日常の中の私と、外の君」の続き。


   シーツの外の私と、中の君


 雪男が拗ねた。
 大雑把で考えなしな面のある燐に比べ、思慮深く理屈っぽい雪男は、一度落ち込むとなかなか這い上がってこれない面倒くさい性格をしている。長年の経験で放っておけば更に拗れることが分かっており、また今回は半分くらいは燐にも原因があるため、「な、ゆき、ゆきお」と部屋に戻るなり布団の中に引きこもってしまった弟を呼んだ。頭からシーツを被ってベッドの上に丸まっているその姿は、ぶっちゃけ巨大な大福餅に見える。

「雪男、にーちゃんが悪かったから、機嫌直せ、な?」

 おそらくは背中にあたるだろう、大福餅のてっぺんに両手を置いてゆさゆさと揺さぶる。答えはない。

「なぁ、雪、ほんと、やっちゃったことは今さら考えても仕方ねぇじゃん、だからさぁ」

 たとえ燐が悪魔の身であったとしても、過去の出来事を破壊することなどできはしない。過ぎたことを悔やんで時間を潰すなど、普段の雪男ならば「非生産的すぎる」と切って捨てるだろう。それができないほどにまで、夕方の出来事は雪男の中でショッキングなものだったらしい。
 そんな気にすんなよ、と努めて軽い口調で言ってみれば、「兄さんには分からないよ」とくぐもった声が聞こえてきた。ようやく返事があったと思えば突き放すようなそれ。かちん、とこないわけではないが、会話ができるうちにしておかなければまた弟は引きこもってしまう。

「そりゃ分かんねぇけどさ、俺だってかなり恥ずかしかったんだぞ」

 今年十六になる兄弟が互いを「ちゃんづけ」しているなど、一般常識からしても少しおかしいだろう。たとえ双子の境遇がややずれているものだとしても、そんな可愛らしい呼び名を口にすることも、そう呼ばれていることも、似合わないの一言に尽きる。

「……だから、兄さんと僕じゃ、立場が違うって」

 燐はまだ同級生たちの前で口にしただけにすぎず、その点雪男は彼らからすれば講師にあたり、教え子の前でみっともない姿を見せたことになる。講師の威厳もあったものではない。

「同じ年だから、舐められないように、って頑張ってたのに……」

 全部台無しだよ、とぶつぶつ呟く弟の姿は非常に情けなく、普段の冷静さの欠片もない。ぐす、と鼻を啜る音さえ聞こえてくるため、きっと泣いているのだろう。
 困ったなぁ、と燐は眉を下げて大福餅を撫でた。確かにこの状況はひどく面倒くさくて困りものだとは思うが、百八十の大きな図体を丸めて布団の中に引きこもり、ぐずぐずと泣く同じ年の弟をうっかり可愛い、と思ってしまう自分にも困り果てているのである。けれど思ったまま口にすれば雪男はますますシーツの中に閉じこもってしまいそうで、「なぁ、雪男」とその背中の上に伸し掛かってみた。

「……おもい」
「だろうな。あとお前、苦しくねぇの?」
「……くるしい」

 いくら薄手のシーツとはいえ、籠りっぱなしでは酸素も薄くなるだろう。引きこもるのに邪魔な眼鏡は祓魔師のコートを放り投げると同時に、枕脇にちょこんと避けられていた。きっと視界もぼやけてよく見えていないに違いない。
 燐の問いかけに言葉がぽつぽつと返ってくる。そっか、と頷いた後、手を伸ばして頭の位置を探り、ぽんぽん、と二度柔らかく叩く。

「兄ちゃんはさみしい」

 弟が顔も見せてくれないからさみしい。
 きゅう、とまるでコアラのように大福餅にしがみ付いてそう言えば、布団の中から響いていたぐずりがぴたりと治まった。しばらくして雪男が小さく背中を揺さぶる。降りろ、という意味だろうと解釈し、燐はそのままころり、と大福餅の隣に転がり落ちた。

「雪男、」
 雪ちゃん。

 弟が引きこもる原因となった呼び名。幼い頃に口にしていたそれは、いつの間にかふたりの間から消えていた。それがどうして再び零れるようになったのか。切っ掛けはおそらく燐が口にしたからだろうが、おそらくふたりともが寂しいのではないか、と燐は思う。愛してくれる養父はもうおらず、世界にたったふたりきりで取り残された兄弟。より深い繋がりを求めた結果のものではないだろうか、と。
 雪ちゃん言うな、と返す白い物体の裾がちらり、と捲れ上がった。覗き見えるは燐のものより少し茶色味がかった髪の毛。その頭の中には兄よりも優れた脳みそが詰まっているはずなのに、この姿はどうだろう。きっと誰も信じてくれないに違いない。
 もそもそと蠢くそれは、未だ往生際悪く頭を出そうとせず、燐に見えるは旋毛ばかり。

「雪ちゃん、顔!」

 燐はちゃんと雪男の上からどいてやったというのに、弟は兄の希望を叶えてさえくれないというのか。ぱしぱしと尻尾で大福を叩きながら求めれば、うつ伏せに蹲っていた身体がぱたり、と横に倒れる。シーツの端から現れた髪が跳ね、露わになった額を見つけた燐は喜んでそこへ口づけた。
 もそり、と顔の前までシーツを引き上げていた手が動き、次に現れたのは緑の瞳。涙を拭ったせいで赤くなっている目じりへもちゅ、とキスを落とし、ついでとばかりに弟が気にしているらしい並んだホクロを舐めた。
 まだ不機嫌そうな顔をしたままの雪男の目をじ、と見つめる。緑がかった色の瞳は見るものを穏やかにする力でもあるのではないだろうか。それが潤んでいれば尚更で、雪ちゃん、と呼んだ後、燐は唇を尖らせ、ちゅ、と小さく音を立てた。このキスをできれば唇にしたいのだけれど、とそんな意味を正確に読み取ってくれたらしい。
 おずおずと顎の下までシーツが引き下ろされ、やっと捕えることのできた弟の顔に思わず笑みが零れる。そのまま見つめていれば、唇を尖らせた雪男がちゅ、と小さく音を立てた。続けて「燐ちゃん、キス」と強請られ、拒否する理由など燐にはない。
 頬を包み込んで額を合わせ、重ねるだけの柔らかなキス。一度離れて「もっと?」と尋ねれば「もっと」と返ってくる。けれど「もっと」の「と」の部分で既に燐の唇は雪男のそれに吸い付いており、要するに答えなどどうでも良かったのだ。
 ちゅうちゅうと、互いの唇を吸う様はまるで赤子のようで、そうなればお互いがお互いの母親、ということになるのだろうか。ぺろり、と唾液で濡れた唇を舐め、「雪ちゃん」と弟の頭を抱き込む。

「もしこれから先、外でお前がうっかり『燐ちゃん』って呼んじゃったら、俺も呼び返すからな」

 それは仕返し、という意味では決してなく。

「そしたらふたり一緒で、恥ずかしいのも一緒だろ?」

 ひとりだけ恥ずかしい思いはさせない、と口にする燐へ、「でも恥ずかしいのは変わらないよね」と雪男がもっともな言葉を呟いた。それでも口調は先ほどの拗ねたものから普段のものに近づいており、徐々に弟の心が上向いてきているのが分かる。

「変わんねぇけど、一緒じゃん」

 ふたりが一緒であればそれだけで大抵の問題は解決する。燐はそう思い込んでおり、雪男もまたそう思っていると信じて疑っていない。そうだね一緒だね、と笑う弟を見れば、それも案外間違っていないのではないか、と思う。
 雪ちゃん、ともう一度名を呼んでぎゅう、と抱きつけば、「だからってそればっかりで呼ばないでよ」と呆れた声が降ってきた。

「でもだって、いっぱい呼べば外で言わなくても済むかもじゃん」

 使用回数が決まっているものではないのだから、燐の言葉は理屈には合わない。意味が分からない、と眉を顰める弟の顔を見上げ、「だからさ、」と燐は少ない語彙を駆使して説明を試みる。

「いっぱい呼んで満足すればいいんじゃね?」

 外でそれが零れてしまうのは、ふたりが満足できていないからだ。逆に呼び慣れてそれしか出てこなくなるのではないか、と雪男は思うが、満足するまで呼んでみる、と意気込む燐に何を言っても無駄だろう。

「……ていうか、燐ちゃん、それ、満足するとき、来るの?」

 一体どうすれば満足感を覚えるのかが分からず首を傾げた雪男へ、「俺も分からん」と返された。

「だめじゃん」
「だめかな」

 だめだね、と返し、くすくすと笑いあいながら再び唇を重ねたところで、くるる、と小さな音がふたりの耳に届く。

「……燐ちゃん、お腹空いた」
「そりゃお前、飯も食わずに大福になってたから」

 こちん、と雪男の額に自分の額をぶつけ、呆れたようにそう言った燐はよいせ、と身体を起こす。つられるように起きた雪男は未だ制服のまま。
 跳ねるように室内を横切り、サンダルをつっかけてドアノブに手をかけた。

「俺、先行って準備しとく。雪ちゃんはまず着替え!」

 雪男が着替えを済ませて食堂に来るころには、冷めた料理も温めなおせているだろう。ガチャリ、と扉を開きながらそう言った後、「「あ、」」という双子の声が重なった。
 音は同じであったが、それぞれ意味は異なっている。雪男のそれは先に行こうとした兄を呼びとめるもので。

「待って、燐ちゃん、すぐ着替えるから僕も一緒に、」

 続けられた言葉は最後まで発せられることはなかった。燐が目にした光景を、雪男もまた見てしまったからだ。

「おやおや、仲のよろしいことで」
「『雪ちゃん』と『燐ちゃん』ってお前ら……」

 にやにやにやにや。
 意地の悪い笑みを浮かべた悪魔と人間が廊下に並んで立っている。明らかにセンスの破綻した服を纏う道化悪魔に、常にやる気皆無のおっぱい魔人。
 どうしてふたりがこんなところに、と思う間もなく、燐ははっ、と目を見開いて「雪ちゃん!?」と振り返った。

「――――――ッ!!」
「あああっ! もうっ! 折角出てきたのに、お前らのせいでまた大福に戻ったじゃねぇかっ!!」
「お、なんだ、あたしらの所為にすんのか?」
「失礼なこと言いますねぇ、ただ用があって訪ねてきただけなのに」

 勝手に呼び合っていたのはそちらでしょう、と正論を放たれても、再び布団の中に引きこもってしまった弟に気を取られ聞く耳など持つ余裕はない。

「雪男! 雪、雪ちゃん? ほら、腹減っただろ? 飯、食おう?」
「……………………」
「雪ちゃんってば!」

 ぽふぽふと大福餅のてっぺんを叩く燐の背後では、「ったくビリーも仕方ねぇやつだにゃあ」「いつもの奥村先生とは雲泥の差ですね」とにやにやにやにや。

「お前ら黙れっ! つーか、今日はもう帰れっ!」

 がう、と涙目になって牙を剥く燐を前に、それぞれに肩を竦めたふたりは、「こちらを奥村先生へ」「こっちは燐、てめぇにだ」と書類と本を投げつけ、満足したらしくその場から立ち去った。どちらもわざわざ訪ねてくるだけの用事だったとは思えず、どう考えても昼間の出来事をどこからか聞きつけ、からかいにやってきたとしか思えない。
 しかし今は事の真相を彼らに問いただしている場合ではなく。

「ああ、もう、ゆきぃ、ゆきちゃーん」

 頼むから出てきてくれよぉ、と半泣きになった燐の困り声が室内に響き渡った。




ブラウザバックでお戻りください。
2011.10.24
















※雪燐です。