ハリネズミの抱擁1


Side-Y


 いつの間にか嘘を重ねることに慣れてしまっていた。罪悪感がないわけではないはずだが、そう思い込もうとしているだけかもしれない。正直な心情を吐露することが怖いのか、単純に面倒くさいだけなのか。上辺だけの言葉を取り繕う気安さにどっぷりと肩までつかってしまっていた。
 だから。

「嘘つき」

 ぽそり、と紡がれた兄の言葉へ、咄嗟に何と返したらいいのかが分からなかった。え、何が、と素直に疑問を零した自分の顔はさぞや抜けた表情であっただろう。
 カチャリ、と皿を重ねながら腰を上げた燐は、雪男の言葉には答えずに汚れた食器を流しへ運ぶ。そんな兄を慌てて追いかけ、自分の食器を手に隣へ立った後、「どういう意味」ともう一度尋ねてみた。
 本当は。
 尋ねずとも分かってはいたのだ。

「雪男、これ、辛くね?」

 食事中、そんな兄の問いかけに雪男はそう? と笑みを浮かべ、答える。いつものように、「美味しいよ」と。
 燐の非難は、その言葉に対するものだったのだ。


 雪男が異変に気が付いたのはごく最近のことだ。しかしいつから、と具体的に尋ねられても答えられない。いつの間にか知らぬうちに、そうなっていた。
 それと気づくと同時にまず考えたのは、どちらがおかしいのか、ということ。
 兄である燐がおかしいのか、あるいは雪男自身がおかしいのか。
 こればかりはひとりで検証することもできず、ふたりを知る人物へ確認を取った結果、自分がおかしいのだという結論に至った。
 燐には何一つおかしなところなどない。彼は以前と変わらぬまま、ただ身体が悪魔のそれへと変化してしまっただけで、その心根が優しいところも真っ直ぐなところも変わらない。運動能力はもとより優れており、反比例するように頭脳の方は多少残念な仕様であるのも変わらないままで、当然彼が得意とする料理の腕もそのままであったはず。
 この寮にてふたりで暮らすようになって以降、食事は基本的に兄の手に寄るものを口にしていた。「いつものように美味しい」というのは雪男にとっては変わらぬ事実であったはずなのだが、いつの間にか。
 そう本当にいつの間にか。
 味が、分からなくなっていた。
 肉であっても魚であっても、白米であっても野菜であっても何の味もしない。徐々にそのような症状が現れたというわけではない、気が付いたらそうなっていた。
 お裾分けです、とそれとなくしえみやシュラ、メフィストへ燐の手料理を食べさせてみたが、彼らは一様に「相変わらず美味しい」と喜んでいる。とすれば、燐の味覚がおかしくなったわけではない、雪男の舌がおかしくなってしまったのだ。


 ほんとに何の味もしねぇの、とぼそり紡がれた言葉にうん、と頷く。普段頭の回転が鈍く、決して鋭い方ではないはずの彼が、どうして雪男の症状に気が付くことができたのかは分からない。抱いた疑問へ、むしろ「分からないわけねぇだろ」と燐の方が不思議そうな顔をしていた。
 食堂での片づけを終え、無言のままふたりで戻った六〇二号室。ベッドの縁へ腰を下ろし、燐は尾を揺らしてクロと遊んでいる。そんな彼へ視線を向けぬように机へ向かったが、当然追及の手から逃れられるはずがない。

「いつから」

 紡がれた問いには正直に分からない、と首を振った。

「気づいたら、こうなってたから」

 モニタに向かって作業をしながらの言葉であったが、燐はふぅん、と相槌を打って寄越す。

「悪魔関係、とか、そういうの?」
「違うと思う、いろいろ調べてみたけど」

 僕にも原因は分からない、と言えば、兄はそっか、とまた小さく頷いた。脳内に詰め込まれた知識については、昔から燐は雪男に絶対の信頼を置いている傾向がある。雪男が言うのだからそうなのだろう、と頭から信じてかかるのだ。今回もその癖が発動しているようで、「お前に分かんなきゃ、俺に分かるわけねぇよな」とそう言った。

「えっと、医者とか、そういうのは?」

 味覚障害という症状のことを燐が知っているかどうかは分からないが、悪魔が原因でないのならば、人間の病気と思考が働いたのだろう。兄の問いかけにふるり、と首を横に振る。医者にはかかっていないし、かかるつもりもない。

「でもお前……!」
「治る確証、ないし」

 確実にその治療法で治るというものがあるなら、医者へ通うのも吝かではない。しかし、おそらくそういった類のものではない、と雪男自身思うのだ。
 キーボードを叩く手を止め、身体ごと燐の方へ振り返る。そうして口にする言葉は「大丈夫だから」というどこかおざなりなもの。

「どうにもならなくなったらそのうち病院に行ってみるよ」

 心配しないで、と言ったところで、燐が気にしないはずがない。言い返そうと開かれた燐の口から言葉が飛び出る前に、「ごめんね」と先手を打っておく。

「折角兄さんが作ってくれているのに、味が分からなくて」

 がさつでぶっきら棒な言動の多い燐だが、内面にはひどく柔らかく、優しい温もりを持つ。たとえ身体的に、能力的に敵わないと分かっていたとしても、雪男のことを飽くまでも守るべき相手だと思っている。そんな弟がしょげた顔をして謝っているのだ、怒鳴りあげるなど燐ができるはずもなかった。

「お前が悪いわけじゃ、ねぇだろ」

 案の定、一度口を閉ざした兄は雪男から視線を逸らしてぼそぼそとそう言った。続けられる、働きすぎとかじゃねぇの、ちょっとは休めよ、という家族らしい小言をはいはいと聞き流していた雪男へ、「飯、」と燐が口を開く。

「どう、しようか。弁当とか、」

 雪男の舌がそのような状態でも作った方がいいのだろうか、と。
 何をどう口にしたところで無味なのだ。本来ならしばらくは作らなくてもよい、と遠慮を見せるべきなのだろうが。

「……面倒でなければ作って欲しい、かな。味が分からなくても、食べるなら兄さんが作ったやつがいい」

 これは嘘偽りのない雪男の本音。今は感じることができなくなっているが味の面でも、そして安心できるという面でも燐の料理に敵うものはないと確信している。
 きっぱりと言い切られたその希望を、燐は「弟の我儘」と取ったらしい。

「しかたねぇなぁ」

 そう言って浮かべられた笑みは少し淋しそうな色を湛えていたが、どこまでも「兄」の顔をしたものだった。


**  **


 もちろん原因など心当たるわけもなく、魔障のひとつかと勘繰っていろいろ調べてみたがこれといって手ごたえのある文献には行き当たらなかった。そもそも魔障と一言でいっても現れる症状は様々で、憑りつかれているのでない限り明確な治療法もないのだ。
 もし仮に何らかの悪魔に憑りつかれているのであれば、こうして呑気に調べものをすることもできないだろう。ここは正十字騎士團日本支部の中枢のような場所で、祓魔師の数も多い。ただでさえ魔神の血を引いた片割れであり雪男自身監視対象でもある。悪魔に憑りつかれるなどという事態に陥っていれば、必ず誰かが何かを言ってくるはずだ。現在平常通りに講師の仕事ができているため、その可能性は薄いのだろう。
 症状を燐に知られて数日ほど経ったが、状況は変わらぬまま。相変わらず雪男の味覚はまったく働いてくれていなかった。

「……これじゃあ、毒飲まされても気づけない」

 味覚はただ人間を楽しませるためだけにあるのではない。強い刺激物は身体に悪影響を及ぼすものも多く、それらを本能的に排除するためのものでもある。
 今ならそれと気づかずに毒物を口にし、死ぬことができるかもしれない。
 祓魔塾悪魔薬学担当講師に与えられた一室、悪魔にとってはもちろんのこと、ここには人間にとっても毒となるものがこれでもかというほど揃っている。相手が誰であれ毒殺する道具には事欠かない。もし自殺をするとすれば、服毒と銃と、どちらを選んだらいいのだろう。
 そんな物騒なことを考えながら、雪男は開いたページへと視線を落とした。
 図書館で適当に選んできた本、五感についてそれぞれ解説してあるもので、当然味覚についても触れられている。
 それによれば亜鉛不足が原因ということもあるらしい。直接的に栄養素が足りていないという発想はまったくなかったため、調べてみる価値はあったと言えよう。そもそも三食兄の手作りで、ある程度栄養も考えられている(信じられないがそういったことに関してだけ、彼は素晴らしい記憶力と管理能力を発揮するのである)ため、その線は端から考えてさえいなかったのだ。もちろんそうと知った今でも、この可能性は薄いだろうと思っている。
 現れた可能性を一つずつ順番に探り削除し、そうして残ったものは「原因不明」という分かりやすくも分かりにくい答え。祓魔関係のではなく、人間として専門医にかかるべきだろうと分かってはいるが、そのために裂く時間が惜しい。とにかく雪男には時間がない、やらなければならないこと、やっておきたいことが山ほどあるのだ。

「って言ってもさすがになぁ……」

 食事にさほど楽しみを見いだす方ではないが、それは常に極上のものを味わえていたが故の贅沢な感情であったらしい。実際にそれを取り上げられ、一抹どころではない寂しさと物足りなさを覚える。
「兄さんのご飯が食べたい」
 燐がいる場所ではなかなか口にできない、甘えた弱音。呟けば胃のあたりがつきり、と痛んだような、そんな気がした。
 味を感じることはできなくとも空腹は覚えるのだから、なんだか非常に損をしているように思う。
 今日は日曜日であり、学校は休みだ。講師としての仕事と個人的な調べもののため塾にやってきているが、授業も任務も予定されていない。夕方まで講師室に籠もるつもりで燐にもそう告げてあった。弁当作ろうか、というありがたい申し出はあったが、さすがに休みの日まで彼に甘えることもできないだろう。
 がさごそとビニル袋を漁り取り出した、コンビニのサンドイッチ。買って何かを食べるという行為自体が久しぶりかもしれない、と思いながら一口それに齧りつき、雪男はぴたりと動きを止めた。
 もう一口かじり、咀嚼して嚥下。
 ミネラルウォーターを流しこんで口の中を洗い、「せめてこれくらいはいいだろ」と押しつけられた燐手製のおにぎりの包みを開いた。ラップをはいでかぷり、と一口。

「やっぱり……」

 その後いくつかの検証を経た後、雪男はより詳しく己の身に起こったことを理解する。
 ここのところ燐が作ったもの以外、ミネラルウォーターくらいしか口にしていなかったため気がつかなかった。久しぶりに食べたコンビニのサンドイッチ、それらからは(決して美味しいとは思わなかったがそれでも)パンや野菜、卵、マヨネーズの味が感じられたのである。

「…………マジかよ」

 どうやら、兄の手によって作られたものに限り、雪男の舌は麻痺してしまっているようだった。




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2012.06.05