天秤 生きているものなら誰もがふと陥る瞬間、というものがあるだろう。 たまに酷くどうしようもなく不安定になる、そんな瞬間。 青臭いと笑われるかもしれないが、生憎とククールはまだ二十年弱しか世間を知らない若造である。この程度で何かを悟ったような顔をしては、四十年、五十年生きた人間に対して失礼というものだ。 自分が誰にも必要とされていないのではないか、とか。自分自身の存在意義だとか、そんな、くだらない疑問、不安。考えたところで答えがでるはずもないもの。己の卑称さ、卑俗さに見切りをつけようと思うも、そんな自己卑下もただの自己満足にしかなりえず、何をどう考えたところで結局はぐるぐると同じところを回り続けているような、そんな気がする。 家族というものに夢を見たことは一度としてない。両親がいた時期があるとはいえ、そこに暖かな思い出はなく、むしろ暖かさは修道院の長であった老人から分け与えられたものの方が印象に強い。だからおそらく、とククールは内省する。 半分ほど血の繋がったあの男に自分が求めていたものは、幼子が親に求めるようなものではない。そうではなく、ただ本当に「繋がって」いたかっただけなのではないだろうか、と。その間にどんな感情が横たわっていようが、そうそれが殺意さえ伴う憎悪であろうが、無いものとされなければ、ただそれだけで良かった。もしかしたら被保護者が保護者へ抱く感情よりももっと質の悪いものなのかもしれない。 一人であることを理解し、覚悟したつもりであっても、つもりはつもりでしかなかった、そういうことなのだろう。 外はどんよりと曇り、霧のような雨がしとしとと降り続いている。この天候のせいで一行は足止めを食らい、さほど旅人も訪れない小さな村の宿に部屋を取っていた。外へ出ようにも酒場などといった気の利いた場所もなく、またあったとしてもこの天候と精神状態ではまともに楽しめなかったであろう。 無理に気分を浮上させようとするから齟齬を来すのだ。このまま思考の渦に囚われてずるずると落ちていく日があってもいいかもしれない。 そんなことを考えていたところで不意にぎしり、とベッドが音を立てた。 ベッドヘッドに背を預け、膝の上に本を広げた状態で自分の思考に入り込んでいたククールは、近づく気配に顔を上げる。どうせこの部屋の中にはいつものようにククールとエイトしかいないのだ、側に来たのは彼以外にはありえない。 退屈を持て余しているのか、あるいは何か用があるのか。どうした、と声をかけようか考えたところで、「お前さ、」とエイトの方から口を開いた。 「それ、読んでる?」 指さされた本は広げて以来一度もページをめくっていない。脳のしわが極端に少なく、斜め上の思考回路を持つ彼は、何故かそういった部分には勘が良い。おそらく読んでいないことに気づいた上で言っているのだろう。いや、と小さく答えて首を振ったククールを前に、エイトは「じゃあさ」と手を伸ばしてその本を取りあげた。 活字であれば何でもいい乱読派のククールとは違い、エイトは自分に対し有益であるものしか読もうとしない。今ククールが広げていたものは、過去の詩人が恋人に対し綴った愛の詩をまとめたものである。エイトが読んだところで面白いとは思わないだろうし、それを有効活用するとも思えない。そう忠告しようとしたが、どうやらエイトはその本に興味があったわけではないらしい。手にしたそれを後ろに避けて、彼はずい、と膝を進めてきた。 「エイト?」 「邪魔じゃないならちょっとこうさせて」 そう言いながら、エイトはククールに背を向けて足の間へ腰を下ろすと、そのまま凭れかかってくる。もぞもぞと尻を動かして心地の良い場所を探したあと、自身を抱き込むようにククールの腕を誘導し、ほう、と落ち着いたような息を吐き出した。その体勢のままエイトは手にしていたメモを広げて目を落とし始める。覗きこんでみれば今までに得た錬金レシピと、立ち寄ったことのある街で売っている武器防具の値段表だった。何をどう錬金すればもっとも効率よく経済的に有用なものが作れるかを考えているらしい。 男にしては若干細めの体を抱きしめてしまうのは半ば条件反射のようなもの。その肩に顔を埋めるように俯いて、珍しいことがあるものだ、とククールは思った。 他人と自分の距離を上手く掴めないらしいこの少年は、その割に、いやむしろだからこそ、他人の感情の機微を察するのが上手い。共に旅をし始めて間もないころから、ククールが何かを考えているときや一人になりたいときなど上手く感じ取り、そっとしておいてくれていた。 広げた本のページをめくらぬまま、ただじっと同じ姿勢で固まっている男を前に、エイトが何か気付かなかったはずがない。今までの彼なら、おそらく邪魔をせぬようにその気配すらも抑えてククールの思考がこちらへ戻ってくるのを待っていたであろう。 そうでなくとも甘さを湛えた触れあいを彼の方から仕掛けてくること自体、あまりないことである。一体どんな心情の変化だろうか。 「珍しい、な。エイトからくっついてくんの」 思ったままを口にすれば、ひくりと肩を跳ねさせた後、彼は小さく「雨の音がうるさいんだ」と答えた。 いつのことだっただろうか、雨は苦手だ、とこの少年は言っていた気がする。基本的に明るく陽気な表情を見せることの多い彼は、意外に苦手なものが多い。ただそれを表に出すことはほとんどなく、誰にも気づかせぬままただ静かに一人で耐えるのだ。 「……いいだろ、たまには」 告げられた言葉に、もちろん、とククールは頷く。こちらとしてはたまにどころか、常にでも構わないような行動だ。エイトに対するものは恋愛感情である、と一言では言いきれないものがある。もしかしたら保護者としての感情もあるかもしれないし、まず一人の人間として好きだということもある。しかしとりあえず甘えられて嬉しい、と思うような相手であることは確かで、エイトは誰かへ甘えることを覚えた方がいいとも思う。そしてその誰かが自分であればなお良い。 腕の中の体温と、とくとくと伝わってくる鼓動の音。細い肩に額を擦り寄せると、「別に、さ」とエイトが小さく言葉を零した。 「ククール、本、読んでるわけでもなさそうだったし……。なんか、たぶんいろいろ考えてたんだろうけど、考えてるだけならここにいても邪魔じゃ、ねぇかな、とか……」 「まあ、くだらないことを考えてはいたけどな。エイト来たし、やめた」 思ったことをそのまま口にすれば、腕の中のエイトが身じろいで体を起こそうとする。 「……邪魔なら、退く」 その彼を引きとめるよう、腹の前に回していた手の指を組んで腕の中に閉じ込めた。「そういう意味じゃない」と言えば、振り返ったエイトは僅かに疑わしげな視線を向けた後、前を向いて諦めたかのようにもう一度ククールへ体重を預けてくる。 「今までさ、エイトはずっと、ほっといてくれただろ。オレが余計なこといろいろ考えてたりしたとき。それがすごく居心地良くて、助かってたんだけどさ」 一度言葉を区切り、今気づいた、と細い体を更に強く抱きしめた。 別に何か気の利いた言葉を掛けてもらいたいわけではない。ただ側にいて、体温と鼓動を共有する。そんな触れあい。 彼自身に自覚はないにしても、むしろ逆に甘えているつもりなのかもしれないけれど。 「もしかしたら、オレ、エイトにずっとこうしてもらいたかったのかもしれない」 思考の渦に囚われ、ずるずると考え込む時間は無駄ではあるだろうが、不必要だとは思わない。 しかし今の最重要任務は、無意識に甘やかしてくれる複雑で悲しく優しい存在を、己の全てをかけて愛しおしむことだ、とククールは判断した。 ブラウザバックでお戻りください。 2010.03.29
ククールさんが甘える話を書こうと思った結果。 |