。

 彼が覚える不安を完璧に理解することは不可能だ。彼の思考は彼だけのもので、彼の感情も彼だけのもの。それでも、自分たちが彼から得られる安らぎと同じくらいに、いやそれ以上に、彼にもそういったものを感じてもらいたい。
 なかなか自分のことを深く話せない彼が、今のような不安を表に出すのは非常に珍しいことだ。だから不謹慎ではあるが、二人の機嫌は今非常に良かった。


 やんわりとエイトの髪を梳きながら、ゼシカが小さくあくびをする。

「何だか私も眠たくなっちゃった」

 そう言ってそのままエイトの隣へころん、と横になった彼女へククールが自分のベッドから剥ぎ取ったシーツを被せる。

 机の上には冷めた紅茶。外は相変わらずの雨。
 小さな文字を目で追いながら、こういう雨の日も悪くないな、とククールは思う。
 雨は苦手だ。それでも、こんな風に優しい空間を味わえるのなら、たまには悪くない。
 そんなことを思いながら、ククールはこちらにも伸ばされた睡魔の腕に身を委ねるべく、本を膝に置いたままゆっくりと目を閉じた。




ブラウザバックでお戻りください。
2006.06.10








ヤンガス無視してごめんなさい。
書けば書くほどエイトの嫌いなものが増えていく。
そのあたりの詳しいことはまた別の話で。