思い出の中の私と、外の君」の続き。


   日常の中の私と、外の君


 ひとの呼び方など、一朝一夕で変えられるようなものではない。突然今日からこの時間だけ「先生」と呼ぶようにと言われたところで、そもそもキャパシティの少ない燐の頭は簡単に切り替えることができないのだ。
 分厚い本を手に取り、窓の外へ向けてぱふ、と埃を払う。分類ごとに分けて棚へしまうように、という指示だったが、そもそも表紙に書かれている文字が読めなかった。誰かに尋ねようにも生憎と級友たちは棚を一つ二つ隔てた向こう側で作業している。きょろ、と見回し「あ、雪男!」と一番始めに目の合った講師へ声を掛ける。つかつかと歩み寄ってきた弟から返事を寄越される前に、ごっ、と拳が振り下ろされた。

「なんですか、奥村くん?」

 今日の悪魔薬学は特別授業と称した、資料室の片づけである。候補生を引きつれてやってきた講師の雪男自身もあまり乗り気ではないようで、「文句や苦情はフェレス卿へお願いします」と笑顔で言っていた。
 祓魔の術は遥か昔から変わらぬ部分もあれば、日々進歩している分野もある。この資料室に収められているものは、若干古い知識のものだという。今ではあまり使えないような術や誤った理論の解説書らしいが、それらを踏まえたうえで知識として知っておいて損はないものも多い。頻繁に使うような資料ではないが、破棄するには惜しく、またひとがまったく訪れぬ場所でもない。そのため、こうして定期的に手の空いている若手の祓魔師たちが部屋を片付けているのだという。
 殴られた頭を摩りながら「これ、どこに片付けたらいーんですか」と本を差し出す。だから分類通りに、と返しかけた雪男は燐から受け取った本をぱらぱらと捲った。そして背表紙の裏側に目を留めると眉を寄せてちっ、と舌打ちを零す。

「これ、第一図書室の本だ。誰だ、こっち持ってきて戻してない馬鹿は……」

 どうやら祓魔師の中にも不作法な輩はいるらしい。ため息をついてがしがしと頭を掻いた雪男は、燐の方を見てあ、と口を開いた。しかしすぐに小さく咳払いをして「奥村くん」と言葉を発する。たぶん今「兄さん」と呼びかけたのだろうと思ったが、深く突っ込まないでおいた。

「棚の外に出ている本はしまう前に背表紙の裏を確認してください。ここに青いマークがあれば第一図書室、赤いマークは第二図書室の本です」
「マークのないやつは?」
「それはここの本」

 それぞれに戻さなければならないため、マークごとに分けて置くように、と指示を出し、ほかの候補生たちにも同じことを伝えるため雪男は棚の裏側へと回った。「あ、こっち聞こえてたんで、省略したってください」と志摩の声が聞こえる。女性陣の声がないため、彼女たちはまた違う場所で作業しているのだろう。

「青いマークが第一、赤いマークが第二……」

 呟きながら積み上げていた本を開いて背表紙を確認していく。かなりの本が棚に入れられずに放置されていたため、これを全部見るとなると正直うんざりしてくる。
 できるだけ本のタワーから思考を反らして確認作業をしていれば、戻ってきた雪男に「見てないの、どっち?」と尋ねられた。指さしながら「お前もやんの?」と首を傾げる。弟は講師であり、要するに監視役なのだと思っていたが。

「だってこれ、もう授業じゃないし。さっさと終わらせるに限るだろ」

 おそらくメフィストは雪男も込みでこの片付け作業を行えと言っているのだろう、と弟はため息と共にそう吐き捨てた。
 ぱらぱらと本をめくり、背表紙の裏側を確認しては本来あるべき位置に戻すために仕分けしていく。しばらくふたりでその作業に没頭していれば、不意にけほ、と雪男が小さく咳き込んだ。本の埃を払っている途中からこの作業に入ってしまったため、半分くらいはまだ埃塗れの本が残っていることを思い出す。ちょうど雪男が手にしている本がそれらに当たり、燐は手に取りかけた本を弟に向かってに差し出した。

「雪男、お前、こっちの本、見てろ。そっち貸せ」
「? なんで?」
「お前、喉弱ぇじゃん」
「……昔は、だろ」
「いいから。どっちにしろ埃は払わなきゃなんねぇんだし」

 だったら作業を分担して行っても問題はないはずだ。そう言う燐に逆らうのも面倒だと思ったのか、雪男は素直に分かった、と頷いて埃の払われた本のタワーへ手を伸ばす。
 資料室の中にぱらぱらと本をめくる音、本を叩く音が響く合間に、時折潜められた声音で雑談が交わされているのが耳に届いた。

「これ、似たような本、昔寺で見ましたわ」
「志摩、お前本なんぞ、興味あったんか」
「や、挿絵がちょいえろで……って、坊、何気に酷いこと言いはりますね。俺かて本くらい読みますよ」
「志摩さんは字の少ない本がメインやないですか」
「もっといえば、お姉ちゃんが脱いでる本メインやな」
「威張って言うことやあらへんわ」

 ぼこん、と鈍い音がしたのは、勝呂が志摩の頭を本で殴りでもしたのだろう。しえみと出雲の声があまりはっきりと聞こえないのは、ふたりが少し離れた場所にいるからだ。それでも時折怒ったような出雲の声が聞こえ、ぽくぽくと本を叩きながら、仲良しだなぁ、とぼんやりと思う。
 大方の埃を落とし終えた後、燐は背伸びをして雪男の向かいに腰を下ろした。未だ分類待ちの本へ手を伸ばし、めくりながら「ゆき、飽きた」と小さく文句を口にすれば、「僕も飽きた」と返ってくる。こんな単調な作業を続けていれば誰だって疲れもするだろう。もともと燐はデスクワークにはからっきし向いてない性格なのだ。本を放り投げたい衝動を抑え込んで作業を続けている内に、今度はどんどん頭の中がぼーっとしてきた。要するに睡魔様のお出ましである。

「寝ないでよ」
「んー……」

 刺された釘はあまり燐の頭には届いていない。生返事に気が付いた雪男が顔を上げ、兄の目を覚まさせるために口を開こうとしたところで「若先生」と勝呂が顔を出した。

「こっち、大体見終わりました。赤が二冊、青が一冊混ざっとりましたけど」
「こっちも終わりました。これ、図書室の本です」

 彼の後ろから顔を覗かせたのはもう一つ向こうの通路で作業をしていた出雲だ。四冊ほど分厚い本を抱えた彼女の隣には、同じ冊数両手に抱えたしえみの姿も見える。

「それじゃあ、あとは先ほどお伝えした通りの分類で残った本を戻していってください。こちらが終わり次第僕たちで図書室の本を戻してくるので」

 そう言う雪男の後ろでは、半分眠っているのではないかというような表情で、燐が残りの本を分類していた。見るところあと数冊程度で、これならばすぐに終わるだろう。

「じゃあ俺、先生らが戻ってくるまでこっち回りますわ。そっちは志摩と子猫、ふたりでええやろ」
「ええですよー、手分けしときましょ」
「こっちはしまう本も少ないですからね、終わり次第坊んとこ、応援に回ります」
「私たちのとこもそんなにないよね。しまい終わったら床のお掃除とかした方がいいのかな」
「ああ、そうですね。掃除道具は、……たぶん部屋のどこかにあると思います」

 そんなアバウトな指示に「探すからいいです」と出雲が答え、雪男は「お願いします」と苦笑を浮かべる。
 次なる作業のためそれぞれ行動に移ろうとしたところで、静かに本をめくっていた燐がようやく最後の一冊を手に取った。本を開き背表紙に目を落としたはいいが、小さく首を傾げる。兄に背を向けていた雪男以外の皆がその姿を目に留め、代表するかのようにしえみが声を掛けようとする前に。

「雪ちゃん、紫、出てきた」

 顔を上げた燐が、眠たそうな顔と口調でそう言葉を発する。瞬間、室内にいたほぼ全員の思考が固まった。どんな反応をすべきなのかを見失った皆を置いて、ただひとりだけごく当たり前のように「は?」と眉を寄せて振り返る人物がいる。
 どういうこと、とあぐらをかいた足の上に広げられた本を覗き込み、「これ、青だよ、燐ちゃん」と口にする。

「インクが変色したんじゃない? 青だと思う」
「あー……言われれば青に見えてきた気がする」

 じゃあこれはこっち、と積みあがった本の上にぽん、と手にしていたものを乗せて燐が立ち上がる。両手を上にあげてぐん、と背伸びをし、「俺やっぱこういう作業、向いてねぇわ」と大きなあくびを零した。
 そんな兄を前に苦笑を零した後、「燐ちゃん、こっち持って」と雪男が本の束を指さす。んー、と相変わらず眠そうな声を出しながら燐は素直にその言葉に従い、よっこらせと本を抱えた。自分でもその隣の本の束を抱えながら振り返った雪男は、きょとんとしている塾生たちへ「じゃあ僕たちはこれ、戻してくるんで」と声を掛ける。

「続きの作業、お願いしますね」

 ほら行くよ、と弟にせっつかれながら、燐もまた資料室の出入り口へと足を向けた。

「青いマークって第五図書室とかだっけ」
「勝手に図書室増やさないでよ。第二までしかないって」
「雪ちゃん、右左どっち?」
「左」

 そんな会話が聞こえた後、ぱたむ、と扉が閉まる音が響く。

 双子の背中を見送った塾生たちは、顔を見合わせて「ええと」と言葉を探した。何かツッコミを入れた方がいいのだろうか。いやむしろこの場合は何も聞かなかったことにした方がいいのかもしれない。自分たちにとっても、双子の兄弟にとっても。うんそうだ、きっとそうに違いない、と全員が思ったかどうかは定かではないが、ひとまずは講師から受けた指示通りの作業へ戻ろう、とそれぞれが再び動き出そうとしたところで、ばたばたばたばたっ、と廊下を走る足音が耳に届いた。
 何事だ、と扉の方へ目を向けると同時に、ばたん、と勢いよくそれが開かれる。飛び込んできたのは顔を真っ赤に染めた奥村兄弟。


「今聞いたこと、全部忘れろっ!」
「今聞いたこと、全部忘れてください!」


 とりあえず、双子が必死であることだけは塾生全員が理解した。




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2011.09.30
















「外では言うなって言ったじゃん! 何で言うの? ばかなの? ねぇ、ばかなのっ!?」
「うるせぇなっ! 俺ばっかり悪ぃわけじゃねぇじゃん!」
「先に言ったのそっちだろ!」
「だったらその時気づけよ、バカゆきっ!」
「燐ちゃんはまだいいかもしれないけど、僕、講師なんだよ!? 明日からどんな顔して皆の前に立てばいいんだよ」
「ほら、今だって普通に言ってんじゃねぇか!」
「――――ッ、テンパってんだよ!」
「あああ、泣くな! このくらいで泣くなっつの!」
「泣きたくもなるよ、もう!」