ハリネズミの抱擁6 『りんー……』 「……クロ、……ああ、飯の時間だな」 擦り寄ってきた黒い猫又を抱え上げ、ふらりと腰を上げる。待ってろよ、すぐ用意するから、と言いながら厨房へ向かい、机の上に並べた食事はクロのもののみ。 『りんは、たべないのか?』 空腹は覚えているのだろうが、自分だけということに疑問を抱いているらしい。口をつけずに首を傾げたクロへ、燐は「そ、っか、俺も食わなきゃ、な」と力ない笑みを浮かべる。 冷凍庫にあった白飯を解凍し、漬物を取り出してさっとお茶漬けを作る。温かなお茶の香りは、普段なら食欲をそそるもののはずなのだが。 カチャカチャと小さく音を立てて機械的に食事を口へ運ぶ。咀嚼して嚥下し、また一口。自分が空腹を覚えているかどうかもよく分からない。今食べているものが美味しいのかどうかもよく分からない。きっと雪男はずっとこんな感じだったのだろう、と思ったところで胃の奥が妙な動きをした。 「ぐ、ぅ……ッ!」 口元を抑え立ち上がる。手洗いまで走るだけの余裕もなく、そのまま振り返って流しへたった今食べたばかりのものをぶちまけた。 「がっ、はっ、はぁ、は……っ」 『りんっ! りん、りんっ、だいじょうぶか!?』 流しに顔を沈め咳き込む燐の周りを、クロが心配そうにとたとたと走り回る。そんな彼へ言葉を返すこともできず、もう胃の中に胃酸しか残っていないほど吐いた後、燐はずるずるとその場にへたりこんだ。 『りんー……』 「――っ、ごめ……っ、くろ、だいじょ、ぶ、だから……」 嘔吐という行為はかなり体力の要るものだと初めて知った。口を濯ぎたいが立ち上がるだけの気力がまだ復活しない。汚れた口元を手で拭い、はぁ、と大きくため息をつく。 ここ数日この調子で、まともに食事を取れていない。それでも悪魔の身体は活動が可能であるようで、気だるさを覚える程度。このまま食べずとも死なないのではないだろうか、そんなことを思う。 「つか、悪魔ってどうやって死ぬんだろ……」 祓魔師に退治されなければ半永久的に生き続けることになるのか。 それは嫌だな、とぼんやりとした脳の片隅で思った。 ** ** 餓死することもできそうにないこの身体で、雪男のために一体何ができるのだろう。 謝ればいいのだろうか、今までごめん、と謝って済む問題なのだろうか。それで弟の負担が少しでも軽くなり、味覚が戻ってくるというのならいくらでも、何度でもごめん、と繰り返そう。 課題をきちんとやれというのなら毎晩しっかり終わらせる。 寝坊するなというなら雪男が目覚める前に起きるようにする。 授業中の居眠りだってしないように努力する。 考えなしに突っ走ったりもしない、任務に連れて行けと我儘も言わない、小遣いが少ないと文句も言わない、もう少し早く帰ってこいと怒らない、早く寝ろと注意もしない、大人しくしていろというのなら部屋から一歩も出ない、うるさいというのならもう口を開かない、出て行けと言うのなら出て行く、顔も見たくないというのならもう二度と会わない、雪男が望むとおり、望むままの行動を取る。 そうすれば、今まで雪男から奪ってきたものを返すことができるのだろうか。 少なくとも、これ以上奪うことはなくなるのだろうか。 相変わらずまともに食事を取ることもできず、とりあえず水だけを流し込んで胃を宥める日々。匂いのないものであれば多少は大丈夫らしいと気が付いた。あるいは、燐が作ったもの以外で雪男が好んで口にしていたものが、ミネラルウォーターだったからかもしれない。 当然身体を動かすだけのエネルギィは賄えず、普段通り学校と塾へ向かうだけでも一苦労だ。寮へ戻ると同時にどっと疲労感が押し寄せ、部屋に行かずこのまま玄関で眠ってやろうかとさえ思ってしまう。 さすがにそれはまずいだろう、とふらつく身体を引きずって階段を上り、部屋の扉を開ければ、「おやおや」と聞き覚えのある声が鼓膜を揺さぶった。どこから入ってきたのか、室内には奇抜な衣装をまとった学園の理事長の姿。 「兄弟そろってなんとも覇気のない顔ですねぇ」 奥村先生はともかくあなた、ちゃんと食べてます? 兄弟の勉強机に腰を下ろし、ステッキでびしり、と燐を指して悪魔がそう言う。 「……うるせぇ、ほっとけ」 言葉を返し、悪魔の前を素通りしてベッドへ身を投げ出した。そういえば、雪男も燐に対し似たような言葉を返していたな、と思い出す。反応の薄い燐を見やりもう一度「おやおや」と呟いたメフィストは、悪魔らしくぐっさりと燐の傷を抉るような言葉を紡いだ。 「弟さんと違ってあなたは味が分かるのでしょう?」 雪男は最後のメールで騎士團施設で検査を受けたというようなことを書いていた。とすれば、彼が見舞われている症状をこの男が把握していてもおかしくない。 はふ、と息を吐き出して「だから、だろ」と燐は小さく言った。 「なんで、あいつが食えないもんを、俺が食える、っつーんだ」 雪男の舌が美味いと思えないようなものを、どうして燐が食べられるというのか。 吐き出された言葉に「双子だからと言ってそこまでシンクロしなくてもいいと思いますがね」と返されたメフィストの声音は、呆れを多分に含んだものだった。 ぎしり、とベッドが軋む音、悪魔がその縁に腰を下ろしたらしい。頭上に伸びてきた手、手袋をした指先がさらり、と燐の髪を撫でる。後継人といえど、必要以上に慣れあおうとしていなかった男にしては珍しい行動だったが、振り払おうと思うだけの嫌悪も抱かない。 大人しくされるがままの燐の頭を撫で、悪魔は「言わないんですね」とそう口にした。 「雪男のところに連れて行け、と」 そう言われるかと思っていたんですが、と続けられた言葉に、燐は背を向けたまま緩く首を横に振る。 「……雪男は俺に会いたくねぇだろうから」 ストレスを覚える最大の原因とはできるだけ離れていたいはずだ。そんな燐へ、「そうですかねぇ?」と面白がった声音で悪魔は疑問を返す。 そうですかねぇも何も、そうとしか思えないではないか。 「だって、あいつ、俺の作ったもんだけ味が分かんねぇとか」 それだけ燐が嫌いだとそういうこと。 「いなくなれ、ってことなんだろ」 どこか投げやり気味に言った燐へ、「また随分と卑屈な」とメフィストは笑った。 「逆に強い執着を抱くが故、ということも考えられると思いますがね」 現れた症状を見れば確かにマイナスとしか思えないが、要するに燐だけは雪男にとってどこまでも特別なのだ、とそういうことではないか。 「悪魔ならばむしろ喜びますけれどね、今のあなたの状態を」 唯一なる片割れに、他の誰も成しえない影響を与えている。それがどのようなものであろうとも、自分だけが特別なのだという優越感、独占欲、それに酔いしれるのが悪魔というものだ。 「……俺は、悪魔じゃ、ねぇ」 たとえ肉体はそうであったとしても、心まで虚無界に捕らわれたりはしない。 雪男にとって燐が特別なのだ、というメフィストの言葉が事実であったとしても、だとしたら尚のこと、弟を苦しめる存在にはなりたくない。 ふぅ、と少しだけ熱っぽい吐息を吐き出して目を閉じる。メフィストの相手をするのももう面倒くさくて、このまま眠ってしまおうと思った。そんな燐の様子に気が付いたのか、頭へ触れていた手を離し、「まあ味が分からないだけで、」とメフィストは言う。 「肉体的には問題ありませんからね、奥村先生の場合」 心配は要らないでしょう、という言葉を聞き、少しだけ間を空けた後「なあ」と燐は口を開いた。 「雪男、なんであんなことになってんだよ」 自分に悪魔の血が流れていると知るまで、弟の苦労を何も知らぬままだった。ようやく同じ世界に入り、似たような光景を目にすることができるようになり、雪男がどれほど辛い道を歩んでいたのかおぼろげながら理解できた。 泣き虫で怖がりだったあの弟が、歯を食いしばって懸命に頑張ってきた、その結果が現状とは一体どういうことなのだろう。 どうして雪男がこんな目に合わなければならないのか。 どうしてひとりで辛い思いをしなければならないのか。 ぽつぽつと紡ぐ言葉が震えるのを止めることもできない。なんで、と呟いた後、身体を起こし、涙で濡れた目をメフィストへ向けた。 「あいつ、治らねぇの?」 食事を取ることにさほど興味がないとはいえ、味のないものを日々食べるなど想像しただけでも不憫で仕方がない。 どうにかして雪男を治してやることはできないのだろうか。 「なあ、治してやってくれよ、家族なんだ、世界でひとりだけの、」 大事な、弟なんだ……っ。 腕を伸ばし力の入らない手で悪魔の胸倉を掴み希う。 「頼むから、あいつを治してやってくれよ……っ」 俯き、絞り出すような声。 その為ならばどんなことでもしてみせる。必要ならば命を捧げたっていい。 そう言う燐を見おろし、「悪魔が悪魔に契約を求めるとは、前代未聞ですね」とメフィストは面白そうに笑った。するりとその手から逃げ出し、立ち上がって肩を竦める。 「魔障ならばいくらか知識はありますがね、人間の、精神的な病気については私、疎いもので」 そう嘯く悪魔は「でも、」とくるくるとステッキを回しながら言葉を続けた。 「奥村先生はあなたの作るものの味だけが分からないんですよね」 だとすれば、あなたさえいなくなれば表面的には問題がなくなるのでは? 味が分からない料理を作り出す燐さえいなくなれば。 この世に雪男が無味だと思うようなものはなくなるわけで。 そうすれば、雪男の味覚だって正常なものといえるのではないだろうか。 「………………それも、そうか」 すとん、と何かが心の中で音を立てて当てはまったような、そんな気がした。 素直に肯定の言葉を返した燐へ、悪魔が珍しく妙な表情をしていたような気もするが、もはや燐の思考からメフィストの存在は追い出されてしまっている。 「俺が、いなけりゃ、」 ←5へ・7へ→ ↑トップへ 2012.06.05
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