ハリネズミの抱擁7


Side-T

 よくよく考えれば、燐の手料理を食べる機会がなくなれば味覚が戻っているのかどうか、判断の仕様がない。だからといってその為だけに燐に食事を作ってくれるよう頼むことなどできず、結局自分の症状がどうなっているのか分からぬまま日々を過ごす。
 兄との関係は相変わらず途切れたままで、あの日以来雪男は寮のベッドで眠っていない。時折必要な物を取りに燐のいない隙を狙って帰るくらいで、それ以外は寮に近寄ってもいない。
 学校でも避け、塾でも授業以外は講師室へ閉じこもっていた。
 顔を見ればきっといろいろな感情が止まらなくなる、それが分かっていたからこそ燐の方へ視線を向ける回数も最低限にしていた。そんな弟の心情を汲み取ってくれているのか、あるいは彼自身も顔を合わせ辛いのか、燐もまた極力雪男を避けているようだった。
 だから、だろう。
 雪男は塾生から聞くまで、そのことにまったく気がついていなかった。

「先生」

 呼び止められた声が燐のものでないと、脳内で一度確認してから振り返る。

「何か質問ですか、勝呂くん?」

 奇抜なのはそのスタイルだけで、根はひどく真面目で優秀な生徒である彼は、いつも難しそうな色を浮かべている顔を更に険しくさせてそこにいた。行動を共にすることの多い志摩や三輪はいないようだ。
 にっこりと笑みを浮かべて首を傾げた雪男へ「いや、質問、というか……」と勝呂にしては珍しく言葉を濁す。

「自分には関係ないことやと分かっとります。けど、一つ、確認させてください」
 奥村のやつ、詠唱騎士でも目指すようになったんですか?

「詠唱騎士……?」

 それは聖書や経典を読み上げることによって悪魔と戦う祓魔師だ。対峙した悪魔が一体どの種類のものなのか、その種に効果のある文句が何であるのか、瞬時に判断することが要求される。頭の回転の速さ、そして記憶力がなければ勤まらない祓魔師。
 燐はその頭脳能力的にももちろん問題があるが、それ以前に、決して詠唱騎士にだけはなれない大前提がある。

「どうしてそんなことを」

 あの兄の性格からいって大人しく聖書を読んで覚えるようなことはできないはずだ。どれだけ繰り返し教えたとしても、一晩寝たらすべて忘れてしまうのだから。
 燐がそんな性格であるということも、級友である勝呂はよく理解している。だからこそ疑問を覚え、雪男へ尋ねてきたのだろう。

「いや、あいつ、ここんとこずっと聖書、読んでて。読めへん漢字を俺らに聞いてきよるんです」

 それはそれは、勉強熱心でひどく喜ばしいことではないか。
 そんな感情を抱いたのも一瞬のこと。

「何でそんなことしとるか聞いたら、『いつか当たるだろうと思って』って、」

 そう言うとって、という勝呂の言葉を最後まで聞かず、雪男は背を向けてその場から駆け出した。

「ッ、あ、の馬鹿兄……ッ!」
 
 まさか燐に限って、そういう手を取ってくるとは思ってもいなかった。落ち込むことはあっても、しっかりと意識を切り替え前に進む姿ばかりを見てきたから。一体どういうつもりで、どういう心情でそのようなことをしようと思いたったのか。
 燐の身体には魔神の血が、その炎が受け継がれている。
 倶利伽羅を抜いたその時から悪魔へと変貌を遂げてしまった彼の身体。
 ただ唱えるだけで悪魔を滅することのできる致死節が、おそらく燐にも、ある。
 教室へ戻ってみたが、もう既に帰宅した後だと言う。鍵を使うか、走って追いかけるか。どちらが早く燐を捕まえることができるだろう、考えながらとりあえず鍵束を取り出したところで「随分とお急ぎですね、奥村先生?」と背後から声がかけられた。

「どうかなさいましたか」

 振り返れば神出鬼没で普段何をしているのかまったく分からない、学園の理事長である悪魔の姿。にやにやと腹立たしい笑みを浮かべる顔を思い切り殴ってやったらさぞやすっきりするだろう、といつも思う。

「――ッ、なんでも、ありません。仕事は終わってますので」

 事情を説明するだけの時間も惜しく、とにかく早く寮に戻りたくて鍵を探していれば「そういえば、」と悪魔はのんびりとした口調で言葉を紡いだ。

「まだお兄さんとは喧嘩中で?」
「…………あなたには関係ありません」
「いえ、ね? 一応私はあなたがた兄弟の後継人でもありますから。弟は味覚に異常を来たし、兄はまともに食べていないとなれば多少は心配するでしょう?」
 悪魔の身といえど。

 嘯かれた言葉にどういうことだ、と眉を顰める。

「先日奥村くんと少しお話ししまして」

 そのときに聞いたのだそうだ。
 双子の弟がまともに食べることができないものを、どうして作っているのかが分からなくなった、と。どうして食べているのかが分からなくなった、と。

「……物騒なことも、言ってましたかねぇ」

 自分さえいなければ、味の分からない料理も消えてなくなるから、弟はまともになるはずなのだ、と。
 燐がそう言う切っ掛けを作ったのはメフィスト本人なのだが、雪男はそのようなことを知る由もない。悪魔の言葉を最後まで聞かず、寮の玄関へ続く鍵を鍵穴へ差し込んだ。

「兄さん……ッ!」

 蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開いた六〇二号室の扉、薄暗い部屋。まだ帰宅していないのだろうか、そう思いながら電気をつけ、明りに目が慣れる前に飛び込んできた光景。
 白いシーツに皺を寄せ、くったりとベッドに身体を横たえている兄の姿。
 投げ出された手の先に広がる書籍、数々の悪魔を死に至らしめる文句が連ねてある本。

「兄さんッ!!」

 血の気が、引いた。




 ストレスが身体的異常となって現れるのはつまり、己の心を守ろうとする自衛のようなものだと思う。これ以上ダメージを与えるなという、無意識からの呼びかけ。
 雪男自身このような形でストレスを表に出したいと思っていたわけではない、そうすることによって燐が傷つくと分からないほど馬鹿でもない。だから知られたくなかった、高ぶった感情のまま口を滑らせた自分が憎らしくて仕方がない。
 ストレスを抱いていたことは確かだろう、その原因が燐であるということもまた事実。
 雪男の無意識の自衛が燐を傷つけた。
 そして燐の自衛もまた、雪男をひどく傷つけてしまうのだ。
 叫ぶように兄を呼び、その冷えた肩を揺さぶる。

「兄さんッ、兄さん兄さん! 起きて、起きろよっ!」

 兄さん、と子供のように燐に取り縋った。白く青ざめた頬を叩き覚醒を促す。うん、と小さく喉が唸ったと同時に燐の眉間にしわが寄った。

「兄さん!」

 冷静に思えば揺さぶって覚醒を促すことはせず、ただ心音と脈を確認すれば良かっただけのことなのだ。けれど、今の雪男にはそういった常識さえ頭の中には浮かばず、とにかくその目が開かれ自分を捕えてくれるまで生きた心地がしなかった。

「ゆ、き……?」

 うぅん、ともう一度唸ったあとゆっくりと開かれた瞼、青い瞳が雪男を捕える。久しぶりにその口から紡がれる自分の名前、ぶわ、と全身から汗が吹き出したような、そんな気がした。

「――ッ、兄さん!」

 まだ横たわったままの燐に抱きつき、その肩へ額を埋める。びっくりさせないで、と震える声で燐を責めれば、兄は「悪ぃ」と素直に謝罪を口にした。聖書を読み上げているうちに眠りに落ちてしまったようで、まだはっきりと覚醒していない様子が伺える。焦点の合わない視線で雪男を眺めた後、どうしてここに弟がいるのか、こんなにも血相を変えているのかに疑問を抱き、「お前、なんで、」と小さく言葉を零した。

「俺、……」

 そうして眠りに落ちる前まで自分が一体何をしていたのか。
 指先に触れる紙の感触でようやく思い出したのだろう。燐がそれを再び手に取る気配に気が付き、身体を起こした雪男は聖書を取り上げて扉の方へ投げつけた。ごとん、と派手な音を立てて壁に衝突し床へと落ちる。基本的には読めれば良いという考えで、さほど丁寧に本を扱わないタイプではあったが、それでも雪男が本を投げるなど今まで見たこともない。
 驚いて声も出ない燐を睨みつけ、「何、するつもりだったの」とその行動の真意を問うた。

「聖書、読んで、何をしたかったの」

 書かれていることの内容を理解することは祓魔師にとって大事なことだ。けれど、それを音として耳にすることは、燐の場合洒落にならないことになりかねない。今まで一度もそのことについて燐に注意を促さなかったのは、勉強嫌いな彼がわざわざそんなことはしまいと思っていたから。そして、そう口にすることで燐がもはや人間ではないことを認めざるを得なくなってしまうから。
 ゆっくりと身体を起こした燐は、「致死節、」と呟いて床に落ちた本へ目をやる。

「探してた、俺の」

 命を終わらせるための祈り。
 すぅ、と目の前が暗くなる、きっと今雪男に襲いかかっているものこそ絶望と呼ばれるものだろう。
 何でそんなことを、とひどく掠れた声の問いかけが零れたのは意図してのことではない。正直答えなど聞きたくなかった。分かっているのだ、燐を追い詰めた原因が何であるのか。
 それでも無意識のうちに紡がれた疑問に、ひゅ、と喉を鳴らした燐が「俺はっ!」と真っ青な目で雪男を睨みつける。

「もうお前の側に、いられねぇっ、いちゃいけねぇんだよっ!」

 怒鳴り声にも似たその叫びの意味が一瞬取れなかった。どういうこと、と雪男が問う前に、「飯食わなくても死なないんだ、致死節探すしか、ねぇじゃん」と燐は投げ捨てられた聖書を拾うためベッドから足を下ろす。兄さんっ、と悲鳴を上げた雪男は燐の手首をつかみ、力任せに自分へ引き寄せた。

「ゆき、離せ! 離せよっ、俺の、致死せ、――――ッ!?」

 逃げだそうともがく燐の言葉を聞いていたくなくて、とっさにその口を塞いだ。両手は彼の身体を押さえ込む為に使っていたため、己のその唇で。

「んっ! ゆ、き! なっ、……っ」

 それからも逃れようとする兄の唇を執拗に追いかけ、舌を伸ばして舐め回す。吐き出される言葉が雪男の鼓膜を震わせないように、燐の気持ちを揺さぶらないように、一言も漏らすことなく自分の口内へと招き入れるように。

「ふぁっ、あっ、はっ、はぁ……っ」

 仕掛けている雪男でさえ酸欠を覚えるほど長い口づけ。離れた時には互いに息も絶え絶えで、しばらくは呼吸を整えることだけに集中しなければならなかった。
 燐の料理の味だけが分からない。意図してのことではないとはいえ、そんな症状に見舞われた弟を前に、兄がどのように考えるか分からなかったわけではない。自分は要らないのだ、という結論に至るだろうことくらい分かっていた。
 そんな言葉を聞きたくなかった。けれどそうではない、と信じてもらうための言葉を紡ぐ能力が今の自分にはない。だからせめてこれ以上傷つけぬために、雪男は燐の側を離れたというのに。
 兄さん、とようやく整った息の下、燐を呼ぶ。

「僕はそんなこと言ってない、望んでない」

 きっぱりとそう言い切るが、やはり燐の心には届かない。ふるふると首を横に振り「俺が、嫌なんだ!」と燐はそう吐き捨てた。

「側にいればいるほど、俺、雪男からいろんなもん奪うんだ。お前は俺にいろいろくれるのに!」

 返すどころか、逆に奪ってしまっている。それが辛い、だからもう側にいたくないのだ、と綴られる言葉。脳が殴られたようにぐらり、と嫌な揺れ方をした。
 いてはいけない、いることができないではなく、「いたくない」。そこに絡まる燐の意思、雪男の存在に対する拒否。
 兄さんが、と紡ぐ言葉が震えていたのは気のせいではないだろう。今にも泣き出しそうなところを必死に堪え、雪男は口を開く。

「兄さんが、僕から何を奪ったっていうの、僕は何かを奪われたとか思ったことない!」
「ッ、奪ってん、だよっ! いっぱい、いろいろっ! じゃなきゃ、お前、今頃、こんなとこいねぇしっ! 悪魔とか、関係ねぇとこいるしっ! 普通にガッコ行って、普通に友達とかと遊んで、普通に笑って、普通に、」

 まだ続きそうだった燐の言葉を「うるさいっ!」と切り捨てる。

「うるさい、うるさいうるさいっ! 普通って、何それ、ねえ、普通ってなんだよっ! いつ僕がそれを望んだ、いつ僕がそれが欲しいって言った!?」

 燐の胸倉を掴んだままそう怒鳴る雪男の頬は、涙で濡れていた。兄の前で泣くなど、何年振りだろう、そう思うが一度溢れた感情はもう止まらない。ぼろぼろと泣きながら「お願いだから勝手に決めつけないで」と雪男はそう乞うた。

「奪いたくないって言うなら、ねえ、お願い、」
 僕から兄さんを奪わないで……。

 小さな頃からずっと燐だけを見て生きてきた。
 誰よりも大事で、誰よりも守りたい存在。
 同じ腹から生まれた双子の兄弟、運命を共にする魂の片割れ。側にある、ただそれだけで何もかもが些細なことに思えるほど。
 おそらく燐が悪魔の力に目覚めさえしなければ、雪男はこんな不安に襲われることもなかったのだろう。またあるいは祓魔師の道を目指すと宣言しなければ、まだマシだったのかもしれない。
 祓魔師というものはただでさえ命の危険が伴うというのに、燐はその炎故、余計に危険な位置にいる。どんな失態も犯すことができない、細い針金のような道を進んでいるようなもの。
 危うい場所を進む兄と共に生活する小さな監獄。側にある温もり、浮かべられた笑みに幸せを覚えれば覚えるほど、怖くなった。

「本当に僕は、ずっと、兄さんが全部、だったんだ」

 だからそんな燐がいなくなってしまったらと。
 考えただけでも気が狂いそうになる。

 泣きながらひっそりとそう呟いた雪男の手は見ていて可愛そうなほどに震えており、紡ぐ言葉に偽りのないことがはっきりと伝わってきた。
 ああそれが、と燐は唐突に理解する。
 おそらくそれが、雪男の味覚を奪う最大の、原因。
 燐は必死だった、生きるために、己の存在を確立するために、もう前に進むしか道は残されていないと思っていた。魔神を殴って愛すべき父の仇を討つ。そうするために自分ができることを選んだつもりだった。
 それが間違った選択だとは思っていない、いないけれど、完全に正しいものでもなかったのだろう。

「――――ッ」

 見開いた燐の目からぼろり、と涙が零れる。ごめん、ごめんゆきお、ごめん、と喉をしゃくりあげながら謝罪を繰り返した。
 燐の生きる道が雪男を追い詰めた、そんな弟からただ燐は逃げようとしただけだ。これ以上雪男を傷つけたくない、それはつまりこれ以上燐自身が傷つきたくないということ。辛く苦しい場所に背を向け、目を背けようとしただけのこと。

 兄を失う恐怖に怯え、その過剰なストレスが身体への異常として現れた弟。
 弟を傷つけることを恐れるあまり、すべてのものから逃げ出そうとした兄。
 自分を守ろうとする、その行為が互いに傷をつける結果となってしまう。
 相手を傷つけることなど、望んでいるわけではない。むしろ傷つけまいと、必死になっていたはずなのに。
 なんで、と涙に濡れ呆然とした声音で雪男が呟いた。

「なんで、上手くいかないんだろうね、僕たち……」

 共に生まれた双子だというのに。
 誰よりも側にあり、誰よりも近しい存在であるはずなのに。

「……双子だから、じゃねぇかな」

 近すぎるが故に上手くいかない。
 けれど双子だからこそ。
 手を伸ばす先が、お互い以外に見つけられず、
 求め合うことを止められない。




 それぞれの弱さを守るために身体に纏った鋭い針。どうすればそれを納めることができるのか、その本人たちすらも分からない。針を立てたまま抱き合えば相手を傷つけてしまうのは当然のこと。
 傷つけたくはないのだ。
 傷つけられたくもないのだ。
 それでも寂しい、と相手を求めてしまう。
 二匹のハリネズミが選んだ道は、離れるくらいならば自ら傷を負うというもの。
 針の納め方を知らない兄弟は、互いの針で負った傷を互いに舐めて癒し合っている。
 それはますます深みにはまっているだけだ、と理解しながらも、見ない振りをして。





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2012.06.05
















長い話を書くととりあえず一回は雪男が泣く、という法則。

Pixivより。