真っ昼間のニャンデレラ2


 親父(ジジィ)、事件だ。
 雪男に猫耳が生えた。


 それは朝目が覚めるときの感覚とどこか似ていた。けれど、そうではないことは一目瞭然。第一ここは温かな寝床でもいつも使っている部屋でもない。

「何で食堂?」

 首を傾げて呟き、くるりと視線を巡らせ、「なあ、雪男」と目の前にいる弟へ声を掛けたところでその異変に気が付いた。
 ぴくぴくと、弟の頭の上で動く三角形の耳。若干こげ茶色に近いその色は雪男の髪の色によく似ており、ゆらり、と背後で揺れる尾も同じ色合いをしていた。何の悪戯だよ、と眉を顰め、深く考えずにその耳を引っ張ってみたら。

「ふーっ!」
「いってぇっ!」

 ばしっ、と燐の手を払いのけ、唸り声を上げる双子の弟。

 うんごめん、本気で意味が分からない。

 ぶっちゃける必要もないだろうが、燐は頭の回転が鈍い方で、突き付けられた光景をどう理解すればよいのか見当もつかない。こういうとき疑問をぶつける相手がこうなってしまっているのだから。
 ええと、とあまりに焦り過ぎているせいで表情を作ることもできず、冷めた視線でもう一度食堂を見回した。机の上にはほぼ空になっている皿と、あまり手の付けられていないチャーハンの乗った皿とスプーン、冷めた野菜スープの入ったカップが二つ、その側にちょんと乗っている黒いものは雪男の携帯電話だ。燐のものは見当たらない、ポケットに入れている様子もなく、とりあえず現状を打破するために文明の利器へ飛びついた。

「メフィストッ! てめぇ、今すぐ雪男を戻せっ!」

 着歴から元凶と思われる男を呼び出し、相手の声が聞こえる前にそう怒鳴ってみれば、『おや、今度は奥村くんですか』と悪魔が笑ったのが耳に届く。どういう意味だ、と詳しく聞いて、ようやく半分ほど状況を理解できた、ような気がした。

「つまり、さっきまで俺が猫だったんだな? で、それが雪男にうつってるけど、ちゃんと戻るんだな?」
『ええ、ある条件を満たすか、あるいは十二時になれば』

 食堂の壁に掛かっている時計へ目をやれば、時刻は既に一時を回っている。メフィストが言うのは夜の十二時のことだろう。起きてからここに至るまでの記憶がないのは、燐が猫になっていたかららしい。

『まああと半日ほどですし、存分に猫村先生との逢瀬を楽しんでください』

 そう嘯く男へ「いつか仕返ししてやっから覚えてろよ、くそ悪魔」と捨て台詞を吐いてぷちん、と携帯を切った。十二時になれば戻るってどこのシンデレラだよ、という呟きは、ほんの数時間前に双子の弟が口にしたものと全く同じものであることを燐は知らない。
 ちっ、と舌打ちを一つして、がしがしと頭を掻く。とりあえず、今日一日を乗り切ればいいということさえ分かっていればなんとかなるだろう。

「昼飯、だったんだろうな」

 今日は平日で普通に学校があるはずだが、当然このような雪男を置いて今さら登校できるわけもなく、朝の弟も同じようなことを思って休校を決めたのだと思われた。
 燐が座っていた前の皿は空になっており、さほど空腹感を覚えていないため食事は終えているのだろう、と思ったが、雪男の前にある皿にはチャーハンが残ったままだ。

「あ、これ、あれか、冷凍してたやつ」

 一応雪男に伝えてはいたが、あの弟は食事に関してはどうにもずぼらなところがあり、たとえ炒めるだけであっても自分からはあまり行動しないのだ。だからきっと時間がないとき用の非常食になるだろう、と思っていたのだけれど。
 きちんと気が付いて、こうして使ってくれている。そのことが嬉しくて思わず頬がにやけてしまった。
 ぱたぱたと揺れる尾を止めることもできず、ええと、と椅子の上に両足を乗せて縮こまっている弟へ視線を向ける。怯えたような目を向けられているのは先ほど耳を引っ張ってしまったことが原因だろう。ごめんな雪男、と謝りながらそっと手を伸ばせば、指先に鼻を近づけてきた。
 怯えさせないように手を頬へ移動させ、ゆると撫でて顎の方へ手を滑らせる。

「ふつーの猫みたいに、触っていいのか?」

 普段の雪男相手にこんなことをすれば確実に拳骨が落ちてきそうで、びくびくしてしまうのはこちらも同じだ。戸惑いながら顎の下を擽れば、雪男は眼鏡の奥の瞳を気持ちよさそうに細める。どうやら嫌がってはいないらしい。
 それにほっと息を吐いた後、とりあえず飯、と呟いてテーブルの上へ視線を向けた。

「スプーン、持て、るわけねぇよな」

 食器を雪男に渡そうとしてみるが、首を傾げるだけで手に取ってくれる様子はない。どうしたものか、と思っているうちに、皿に盛られたチャーハンに雪男が気が付いた。すん、と鼻を寄せ、それが食べ物である、と判断したのだろう。そのままはぐ、と食いつこうとしたのを「わぁっ! ストップストップ!」と燐が慌てて止めた。
 確かに猫であるのならそういう食べ方をするのも仕方がないだろう、けれど雪男のそのような姿を見るのは燐の方が耐えられない。本人が聞けば「兄さんは一体僕をどんなやつだと思ってるの」と眉を顰めそうだったが、雪男は燐の自慢の弟なのだ。人当たりが良くて、いつも穏やかで、頭のできもよくて、(燐に対してだけは怒りっぽくてすぐに手が出たり子供のような態度を取る点に目を瞑れば)完璧に近いとさえ思っている。だから、そんな雪男が所謂犬食いをする姿なんて、とてもではないが許容できなかった。

「雪男、ほら口開けろ」

 かといって猫がスプーンを持ってチャーハンを食べたら、それはそれで革命的出来事だ。椅子に大人しく座っていることはできるようなので、チャーハンを乗せたスプーンを口元へ近づけてみる。
 すん、と鼻を鳴らし、差し出されたものをじっと見つめた後。
 ぺしっ。

「違ぇっ! 手を出すな手を! 口を開けろっつってんの」

 振り払われ、チャーハンのシャワーが床に降り注いだ。後で掃除しておかなければ。
 差し出したスプーンを口に入れる、ということが理解できないようで、「だから、ほら、こーやって、ふうんはっへ」と自らスプーンを咥えて食べてみせた。ちょっと油が多い気がするのはご愛嬌。せっかく普段台所に立たない弟が火を通してくれたのだ、文句をつけては罰が当たるというもの。
 ほら、ともう一度掬って差し出して、ようやく雪男がぱくり、とそれに食いついた。むぐむぐと口を動かしてこくり、と呑み込む。どうやら空腹ではあったようで、ひくんと耳を動かした後、弟は今度は自ら「あ」と口を開けた。

「……何この雪男、」

 ちょーかわいいんですけど、と聞くもののいない独り言を呟きながら、せっせと双子の弟の口へチャーハンを運ぶ。作り置きはいくつかしてあったが、味を変えたチャーハンをもう少し追加しておこう。またこのようなことが起こるのは勘弁してもらいたいが、自分たちの置かれている状況を鑑みるに何が起きても不思議ではないと思った方がよさそうだ。
 皿の上のチャーハンを一粒残さず雪男の口に押し込んで、ざっとテーブルを片付ける。皿洗いを含めた片付けはまた明日に回すことにし、一度部屋に戻ろう、と雪男を呼べば、椅子から降りた弟は四つん這いの状態で燐の足元に近寄ってきた。今までずっと椅子に座っていたため気が付かなかったが、猫耳猫尻尾で言動までも猫になっているとなれば移動する姿もそうであるのは仕方がないのかもしれない。
 きっと燐がここまで移動するのもこの姿だったのだろう。そう思いながら雪男に付き合ってゆっくりと部屋へ戻り、惨状に唖然とする。

「……俺がやったんだろうなぁ」

 床の上に広がった布団にシーツ、その下に隠れているものは漫画雑誌だろう。双子の弟がこのようなことをするとは思えず、燐に記憶はないが、今の雪男のように猫となっていたときに暴れるか何かしたに違いない。
 これは酷い、と思わず呟いたところで、床に丸まっていた白いシーツへ向かって雪男がずざーっと滑って頭を突っ込んだ。ふんふんと鼻を寄せ、丸めた手でシーツを押えてがじ、と噛り付く。尻の上で揺れている尻尾が妙に可愛らしい。
 ああ猫ってこういうことするよなぁ、と思いながら、散乱している漫画雑誌を拾い集める。シーツや布団はきっと戻したところでまた遊び道具にされるだろう。救えるものだけ救っておかないと、と手にした雑誌を燐のベッドの方へ避難させていれば、不意に尾へ衝撃を覚えた。
 何事だ、と振り返れば、無意識のうちに動いていた尾へ雪男が手を伸ばし、じゃれついている姿がある。

 やばい、くそ可愛い。

 右手で口元を抑えて緩む頬を隠し、「しょうがねぇなぁ」とくぐもった声で言う。

「兄ちゃんが遊んでやるよ!」

 ぱたむぱたむと尾を意図的に大きく揺らせば、目で追いかけていた雪男がそれへパンチを繰り出した。ぱたむぱたむ、と同じように自分の尾も揺れていることに、弟は気が付いているのだろうか。
 燐とは異なり、どうやら雪男猫はあまり室内で大きく暴れたりはしないようだ。そう判断し、床に広がっていたシーツと布団を拾い上げる。布団は仕方がないが、シーツの方は洗濯に回して新しいのを出した方が良いだろう。

「確かこの辺にしまったはず……って、ゆき、痛ぇよ、尻尾は弱ぇんだから、手加減しろ」

 若干強めに尾を抑え込まれ、奪い返しながらそう注意をしてみるが、弟に伝わっている様子は見られない。きょとんとした顔で首を傾げられては、これ以上怒る気力も失せるというもの。苦笑を浮かべてぐり、と弟の頭を撫でる。いつの間にか燐を追い抜いて育ってしまった弟の頭を撫でる機会などそうあるものではない。
 これはこれで楽しいかもしれない、と思いながらシーツを取り換え、洗濯物を纏めていたところで、ふともう一つ白い布の塊が落ちていることに気が付いた。なんだろう、と拾い上げてみれば、丸まったシャツ。その大きさと、いつもかけてある場所にないことから、それが弟のものだとすぐに分かった。

「うわ、噛み痕ついてら」

 じっとりと湿った箇所のあるそれを広げてみれば、ところどころ明らかに歯で噛んだと思われる部分が見受けられる。誰がそうしたのか、考えるまでもない。せめて自分のシャツで遊べばよいものを、と記憶のない自分に突っ込みを入れるが、やってしまったものは仕方がない。これも洗濯に回してアイロンをかけておこう。
 ばさり、と丸めたシーツの上へシャツを落とし、ひとまずの片づけは終了だ。あとは雪男を外に出さないようにしながら今日が終わるのを待てばいい。

「ったく、あの野郎、何だってこんなことすんだ」

 ただ二月二十二日というだけでこのような目に合わせ、一体何が面白いというのか全く理解ができない。燐へちょっかいを出すならまだいいが、雪男まで巻き込むのは心底勘弁してもらいたかった。
 ごめんな、となんとなく謝罪を口にしてみるが、雪男の耳には届かない。猫耳を生やした弟は、ぐんと伸びをした後大きな欠伸を零す。動いたせいで疲れが出たのか、満腹であるせいなのか。釣られて燐もまた、ふわ、と口を大きく開ける。

「なぁ、雪男、昼寝しねぇ? 昼寝」

 猫である弟に言葉は通じない、それでもそう声を掛け、布団を引き上げた雪男のベッドの上へ腰を下ろした。一緒に寝ようぜ、と手を伸ばして誘ってみれば、乗り上げてきた弟がすり、と額を胸元へすり寄せてくる。その頭をきゅうと抱きしめ、見慣れない三角の耳の付け根を引っ掻いて後頭部を撫でた。その手つきが気持ちよかったのか、あるいは単純に眠たいだけなのか。どこかとろりとした顔で見上げてくる弟は、やはり幼い頃の面影を残しており、「可愛い顔してんなぁ」と思わず笑みが零れる。
 雪男のこんな無防備な表情を見たのは久しぶりかもしれない。
 この寮に越してきてから、いや修道院にいた頃から、双子の弟はどこか張りつめた顔ばかりするようになっていた気がする。その原因は十中八九魔神の炎を継いだ燐の存在であろう。
 雪男が燐のためにいろいろと辛い思いをしているのを、今は燐もよく理解している。懸命に努力して、どうにかして双子の兄の生きる道を作ろうとしているのをよく知っている。元凶といってもおかしくはない場所にいるからこそ、燐には「無理するな」と言う資格すらないような気がして何も言えないままだ。せめて自分ができることをと精一杯頑張っているつもりなのだけれど、さほど進歩は見られずいつも怒られてばかり。

「お前さ、しばらくこのままでもいいんじゃね?」

 猫のままでいれば、不出来な兄に腹を立てることもなく、怒鳴ることもなく、面倒くさいことを忘れてゆっくり眠ることができるだろうに。
 額をすり寄せて雪男の首筋を撫でながら燐はぽつりそう呟く。そーすりゃ俺も怒られなくて済むしな、と続けて笑った。
 血を分けた同じ年の双子の兄弟。生きてきた年数は同じであるはずなのに、どうしてこんなにも差があるのだろう、と思わなくもない。そこには妬みのような褒められたものではない感情も転がっているだろう。だからどうしても弟相手には素直に言葉が口にできないことが多かった。
 なぁ、ゆき、と弟の名前を呼ぶ。
 応えるようにすりと甘えて擦り寄ってくる様子は雪男であって、雪男でないような。それでもここに居るのは燐のたったひとりの大切な弟だ。

「ひでぇ兄ちゃんでごめんな?」

 祓魔だとか悪魔だとか、全然関係のない場所で、普通の幸せを手に暮らしてもらいたいと願うべきなのだろう、そうできるようにしてやった方が雪男にとっては良いのだろう。そうすれば少なくとも悪魔の弟だと指をさされることもなく、命の危険のある任務につくこともなく、双子の兄の生死に気を揉む必要もなくなる。あるいは祓魔の道から逃げることはできなくとも、せめて人として真っ当な道を行かせたいのなら燐との兄弟以上の関係は断たなければならない。分かっているのだ、そんなことは。
 けれど、一度与えられた温もりを手放すことはもはや出来そうもない。
 燐のこの身体には悪魔の血が流れ、悪魔の炎が灯っているのだと言う。倶利伽羅を抜いたその姿を自分の目で見たことがある、確かにあれは既に人間とは言えないものだ。悪魔なのだ、この身体は。奥村燐という存在は、まごう事なき虚無界の存在なのである。
 それでも十五年人間として生きてきた、諦めの悪い自分がどうにかしてしがみ付けないかと足掻いた先にいたのが、弟だった。人間であれば誰でも良かったわけでは決してない、そこにあったのが双子の弟だから、雪男だったから、燐は救いを求めるようにその腕の中に飛び込んだ。雪男がいるからこそ、燐もまだ人間であれる。雪男が必要とし、愛してくれているから、まだ物質界にも居場所があるのだと思えるのだ。
 もしその腕が離れてしまえば、きっと燐の心も体も急速に虚無界へ引き寄せられてしまうだろう。
 好きだぞ雪男、とつい先ほど生えたばかりの三角形の耳へ、内緒話をするかのようにそっと囁いた。
 この世の中の誰よりも大切で、誰よりもその幸せを願ってやまない、唯一の双子の弟。

「ゆき、早く戻れよ」

 こうしてごろごろと甘えてくれる雪男も可愛くて仕方がないが、ちゃんと言葉を交わしたい。たとえ眉を吊り上げて吐き出される怒鳴り声だったとしても、雪男の口から「兄さん」という言葉を聞きたかった。

「早く戻らねぇと、兄ちゃんとえろいこともできねぇぞ?」

 この状態でできることといえば精々がキスくらいだろう。
 ひっそりとそう言葉を紡いだ後、燐はちゅ、と雪男の唇へ自分の唇を押し当てる。

 と、同時にぼふん、という音が響き、白い何かに視界を覆われた。





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2012.06.05