真っ昼間のニャンデレラ1


 神父(とう)さん、事件です。
 兄さんに猫耳が生えました。


 それは夢でも幻でもなんでもなく、カチューシャよろしく頭の上に乗せている飾りでもない。紛れもなく双子の兄の頭皮からにょっきりと生えてしまっていることを、雪男はその手と目で確認していた。左手の甲には赤いひっかき傷が三本。先ほど燐の猫耳を引っ張ったときにつけられたものだ。じんじんと痛むそれに、これが現実であることを知る。
 ベッドの角へ逃げている燐は雪男を警戒しているらしい。うー、と低い唸り声が耳に届く。変化は猫耳だけではない、どうも精神的にも獣と化しているようで、言葉が通じる様子はなかった。
 突然の変化の原因に思い当たる節はなく、とりあえず一番疑わしい心当たりへ電話をかけてみれば案の定ビンゴ。対処がしやすいといえばそうだが、できれば当たっていてほしくなかった推測だ。

『いえ、せっかくの猫の日ですから』

 電話の向こうからくつくつと笑いながら悪魔がそう嘯く。

『ある条件を満たすか、あるいは夜十二時を過ぎればちゃんと戻りますよ』
「その条件を教えてください」
『教えてしまえば効果がなくなりますが、それで宜しければ』
「………………」
『まあ日が変わればもとに戻りますし、今日一日猫村くんとの逢瀬を楽しんではどうです?』
「…………どうして携帯電話越しに銃弾は届かないんでしょうね」

 可能ならば五、六発ほど、そのゆるんだ脳にぶっ放してやりたいところだ。心の底から残念そうに口にした言葉に、機械の向こう側で悪魔が楽しそうに笑い声を上げた。

「大体、十二時に戻るってどこのシンデレラだよ」

 ツーツーッ、と味気ない音を紡ぐ携帯を布団の上に放り投げてそう吐き捨てる。ぼす、という音が思いのほか大きく響き、部屋の隅で燐がびくぅ、と尻尾を膨らませて怯えていた。
 この状態では彼をひとり残して学校へ向かうなどできないだろう、もちろん燐自身が登校するなどもってのほかで、要するに今日は平日なのだ。平常通り高校の授業もあれば祓魔の塾だってある。それなのにただ二月二十二日だというだけで、あの悪魔はこんな悪戯をしでかしてくるのだから。

 自主休校自主休校、やってられるか、こんなの。

 くそ悪魔が、と小さく呟き、一度着替えていた制服を脱ぎ捨てた。高校の授業の方は一日休んだところでついていけなくなるというほどではない、問題は祓魔塾の方だ。授業に遅れが出て困るのは雪男ではなく、むしろ教え子たちの方だと言うのに、あの男は塾長という立場を理解しているのだろうか。
 ため息をついたあと、雪男は燐のベッドの方へ視線を向けた。膝を立てて座り込んだ兄が、険しい顔をしてうー、と唸っている。

「……えっと、ごめん、ね? 耳引っ張って。痛かったよね」

 状況が把握できなかったからとはいえ、さすがに突然耳を引っ張られたら誰だって怒るだろう。謝罪を口にしながらベッドへと歩み寄り、そっと手を伸ばしてみたけれど。

「ふーッ!」
「いたっ」

 ばしっ、と伸ばした手を引っ掻かれ、思わず声を上げて腕を引く。本物の猫のように鋭い爪があるわけではないため軽く赤くなる程度だが、鈍い痛みに苦笑が零れた。

「苛めるつもりはなかったんだよ」

 口にして通じるかどうかは分からないが、とりあえず言い訳のように言葉を紡いでおく。叩かれた手を振って痛みを逃がしながら、「ほんとごめんね」ともう一度謝って雪男は燐を宥めることを諦めた。もともとどちらかといえばあまり動物には好かれない方だ(と雪男自身はそう思っている)。小さな子供も含め、言葉で意思疎通の図れないものの相手をすることが苦手で、そういったことはむしろ燐の方が得意だった。
 これ以上何か手を出したところで徒に警戒させてしまうだけだろう。今日が終われば戻るというのだから、余計なことはせずそっとしておいた方がいい。そう判断し、雪男は雪男で手に入れた休暇を有意義に使うべく、自分の机へと向かう。高校授業の予習復習を行うか、塾の授業の準備をするか、しばらく手が回せなかった研究の方を進めるか。
 考えながらとりあえずパソコンの電源を入れたところで、とさり、と背後から小さな音がした。振り返れば、ようやく動く気になったらしい、燐が恐る恐るベッドの上から降りたところで。

「二足歩行もできないのか……」

 朝はなかなか起きてこない兄を起こそうとしたところで耳を引っ張ってしまったため、そこまで気が付かなかった。四足で床の上を歩く姿は本当に獣そのもので。

「……フェレス卿も趣味が悪い」

 ただでさえ燐には黒く長い尾があるのだ。ぴくぴくと動く三角の耳に、揺れる黒い尾。おそらく彼にとってこの部屋は見知らぬ場所なのだろう。警戒するようにそろそろと歩き回りながら壁や床の匂いを嗅いでいる。せめて猫耳が生えるだけで、精神はひとのままであってくれたら萌え所もあったのかもしれないけれど。

 って何を考えてるんだ、僕は。

 萌え所ってなんだよ、と自分の思考に突っ込みを入れた後、以前から纏めようと試みていた試薬品レポートのファイルを呼び出した。
 が、モニタに向かって集中していられたのも僅かの間だけ。ふんふんと部屋中を嗅ぎまわった燐が出した結論は、この部屋に危険はないらしいというものだったようだ。警戒を解いてくれたことは嬉しいが、何にでも興味を抱いて手を出すのはどうかと思う。どさどさどさ、と鈍い音が背後で響き驚いて振り返れば、燐のベッドのわきに積み上げられていた漫画雑誌が雪崩を起こしていた。側では音に驚きながらも床を滑った雑誌の動きが面白かったのか、ちょいちょい、と丸めた手先で雑誌を突いている燐の姿。
 力が掛かれば雑誌は動く、動くのが面白くてさらに手を出す、ちょいちょいと突いてまた滑る雑誌に興奮して、ばしばしとそれを滑らせどたばたと追いかける。

「ちょっと兄さん、うるさい!」

 静かにしてよ、と怒鳴ってみるが、もちろん猫にそれが通じるはずがない。ばしん、と思い切り引っかかれた雑誌が勢い余って宙を飛び、壁に激突して派手な音を立てた。ばささ、と続いて響いた音は、丁度雑誌の当たった場所にかけてあった雪男のコートやブレザーが床に落下したときのもので。

「ああもう! なんで猫になってまで大人しくするってことができないかな!」

 どすどすと床を踏み鳴らして床に重なる服の元へ行く。落とすなら自分の制服を落とせばいいのに、と思いながら埃を払い、一緒に落ちたハンガーを拾って再び壁へ。ブレザーも同じようにかけ、もう一枚、カッターシャツを拾い上げようとしたところで、横からずざーっと滑り込んできた燐にそれを奪われてしまった。

「兄さんっ!」

 一体何が面白いのか、シャツへ頭を突っ込んで頬を摺り寄せては手で突いて遊んでいる。ああもう皺になる、と眉を吊り上げて取り返そうとしたが、きゅむと掴まれてそれを阻止された。

「兄さん、返して」

 それでも無理にシャツを引けば、うーと低い唸り声。ああこの声はまずい、と思う間もなく、シャツを引いてた手に牙を立てられた。

「ッ!」
「ふーッ!」

 返せ、と言いたいのだろうなとは思うが、そもそもそれは雪男のシャツで、何が悲しくて自分の持ち物をそれと主張しただけで双子の兄に噛みつかれなければならないのか。

「……なんか、泣きそう」

 はぁ、とため息をつきシャツを諦めることにする。雪男の手が離れ、落ちてきたシャツに燐は頭を埋めて尻尾を振っていた。
 猫の耳を生やされ、人としての意思を奪われ、仕方がないことだと分かっている。兄自身に悪気はない、きっと深い意味もないのだとは思うのだが、燐本人に拒否されたようでどうにもずきずきと心が痛む。
 酷いなぁ、と牙の痕の残る手をぺろり、と舐め早く今日が終われ、と時計を睨むしかなかった。


 問題はたぶんいろいろとあるのだろうけれど、ひとまず現時点で直面していることは、昼食をどうするか、だ。時間的に空腹を覚える頃で、雪男だけでなく燐にも何か食べさせないといけないだろうと思う。

「……何かあるかな」

 まったく自慢できないことではあるが、正直なところこの寮の食糧事情を雪男はまるで把握していない。そういった点はすべて兄に丸投げしているのだ。悪いな、と思わなくもないが、燐自身がそれを苦にしていないようなので甘えてしまっているのである。
 兄のように料理まではできないが、たとえば米を炊くだとかくらいなら雪男にもできるし、白米が残っているのなら茶漬けなら作れる。あるいは食パンがあればそれを齧るだけでもいい。燐が聞けば「ちゃんと食えよ」と怒られそうなことを考えながら、とりあえず厨房へ向かおう、と腰を上げた。
 もう怒るのも面倒で放置していた燐は、好き勝手部屋中を暴れており、雑誌や雪男のシャツどころか、それぞれのベッドに乗っていた布団やシーツまでも床の上に広がる始末。今片付けてもどうせまたこうなるのなら、すべてが終わってからにしよう、と思考を切り替える。

「兄さん、ちょっとご飯探してくるから、待っててね」

 今は雪男の布団に頭を突っ込んでふんふんと鼻を鳴らして忙しそうな燐へそう声だけをかけ、六〇二号室を後にした。猫の頭で窓やドアを開けることができるとは思えず、きちんと扉さえ閉めておけば逃げることもないだろう。戻ってきたときにどんな惨状になっているか少々頭は痛いが、そこはもう諦めるしかない。
 今日起きてから何度目になるかも分からないため息を吐き出し、いつもは燐が陣取っているスペースへ足を踏み入れる。寮の厨房だけあり、業務用の大きな冷蔵庫が設置されているが、電気代の無駄だから、と燐は側にある家庭用の白い冷蔵庫を使っていた。ガチャリ、と扉を開け中を確認。すぐに食べられそうなもの、と思いながら見てみるが、そもそも何がすぐ食べられそうなのかさえ雪男には分からない。せいぜい牛乳が飲める、と思うくらいで。

「……駄目すぎる」

 思わずそう呟いて扉を閉め、今度は冷凍庫を開けてみる。飲み物が入っているわけでもないそこを雪男が開けることは滅多になく、きっと兄の好物であるアイスがいくつかストックされているだろうと思っていた。しかしそういった様子は見られず代わりにとでもいうかのように、透明のフリーザーバックが綺麗に並べられて収まっている。
 なんだろう、と思いそのうちのひとつを引っ張りだせば、兄の下手くそな字で『とりのからあげ、由(たぶん「油」の意)であげる』だとか『チャーハン、フライパンでいためる』だとか、『野さい(「菜」の字を書こうとして諦めた形跡あり)スープ、レンジでチン』だとか、中身と調理法と思われるメモ書きが袋の上面にあった。

「あー、そういえば……」

 そこでようやく記憶に埋もれていた言葉を思い出す。「俺がいなくても飯は食え」と何やら燐が言っていた。簡単に食べられるようなもの用意しとくから、と。そもそもこの寮で燐が居らず雪男だけという状況になることが考えられず、分かったよ、と適当に返事をしていたのだけれど。

「兄さん、マジありがとう」

 普段の言動からは信じられないが、どうしてだかキッチンにおけることではあの兄は細かな性格を存分に発揮するのだ。きっといいお嫁さんになれるよ、と嘯きながら冷凍チャーハンを取りだし、袋の指示通り油を敷いたフライパンで炒める。ブロック状になっていた冷凍スープはカップへ入れて電子レンジへ。さすがにこれくらいなら雪男でもできる作業だ。
 何とかふたり分の食事の支度を終え、部屋へ持って行くかここで食べるか少しだけ悩む。しかしパソコンや教科書といったものがある部屋へ水物を持ち込み、燐に暴れられたら大惨事だ。こちらへ呼んで来よう、とテーブルをそのままにして六〇二号室へと戻ってみれば。

「――――ッ!」
「う、わっ!?」

 扉を開けたと同時にどん、と鈍い衝撃、たたらを踏み何とかバランスを取ろうと試みたが上半身に掛かる重さのせいでそれも出来ず、結局雪男は廊下に倒れ込んでしまった。いたたた、と眉を顰めて呻くが、そうなった原因には届いていない。
 飛びついてきたのは部屋でひとり待っていた燐だった。木の廊下に横たわる雪男に乗り上げるように首筋へ抱きつき、ぐりぐりと額を擦り寄せてくる。

「ちょっ、兄さん?」

 一体何がどうしたというのか全く分からず、戸惑いながら燐を呼んだがもちろん返事はない。ただひたすら雪男へ身体を寄せてくる様子に首を傾げ、とりあえずその背へぽん、と手を置いた。びくん、と燐が小さく跳ね、首に縋り付く腕に力が込められたのが分かる。

「兄さん、どうしたの?」

 ねぇ、と尋ねながら、ぽんぽん、とあやすように背を撫で、そこでようやく気が付いた。燐の身体が小さく震えているのだ。何か彼を怯えさせるものでもあったというのだろうか。
 眉を顰めて気配を探るが、自分たち以外のものがいる様子はない。部屋の中も倒れる前にちらりと見た程度だったが、雪男が出ていく前とさほど変わってはいなさそうだったけれど。
 すん、と首筋に鼻をすり寄せられ、甘えるように額を押し付けてくる様子に、ああもしかして、と雪男は燐の後頭部を撫でながら思う。
 寂しかったのかもしれない。
 よく知らない部屋にただひとり残され、不安だったのかもしれない。
 ごめんね、と柔らかく囁き、腰を抱き上げて雪男もまた身体をすり寄せる。きゅうと腕に力を込めて抱きしめ、「もうひとりにしないから」と謝った。

「兄さん、お腹、空いたでしょ。ご飯食べに行こう?」

 起き上がろうと身体を動かせば、離れたくないとでもいうかのように燐はぐずって雪男に縋り付く。そんな兄を何とか宥め、細身の彼を抱いたまま食堂へと向かった。
 共に食事を取るときは向かい合って座るが、今日は側を離れると燐が不安そうにするため横に並んで座ることにする。食欲をそそる香りを放つものが食べ物である、と本能的に察しているのだろうか、ふんふん、と鼻を鳴らした後、燐は少し冷めかけたチャーハンへ顔を突っ込んだ。

「……まあ、そうするよね」

 猫だしね、と少し乾いた笑いを零しながら雪男は呟く。一応スプーンを用意はしていたのだが、猫である彼に道具を使えというほうが無理な話。皿へ直接口をつけるという非常に行儀の悪い光景であるが、今は仕方がないと思うほかない。机から皿が落ちてしまわないように気を付けながら、雪男もまた栄養の摂取に勤しんでいれば、先に食べ終わってしまった燐が顔を上げてぺろり、と自分の口の周りを舐めた様子が目に止まる。

「うわ、兄さん、顔がすごいことになってる」

 昼食のメニューにチャーハンを選んでおいてよかった、としみじみと思った。たとえばグラタンだとか、クリーム系のものであったらより酷い光景が広がっていたかもしれない。

「ちょっとじっとしてて?」

 雪男の言葉を聞いてくれるかどうかは分からなかったが、とりあえずそう言って兄の頬へと掌を添える。動かないようにそっと顔を固定したまま、口の周りや頬、鼻の頭、果ては額や前髪にまでついてしまっている米粒を一つ一つ摘まんでは皿へ戻した。

「このチャーハンね、兄さんが作りおいてくれてたやつだよ」

 だから美味しかったでしょ、と言葉を理解してくれない相手に雪男は口を開く。作った本人へ向かって「美味しかったでしょう」も何もないよな、と自分の言葉に笑いが零れた。
 流しでタオルを濡らし、べたべたになっている燐の顔をそっと拭う。室内で散々暴れていた時の様子が嘘のように、燐はされるがまま尻尾を揺らしていた。無防備なその表情は、彼がひとであるときでもなかなかお目に掛かれないような顔だと思う。
 燐と雪男は同じ年の双子の兄弟であるからか、どうしても互いを前にすると意地を張ってしまうことが多くて素直になりきれない。怒鳴りあげる回数もかなり多いとは思う。けれど課題に手を付けようとしない態度や、ひとの授業で堂々と居眠りする態度には心の底から腹を立てているが、兄に対して常日頃怒りしか抱いていないわけではないのだ。

「兄さん、いつもありがとうね」

 ちゃんと面と向かってそう口にすることができたらどれほどいいだろうか、と思わなくないけれど、互いの性格上難しいだろう。
 雪男が寮に戻れない分、料理だとか洗濯だとか掃除だとかいう身の回りのことは八割がた燐がこなしてくれていた、それについても礼を口にすることはあったがどこか表面的なものであったような気がする。
 言葉の意味を理解できていない燐は、きょとんとしたような顔をして雪男を見上げていた。キスを強請っているようだな、とふと思い、口元が緩む。

「好きだよ、兄さん」

 おそらく雪男の燐に対する感情は、一言で表せるようなものではないのだ。家族としての愛情、唯一の片割れなのだという独占欲、守らなければという使命感、ひとの気持ちも知らないくせにという卑屈な感情、妬みや僻みの混ざった鬱屈としたもの。けれどそれらすべてをひっくるめてしまった後には、結局「好きだよ」とそんな単純な言葉しか残らない。

「兄さんが笑ってくれるなら、僕はたぶん、どんなことでもできる」

 誰よりも大切で、誰よりもその幸せを願ってやまない。
 きっと雪男がそこまで燐のことを想っているなど、この兄は知りもしないのだろう。それでいい、雪男はただ、燐が幸せでいてくれさえすればいいのだ。
 柔らかな頬を引き寄せれば、燐は逆らうことなく顔を近づけてくれた。

 本当に、心の底から、愛してる。

 十代の少年が紡ぐには少し重たすぎる感情を小さく口の中で転がし、ちょこんと牙の覗く唇へキスを、落とした。

 と、同時にぼふん、という音が響き、白い何かに視界を覆われる。
 一体何が起こった、と事態を把握しようとする前に、雪男の意識は煙の奥へ押し込められてしまった。




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2012.06.05