ハリネズミの抱擁2


「さて、ねぇ。何せ前例がありませんからねぇ」
 魔神の血を引く双子の兄弟、だなんて。

 もともと期待はしていなかったが、無責任な返答に抱く苛立ちも大きくなる。唇を噛んでにやにやと笑みを浮かべる悪魔を睨みつけ、わざとらしくため息をついてみせた。

「…………『祓魔師』として問題がないのであれば、それで構いません」

 さすがに放置するには症状が気になりすぎるものであるため、燐には何も告げぬまま騎士團の医務施設で検査を受けてみたのが二日前のこと。その場で分かるような異常は何も発見できず、血液検査等の結果が出たのが本日。渡された紙面はどの項目を見ても「異常なし」にチェックがついている。要するに健康体そのものであり、騎士團側が心配する悪魔としての覚醒も、魔障の影響を受けている様子もまったく見られないようだった。
 それならば一体何が原因なのだろうか。
 そう尋ねた雪男へ、日本支部支部長は、相変わらず嫌味な笑みを浮かべたまま分からぬ、とのたまったのだ。

「ええまあ、確かに『祓魔師』としては何ら問題はないですよ、今まで同様に任に当たっていただけますよね、奥村先生?」

 確認を取られもちろんです、と頷きを返す。
 ただ味が分からない、それ以外に何の症状も出ていないのだ、おとなしく休んでいろと言われても困る。
 燐の料理の味が分からないのは心の底から残念だと思うが、雪男が口にしない限り誰に知られることでもなく、また迷惑もかけないだろう。そのうち治る可能性にかけ、放置する方向に決めた。何らかの進展があれば必ず報告するように、という忠告を聞いて理事長室を後にする。

 寮へ戻る間に口から零れる大きなため息。
 兄の手が入った料理以外ならばまともな味はする、しかし残念なことに(あるいは当然のことながらと言うべきなのかもしれない)雪男は今まで燐の料理以外で美味いと思ったものが一つとしてないのである。味がないものを食べ続けるか、あるいは不味いものを食べ続けるか。突き出された選択肢はその二つ。
 何がどうして、どうやって、こんなことになってしまっているのか。
 つい先ほど耳にした悪魔のセリフが脳内で蘇る。

「お兄さんの料理限定、となれば、やはり、――――――」

 そんなことは、あの男に指摘されずとも分かっているのだ。
 治る見込みもなく、治療法もなく、原因も分からず、そうして燐の料理を味わうこともできない。
 そんな日々が続くのはどう考えても精神衛生上、良いはずがなかった。


**  **


 食事を共にするものの調子が悪いとなれば、その食卓が華やぐことなどないだろう。雪男の味覚障害が発覚してから、旧男子寮食堂はどこか沈鬱な空気で満たされることが多くなった。以前は学校でのこと、塾でのこと、シュラとの修行の成果を子供のように話していた燐も、言葉数少なく雪男を伺うように食事をしている。
 いただきます、と両手を合わせ、まず一口、雪男が箸を運ぶまで決して自分は手を出さない。僅かに顔を顰めて首を振る弟を確認して、「そっか」と燐もまた眉を下げる。しかし、次の瞬間にはぱ、と表情を変え、「気にすんな! 焦ってもしょうがねぇし!」と笑みを浮かべてみせるのだ。それは雪男を気遣ってのことなのだろうが、自分の味覚がおかしいことよりもむしろ、そんな燐の顔を見ることの方が辛かった。
 視線を逸らして口の中の物を飲み込み、もう一口。兄の手料理を食べることは雪男にとって当たり前すぎて、正直味など詳しく覚えていない。それでも見たことのある料理、食べたことのある料理ばかりのはずであり、こんな味だったかな、と脳内で補完しながら箸を伸ばした。
 本当にどうして燐の料理だけ、そう考え込みながら食事をしていたため、その兄に名前を呼ばれたことにやや間を空けて気がつく。

「え、何、呼んだ?」

 顔を上げ、正面から燐を見つめてしまったな、と雪男は内心眉を顰めた。いつも迷いなく前を見つめるその青い瞳が今は雪男を捕らえている。何かを決意した色を湛えており、面倒くさいことになりそうだと過去の経験に基づき雪男はそう察した。
 案の定燐は「いい加減にさ、」と箸を置いて言葉を紡ぐ。

「ちゃんと病院行って診てもらってこい」

 雪男がいい、というから静観もしていたが、一切治る様子がみられないとなればこれ以上黙ってもいられない。その時間がどうしても取れないというなら、メフィストに掛け合って一日空けてもらうよう頼むから、と燐はそう言った。
 兄として弟を心配する言葉。
 彼は知らない、既に騎士團内部の医者により雪男が精密な検査を受けていることを。雪男が話していないのだから、知る由もない。

「いいよ、別に。どうせ原因も分からないんだろうし」

 雪男の言葉に「何がいいんだよっ!」と燐は両手で机を叩いて立ち上がった。ばんっ、と派手な音が食堂に響き、側の床で食事をしていたクロが驚いて飛び上がったのが見える。

「よくねぇだろ、全然っ! なんか少しでも分かるかもしれねぇじゃんっ!」
「だから、どうせ分からないよ、自分でも調べたんだから」
「お前は医者じゃねぇだろうが!」
「医工騎士の称号はある」
「だからって、病気が治せるわけじゃねぇじゃん!」

 なぁ雪男頼むから、と泣きそうな声で燐は言う。

「何の味もしねぇってやっぱどっか悪いんだよ。今はまだそれだけかもしれねぇけど、これから先、他にも悪いとこ出てきたらどうすんだ?」
「そのときはそのときだろ。誰に迷惑をかけるわけでもない、僕が言わなきゃ誰も気がつかないことじゃないか」
「だから、そういうことを言ってんじゃねぇっ!」

 だん、と握りしめられた拳がもう一度机に叩きつけられた。興奮し加減を忘れた燐の力だ、みしり、と木の天板が嫌な音を立てる。

「ちょっと兄さん、机壊さないでよ」

 落ち着いて、と宥める気があるのかないのか分からないような雪男の言葉に、「お前が怒らせてんだろっ!」と燐はますます声を荒げた。

「俺の話をちゃんと聞けっ!」
「聞いてないのは兄さんの方だろ、僕は放っておいてくれって言ってるの」
「ほっとけるかって俺は言ってんだっ!」
「兄さんには関係ないことだよ」
「関係ないわけねぇだろうが、俺はお前の兄ちゃんだぞ!?」
「たかだか数時間の差で兄ぶるなっていつも言ってるよね」

 弟の調子が悪いのに無視できるはずがないと怒鳴る燐に、いいから放っておいてくれと言い張る雪男。ふたりの主張が噛み合うことはなく、三分の一ほど料理の残った食卓を挟んで口論を繰り広げる。
 言うつもりは、なかった。
 騎士團で検査を受けたことは言おうと思っていたが、それ以外のことはまだ彼に言うつもりはなかったのだ。
 けれど。

「いい加減にしろよ、雪男っ!! 何でお前はいつもいつも……ッ」
「うるさいなぁ、だから兄さんには関係ないって言ってるだろっ!? 大体、」
 兄さんの料理以外だったら味は分かるんだから!

 何の味もしない物を口にし続けて疲労した精神であった上、先日メフィストに言われた言葉が地味に痛く、神経がささくれ立っていた。
 そして燐とのこの口論。
 いや、それらすべてはもはや言い訳にもならないだろう。

「はあっ!? なんっ、それ、どういう、――――ッ!?」

 怒鳴り返す途中でその言葉の意味が脳に届いたらしい。見開かれた青い瞳がこんなときだというのにいやに綺麗に見えた。ひゅ、と喉を鳴らして息を吸い込んだ後、燐は「マジ、か……?」と掠れた声で問う。
 今更違うと言えるはずもなく、言うつもりはなかったと口にしても意味はない。こくり、と頷いた弟を前に、兄の大きな目がゆらり、と揺れた。

「なん、だよ、それ……」

 呟く燐の顔を直視することができず目を逸らせば、机の上で握りしめられた拳が小さく震えているのが見える。この手を守りたくて、この手が紡ぐ優しくて暖かなものを守りたくて、ただそれだけだったはずなのに。

「なんだよそれ、何なんだよ、それっ!」
 俺への当てつけかよっ!

 悲痛な叫びを聞いていたくなくて、「知らないよっ!」と雪男もまたテーブルを叩いて立ち上がる。その拍子に腰掛けていたイスががたん、と派手な音を立てて倒れたが、ふたりにとってはどうでもいいことでしかない。

「僕だってなりたくてなってるわけじゃないっ!」

 燐の料理が美味いことなど、おそらくこの世で誰よりも知っている。誰よりも恩恵を受けている、そして誰よりも楽しみにし、頼りにしているというのに、どうして自分が。
 一体雪男が何をしたというのだろうか。
 治せるものなら今すぐにでも治したい。
 そう言った声が震えていたが、もはや取り繕うだけの気力もなかった。
 そんな弟を前に、「あ……」と燐が小さく声を零す。

「ご、ごめ、――――ッ」

 ごめん、と一言いうや否や、がたがたとイスを倒して燐は食堂を飛び出して行った。呼び止めることも追いかけることもできず、雪男はそのままへたりと床にしゃがみ込む。

「……なん、で、こんな……」

 もとはといえば味の分からなくなった自分に原因がある。もっと上手く隠していれば、あるいはそんな病にかかることさえなければ。
 きゅ、と唇を噛んで零れそうになった涙を堪えていれば、にゃあ、と猫の鳴き声が耳に届く。

「クロ……」

 にゃあにゃあと鳴きながら、猫又は雪男と、そして燐が出ていった食堂の入り口を交互に見やった。ごめんね、と謝ってその頭を撫でれば、「にゃぁ……」とクロもまたしょげた声を出す。

「クロ、兄さんについててあげてくれるかな」

 おそらくこの猫又も燐を追いかけたいのだ。けれど雪男のことも心配で、おろおろと行ったり来たりを繰り返している。
 その言葉ににゃあ? とクロが首を傾げて雪男の顔を覗き込んできた。悪魔である彼と意志の疎通ははかれないが、今の言葉は何となく分かる。

「僕は大丈夫だから」

 そう口にすれば、小さな猫又は「にゃっ」と頷きを返した。たたた、と食堂の入り口へ向かったかと思えば、足を止めた彼が引き返してくる。どうしたのか、問う前にひょいと雪男の太股の上に飛び乗り、前足を伸ばして上体をあげた。

「にゃあ!」

 そうしてぺろり、と頬を一舐め。たぶん、慰めてくれているのだ。ありがとう、と口元を緩め、その頭を撫でる。

「兄さんをお願い」

 きっと彼もまたひどく傷ついている。その原因である雪男には癒すことはできないだろう。
 今度こそ燐を追いかけて食堂を出ていったクロを見送り、大きく息を吐き出す。眼鏡を外して滲んでいた涙を乱暴に拭い、とりあえずこれからどうするべきか、考えることにした。




『しばらく顔、合わせない方がいいと思う。僕が出ていくから、部屋は兄さんが使って。
 いろいろごめん』

 そんなメールを送った直後に燐から着信があった。無視をしていれば数度のチャレンジで諦めたらしく、今度はメールが送られてきた。

『どこいくんだ』
『塾の講師室』

 そこは講師にしか渡されていない鍵を使わなければ入れない場所で、たとえ燐が場所を知っていたとしてもたどり着くことは不可能だ。メフィストあたりにでも、燐に頼まれても耳を貸さぬように先手を打っておくべきかもしれない。
 祓魔関係の必要な機材はむしろ講師室の方が揃っており、持ち込むものといえば服や教科書といった私物くらいだ。それらを適当にまとめて寮の部屋から直接、講師室へ扉を繋げた。
 ポケットの中、無造作に突っ込んだ携帯電話が小さく震えて着信を示す。画面に浮かぶ、『いくな』という一言。きっと今頃、燐は雪男を止めるため必死にこの部屋を目指しているのだろう。

「…………ごめん」

 面と向かって謝ることさえ今の雪男にはできない。
 修道院を出て、兄弟ふたりで暮らし始めたこの部屋。愛着が湧くほどの時間を過ごしてはいないが、ただ燐と共に過ごせる、それだけで雪男にとってはどこよりも心安らげる大切な空間だった。
 必要最低限のものだけを詰めた鞄を扉の向こうへ放り投げ、部屋を振り返ることなく後にする。もう一度でも室内を目にしてしまえば、折角の決心が大きく揺らぎそうだった。




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2012.06.05