裏の「sacrifice」の続き。 被虐思考に浸る趣味は持ち合わせていない。己の不幸自慢をしたところで何かが変わるわけでもない。そんなくだらないことを考えているよりは、仲間に仕掛ける悪戯や今日の夕飯の献立や、挑まなければならない敵への対策を考えていた方が余程実用的だ。 自分の境遇が人に比べあまり穏やかでなかったことは知っている。しかし、それはエイトにとってはただそうであるという事実以外の何ものでもなかった。過去や記憶や家族といった欠落品をそのうち取り戻せるだろう、など楽観視するつもりはなく、取り戻したところで今の自分が変わることはないだろう。 自分は自分で、他人は他人。その線引きはおそらくひと以上にしっかりとできているはずだった。 それなのに。 銀髪の流れる赤い背中を見て、ふと思ってしまった。 彼は、あの綺麗な存在は。 己などが触れてはいけないものなのではないだろうか、と。 stigmata いつか殺してやる。 あの時は確かにそう思っていた。体がまともに動けば、迷わず男に切りかかっていただろう。たとえ仲間のために男に抱かれることを選ぼうとも、あの男から受けた仕打ちを受け流すことはエイトには到底できそうもないことだった。 謂れのない罪を押し付けられ落とされた煉獄島。そこでエイトが取った手段は決して褒められたものではないだろう。仲間の安全と引き換えに、牢の看守二人へ己の肉体を与えたのだ。この体一つで皆の心身の安全が図れるのなら安いものだ、そう思っていた。 あの男、マルチェロから受けた仕打ちもそう割り切ってしまえばいいはずだった。あの時エイトが抵抗を示せば、もしかしたら仲間の誰かが傷つけられていたかもしれない。あるいはエイト自身が殺されていた可能性もある。 それを考えれば眠っている仲間の側で犯されたくらいで済んで良かった、と。 普段のエイトならばそう考え己を納得させていただろうに、どうしてだか上手く処理できない感情が残ってしまう。思い返すのも忌々しいほどの手酷い行為。それは相手があの男だったからなのか、それともされた行為自体が許せないのか。 どちらにしろ殺したいほど憎んでいる相手ではあったはずなのに。 傷付いた体を引きずって立ち去って行くマルチェロの姿を見ても、エイトは何も思わなかった。いや、何も思えなかった。 奮闘も空しく、暗黒神の復活という最悪の事態を招いてしまった。そのことに少なからずダメージを受けていたということもあるだろう。しかしおそらくは、背中を見てしまったせいだ。傾いたマルチェロの背中を、ではない。そんな彼を助けたククールの背中を、見てしまったせいだろう。 あれほど厭われ、憎まれていた相手の腕を躊躇いなく取って、彼はその命を救った。惨めに生きればいい、と。そのセリフには覚悟の重たさがよく表れている。どこまでも見捨てきれないのだ。幼い時期に一瞬だけ伸ばされたその優しい手を、ククールは今でも大事に思っている。そんな自分を認め、向きあい、だからこそククールは兄へ手を伸ばした。 その背中はとても綺麗で、真っ直ぐで。 それを目にし、心の中で何かが音を立て、 壊れたような、 そんな気がした。 その崩壊と、今目の前に広がっている聖地の崩落と、どちらがより程度がひどいのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら、エイトはくるり、とあたりを見回した。つい先ほどまでの優美さの欠片もない聖地。感傷や後悔に囚われるのも仕方がないが、この崩壊で命が助かっただけでも儲けものだ。そう思うしかないだろう。 いつまでもこの場にいるわけにはいかない。思考を切り替え先を促すきっかけは、リーダである自分が作るべきだ。 とりあえず先を考えるためにも、一度休息を挟もうというエイトの提案に異を唱えるものはいなかった。他人からの接触を拒絶するオーラを放っていたククールも、団体行動を乱すつもりはないらしい。 そのことに安堵しながら一行はサザンビークへと飛んだ。 できれば一人一部屋ずつ欲しかったが、こればかりは宿屋の状況もあるため上手くいかなくとも仕方がない。ツインが二部屋取れただけでも良かった方だ。片方の鍵をゼシカへ手渡し、今日はゆっくり休むように、と伝える。 「難しいことは明日考えよう。さすがにいろいろあり過ぎたから」 俺の頭はもうこれ以上回転しません、と言うと、ふふ、と笑みを浮かべたゼシカは、「あんたはもともと大して回ってないじゃない」と肩を竦めた。あの空に浮かぶ城と暗黒神ラプソーンがこれからどんな手を打ってくるのか分からない以上、ぐずぐずしている暇はないだろう。しかしだからといって、無策のまま突っ込んで行って勝てる相手ではないことも重々承知している。 「じゃあ、アッシは休ませてもらうでげすよ。兄貴もぐっすり休んでくだせぇ」 にか、と子供が見たら怖がりそうな凶悪な笑みを浮かべて言った後、顔を寄せてきた彼はこっそりとエイトの耳元で「あの野郎と同じ部屋じゃ、難しいかもしれやせんが」と囁いた。未だにぴりぴりとした空気を纏った人物のことを指して言っているのだろう。そんなヤンガスに「大丈夫」とエイトは笑んでみせ、ククールとともに部屋へと向かった。 もしククールが本当に一人になりたいのなら、まず素直に宿へついてこなかっただろう。こうして部屋まで共に来てくれるということは、少なくともエイトの存在は許してくれているということ。それならば余計な気を回さずに、精々大人しくしていることだ。エイトはそう結論付ける。 乱暴に荷物を放り投げブーツを脱ぎ捨て、トーポをポケットから避難させたのちベッドへとダイブする。ぐ、と体を伸ばしたあとゆっくり弛緩させ、顔を横へ向けると心配そうな表情のトーポが目の前にいた。笑いかけて指先でつつくと、安心したようにじゃれついてくる。しばらくそうして彼と遊びながら、それでも頭のなかを占めるのは、復活した暗黒神のことではなく、触れるのもためらってしまうほど綺麗な彼の後姿だった。 もともと整った顔立ちをしており、動作の一つ一つで優美な曲線を描く彼だった。綺麗だ、と思うことは珍しくなく、彼に対してそう告げたこともある。しかしそれらは純粋にただ綺麗だ、と思っていただけで、手を伸ばすのを躊躇ったりはしなかった。いつもの彼と、つい先ほど見たその後ろ姿とでどこが違っているのか、と考えれば、それはおそらくククールが違っていたというのではなく、それを見るエイトの側の問題であろう。 違うのだ、と。 彼と自分とは確かに巡る環境にどこか似通った部分があったし、生活態度や人間関係等が自慢できないところも似てはいた。しかし、決定的にエイトとククールは違っている部分がある。 そう思ってしまった。 あの強さも、純粋さも、エイトは決して持ち得ない。 そのことを痛感した。 そんな彼に、果たして自分のようなものの手で触れてもいいのだろうか。 普段ならくだならい、と一笑に伏しそうなことを考えながら、じ、と己の手を見つめる。武器を扱うせいでごつごつとしてはいたが、体格同様さほど大きくもない手。部屋へ入る前にきちんと洗ったのだから、触れたところで彼が汚れるはずがない、そう分かっているのだが。 ぱたん、とベッドの上へ手を落とし、エイトは仰向けだった体を横へと向けた。何か意図があってのことではない。ただなんとなく、ククールがいる方のベッドへと視線を向けただけのことだった。 「っ」 空が苦手なエイトはその青さをあまり知らない。しかしきっと、人々を包み込むあの大空は彼の瞳のような澄んだ色をしているのだろう、そう思う。 正面からこちらをじ、と見つめている瞳と視線が合い、エイトは思わず息を呑んだ。 ベッドの上に座り込んだククールは、何故だかエイトのほうへ視線を向けている。まさかこちらを見ているとは思っていなかった。兄と関わった後の彼は自分の内側に籠ることが多い。ベッドに横たわり、天井を見上げるか窓の方へ向いて考え事をしているだろう。そう思っていたのだが。 いつもなら簡単に「どうかしたか」と問えるのだが、その一言が出てこない。何か言うべきだろうか、考えるが、他人の感情を読むことに疎いエイトではろくな言葉を選べないだろう。そう思い、エイトは口を開くことを諦めた。気まずい思いを抱いたまま無理やり顔をそむけ、すぐ側で丸くなっていたトーポの背を撫でようと指を伸ばした瞬間。 「エイト」 名前を呼ばれ、びくりと肩が震える。 静かで落ち着いた声。しかしどこか逆らえない威力をもった音。 顔を上げてはいけない、返事をしてはいけない。そうすれば最後、おそらく彼から逃げることはできなくなるだろう。そう思い、呼びかけを無視してトーポの背を撫でるが、エイトは気がついていた。 おそらくククールにはもう、エイトを逃がす気は、ない。 ぎしり、とベッドの軋む音。衣擦れの音、柔らかな足音。近づいてくる気配、伸ばされる腕、その体温。 触れられる瞬間再び竦んだ体を無視して、ククールはエイトの肩を押した。右肩を下にして横たわっていたエイトは、力を掛けられるまま仰向けへベッドに寝転がる。そんなエイトの体に馬乗りになるようにククールがベッドへと乗り上げてきた。二人分の体重を受けてぎしり、とベッドが悲鳴を上げる。正面から見下ろしてくる視線に耐えきれずエイトは斜め上へと目を向けた。そこで丸くなっていたはずのトーポは、いつの間にやら床の上に放置していた鞄の上へと移動してしまっている。 「エイト」 もう一度、静かな声音で名を呼ばれる。 一体どんな心境の変化なのだろうか、と思いながらエイトはしぶしぶとククールを見上げた。自分と自分の兄以外のことを考える余裕が今の彼にあるのだろうか。怪訝な表情を浮かべでもしてたのだろうか、見下ろしてくるククールは小さく肩を竦めて「あいつのことはもういいんだよ」とそう言う。エイトと違って敏い彼は、状況における人の思考や感情を読み取るのが非常に上手かった。今もエイトが何も言わずとも、胸の内に湧き上がった想いを察してくれたらしい。 「いやまあ、あいつに関係あるっていえばあるけどな」 その言葉にますます嫌な予感が膨れ上がる。逃げた方がいいかもしれない、ともがき始めた両腕を捉えて敷布へ押しつけながらククールは「なあ、エイト」と口を開いた。 「お前、仲間が男に犯されてるってのに、何も出来ない人間の無力感が分かるか?」 その言葉に、びくり、と大きくエイトの体が跳ねた。 「ただ黙ってお前を見送るしかなかった人間の無力感がお前に分かるか?」 まるで血を吐くかのように、苦しげに告げられる言葉の数々。 気づかれていることはなんとなく分かっていた。諸々の状況からククールなら察してしまえるだろう、とそう思っていた。 「なん、で、今更……」 しかし、あの牢の中では一言もそんなことを言わなかった。確かにひどく辛そうな顔をしていたが、エイトのすることに対して何を言うこともしなかったのに。 「今だから、だろうが」 掠れた声で呟かれたエイトの疑問に、ククールは吐き捨てるようにそう言った。 「あのときオレが何か言って、お前があいつらについて行くのをやめたか? ああしなけりゃゼシカが同じ目にあうことが分かって、何か言うことができると思うか?」 そう、ククールは察しが良すぎるのだ。だから一つのことを提示され、そこから十も二十ものことを理解してしまう。エイトがいったい何のために、誰のためにあんなことをしていたのか、分かり過ぎるほど分かってしまっていたから。彼は何も言えなかったのだ。 なあエイト、とククールは尚も言葉を続ける。 「お前を助けに行くこともできず、ほかの仲間が起きないようにしてやることぐらいしかできなかった人間の気持ちが、お前に分かるか?」 その言葉に、エイトは小さく首を傾ける。 ククールの言う意味が上手く取れない。 今のは一体何のことを言っているのだろうか、と、 考え、 思い至る。 そして、血の気が引いた。 まさか、と思う。 看守二人の相手をしていることに気づかれているだろうことは分かっていた。それについては驚くことでもない。驚くとすれば、わざわざククールがそのことに言及してきたことに対して、だ。 しかし、まさか。 「ク、クール、お前、起きて……」 「オレ以外は起きてねぇから安心しろ。まどろみの剣でラリホー重ねがけしといた」 機転の利いた行動に謝辞を述べかけ、それどころではない、と思いなおす。脳が現実から逃避したがっているらしい。それも仕方がないだろう、とどこか他人事のようにエイトは思う。 男に犯されているなど、既に知っていたククールはともかく仲間に知られたくはなかったが、それ以前に何よりも、あの男に犯されたという事実をククールにだけは知られたくなかった。 ぐなり、と視界が歪んだ。嫌だ、と混乱したままの頭で思う。 嫌だ、逃げたい、この場にいたくない。彼の前にいたくない、その視界に映りたくない。その青い目で、見られたくない。 眉を寄せたままエイトはただひたすら首を振り、ククールの下から逃げ出そうともがく。普段ならば力の強いエイトが抵抗すれば、ククールなど簡単に振り払えてしまうはずなのに、どうしてだか今日はその拘束から逃れることはできなかった。エイトが混乱しているからか、単純に体勢が悪いからなのか、あるいはククールの意志が強いからなのか。 逃げられない、そう察したエイトは、ひっ、としゃくりあげた後、震える声で、「ごめんなさい」と謝った。 「ごめ、ごめん……ごめんな、さ、ッ」 「何に対して謝ってんだよ、お前はっ!」 怒鳴られ、また体が大きく竦んだ。 そんなこと、エイトに聞かれても分からない。喉を震わせたまま首を振るエイトへ、「謝るのはこっちのほうだろ」とエイトの肩へ額を擦りつけ、ククールは呟いた。 「お前にばっか、キツイ役押し付けて、あげく、強姦されてんのを助けることも、出来なかった」 本当に悪かった、と。 聞いているこちらが辛くなるほど後悔の滲んだ声。ぎゅ、と握られた腕に力が込められ、そこに生まれる鈍痛がそのままククールが抱いていた痛みなのだろう、と思う。 「で、も、だって、あれは……」 看守二人に対してはエイトから持ちかけたことなのでククールが気に病む必要はなく、マルチェロのことも気づかないふりをしてくれていたほうが有り難かった。それを察していたからこそ、彼はあの場で動かずに眠り魔法をかけ続けてくれていたのだろう。 途切れ途切れのエイトの言葉に、顔を上げた彼は苦しげな表情のまま分かっている、と首を縦に振った。そして唇を噛んだ後、絞り出すような声で言葉を続ける。 「あいつに……兄貴に、犯されてるお前を見て、正直すごい、後悔した」 もったいぶらずにヤっとけば良かった、って。 同室になることの多い二人は、褒められない性生活を送っていたことを互いに知っている。暴露話を酒のつまみすることもあり、寄った勢いでそういう雰囲気になりかけたことだって少なくはない。しかしそれでも、やはり仲間のうちは、とどちらからともなくその雰囲気にブレーキをかけていた。軽く茶化してその場をごまかし、またいつでもできるから、と先延ばしにし続けてきたのだ。マルチェロに言ったとおり、軽いペッティング程度なら経験はあったが、ククールと寝たことは一度としてなかった。 関係をもった後の変化が怖かった、のかもしれない。今の関係の居心地が良すぎて、それを壊したくなかった。二人ともが臆病だったのだ。 「あの看守たちや……兄貴に、ヤらせるくらいなら、せめて先にヤっときゃ良かったって、死ぬほど後悔した」 ククールの手に力が込められ、真摯なその声にそれが彼の本音であることを感じる。 それを嬉しい、と思いながらも、エイトは緩く首を横に振った。 「俺は、逆、だ」 お前とヤってなくて良かった、と。 看守やマルチェロに組み敷かれている間、ずっとそう思っていた。 囁くような小さな声で発せられたその言葉に、ククールの表情が歪んだのは一瞬のことだった。「だって」とエイトは言葉を続ける。 「ククールとしてたら、きっと、俺は、耐えられなかった」 自分を組み敷く相手が彼ではないという事実に。 彼の体温や匂いや触れかたを知ってしまえば、それとは違うものに耐えられる自信がエイトにはなかった。知らなかったからこそ乗り切れたのだ。 震える声で告げられた想いにククールは、大きく表情を歪める。今にも泣き出してしまいそうなその顔に、ずきり、と胸の奥が痛んだ。そんな彼へ何か言おうとエイトが口を開く前に、ククールは「ヤらせろよ」とそう言う。彼らしくない、飾り気のない言葉。きっと女性を相手にするときは決して口にしないだろうそれは、だからこそ逆に嘘偽りない本音なのだろうと、そう思える。 「もう二度とあんなことはさせない。だからお前を寄こせよ」 再び沈んできたククールの鼻筋が、エイトの肩へと埋まる。肌に感じる彼の吐息に背筋を震わせながら、「俺は、」とエイトはおずおずと口を開いた。 「お前に触っても、いいの?」 ククールはエイトの葛藤を知らない。しかしそれでも、彼は一瞬の間すら挟まず、迷うことなく「当たり前だろ」とそう返す。 その言葉に促されるように腕を伸ばし、首筋へぎゅう、と抱きついた。 きっともう、あの手は使えないだろう。 全身で感じる鼓動と体温にうっとりしながら、エイトはそう思った。 ブラウザバックでお戻りください。 2009.10.12
ザ・シリアス。 |