※死にネタ?注意。


   最初で最後の最大で最悪な我儘


 兄の嫌いなところを上げていけばきりがない。無神経なところも嫌いだし、ずぼらなところも嫌いだ。物覚えは悪く頭の回転も鈍い。それでいて妙なところだけは鋭かったり無駄に兄貴風を吹かせるところも腹立たしい。けれど何より一番嫌いなところは、諦めているところだろう。
 すべてを諦めてしまっているわけではない、己の夢や目標、意志については驚くほどの執念を見せる。けれどそれ以外の部分について、燐は素っ気ないとしか思えないような態度を取るのだ。仕方ねぇよ、と浮かべられる笑顔が、雪男は大嫌いだ。その言葉の前にはおそらく、「俺は悪魔だから」という言葉が隠されているだろうことが分かるから。

 つい先日、青き炎をその身に宿す魔神の落胤、奥村燐への処刑が正式に決定された。その炎の威力、与える影響は人間には計り知れず、分からなければ殺してしまうしかない、というひどく暴力的な考えに寄る結論だった。雪男がそのことを伝えられたのは、任務と偽って召集された先で拘束され、自由を奪われた後のこと。武器も何もかもを奪われていたため口で抗うことしかできなかった。
 事実を伝え寄越した騎士團の人間が言うには、燐は抵抗らしい抵抗をしなかったらしい。「そっか」とただ一言呟いて大人しく拘束されたのだとか。だからあのひとは、と歯噛みして怒りを堪える。どうしてあっさりと諦めてしまうのか。
 ひとと同じように生きることを、ひとに必要とされることを、ひとに愛されることを、みなが当たり前に持っているはずの権利を、どうしてそんなにも簡単に諦めてしまえるのか。こういうときこそ、何が何でも聖騎士になってやる、と意気込む諦めの悪さを発揮するべきだろうに何をやっているんだ、と噛みしめた歯がぎりぎりと鳴った。
 雪男が捕らわれているのは、唯一の肉親だからだろう。逃亡を手助けするとでも思われているのかもしれない。ということはここで生かされている間は、燐もまだ生きている可能性が高い。
 せめて最後に一時だけでも兄に会わせて貰えないだろうか、話をさせて貰えないだろうか。そう交渉を試みる。
 当然のごとく騎士團側はそれを拒否したが、双方の拘束は解かなくてもいい、監視も受け入れる、牢越しで構わない、ただとにかく直接顔を見て話がしたいと訴えた。今まで数千の悪魔と渡り合ってきた正十字騎士團ともあろう祓魔師総本部が、その程度の温情も見せられないのかと下手な挑発までしてみせてようやく、二十分間ほどの面会をもぎ取れた。対悪魔用に結界の張ってある燐の牢へ、両腕を後ろに拘束され、両足に鎖のついた枷をはめられたまま案内される。
 おそらく悪魔としての力が強いほど、この中にいるのは苦痛に違いない。そんな結界の張られた牢の中、ほとんど雪男と同じような拘束をされた燐が、ぐったりと横たわっていた。まだそれなりに人間として食事が与えられていたこちらとは異なり、まともな世話もされていないのだろう。最後に顔を合わせたときよりもずいぶんと痩せているようだった。

「兄さん」

 足音は聞こえていたのだろうが、監視がやってきたと思っていたのかもしれない。呼びかければ驚いたように目を開けた燐が、ジャラ、と鎖の音を立てて上半身を起こした。小さく口が動いたようだが、何を言ったのか聞き取れない。たぶん「ゆきお、」と名前を呼んだのだろう。

「兄さん」

 だからもう一度、燐を呼べばくしゃり、と兄の顔が大きく歪んだ。今にも泣き出しそうな顔。けれどきっとすぐには泣かない、とそう思う。このひとはどんなときでも雪男の兄であろうとした。マンガを読んで悲しい、嬉しいと大泣きするくせに、自分のこととなるとなかなか涙を見せようとはしないのだ。

「雪男」

 今度ははっきりとその音が聞き取れた。五日振りくらいだろうか、燐の声を聞くのは。その声で名を呼ばれるのは。こみ上げてくる感情を堪えたため、ぐぅ、と喉の奥が妙に鳴った。

「ゆき、ゆきお……っ」

 シャラン、とどこか場違いに思えるほど、燐の両手足を拘束する鎖が軽やかな音を立てる。人間とは比べ物にならないほどのパワーを有する悪魔には、ただ硬いだけの拘束具は無意味だ。一見華奢なようでも、かなりの祈りを込められた聖具に違いない。カシャン、と燐の細い指が彼自身を閉じこめる牢の柵を握った。

「兄さん、この柵触っても大丈夫なの?」

 触れるだけでもダメージがあるのではないかと思ったが、そういうことはないらしい。しかし予測したとおり中にいるだけで相当気分が悪くなるようで、青白い顔をした兄は大丈夫だ、と笑ってみせた。
 そこではた、と燐の目が見開かれる。その視線の先を辿れば、後ろに回った雪男の両腕、そして枷のはめられた両足に気づいた、といったところか。

「なん、で、雪男まで……」

 おそらく、燐があっさり拘束を、そして処刑を受け入れたのは彼自身生を諦めていたこともあるのだろうが、身近な人間を盾に取られたからだろう。その交渉材料としてもっとも有効なのが、双子の弟であると雪男自身分かっていた。今回の面会も、今ここで騎士團側に雪男がいることを知らしめ、ますます燐の気力を殺いでおくという目的があるに違いない。
 それが分かっていても、それでも、燐に会いたかった。顔を見たかった、どうしても話をしたかった。
 口元を緩め、「仕方ないよ」と言葉を放つ。

「青い炎はないけど、僕だって魔神の息子であることに変わりはないんだから」

 監視役、などと大層な言葉を押しつけてくれていたが、要するにふたりまとめて監視をしたかっただけだろう。その血に目覚めていないとはいえ、ほかの人間と同じように扱って貰えると思うほど、雪男は楽観的にはなれなかった。

「でも、だって! ゆき、雪男には、何もしねぇ、って!」

 あいつらそう言ったのに、と続けられた言葉に眉を顰める。予想していたことではあるが、気分のいいものではない。ほんとにバカだね兄さん、と呆れを多分に含ませた声音で言えば、「んだとっ!?」と眉をつり上げた燐が掴んでいた格子をガシャン、と鳴らした。同時にこつり、と背後でひとの動く気配。兄弟の邂逅を監視している祓魔師のひとりだ。燐が暴れるとでも思ったのだろう。小さなその動きにびくり、と燐が肩を震わせ、「兄さん」と宥めるように静かに呼んだ。派手なことさえしなければ、話をする時間はもう少しあるはずだ。最後まで下らない喧嘩をするのも自分たちらしくて良いかも知れないが、今回はそれが目的なのではない。
 ねぇ兄さん、ともう一度呼び、燐の顔を上げさせた。両腕が背後で拘束されており、兄に触れることができないのが残念でならない。

「分かってるよね、たぶん、」
 これが最後だ。

 何がどう最後なのか。
 もちろん燐も把握しているだろう。唇を噛んで顔を歪めたあと、こくり、と頷いて寄越す。だからお決まりの台詞言いにきたんだ、と雪男はにっこりと笑みを浮かべて言った。

「お決まり?」
「そう。こういうときはあれでしょう?
 最後に言い残すことはないか、って」

 今まで言わなかったこと言えなかったこと全部、まとめて聞いておきたい。
 だから言って、と促すが、「俺は、別に……」と燐は視線をそらせて俯いた。そう簡単に素直になるとは思っていなかったため、この反応も予測済み。だから先手を打つ。

「助けてあげられなくてごめんね、兄さん」
「ゆき?」
「兄さんを守る、って誓ったのに。全然、何もできなかった。ほんと、ごめん」
「そん、なっ! そんなことねぇッ!」
「兄さんと、もっといっぱい、話をしたかったよ。たぶん、そのうちの八割が喧嘩してるんだろうけど。兄さんの作ったご飯をずっと食べてたかった。祓魔塾の授業だって全然途中だし、兄さんに覚えてもらいたいことも教えなきゃいけないこともまだたくさん残ってるのに」

 同じ年、同じ性別の兄弟だからだろうか、いつもは互いを前にするとどうしても意地を張ってしまい突っぱねるような言葉が口から飛び出てくる。だから、雪男がこのようなことを言うなど思ってもいなかったのだろう。驚きに目を見開いた燐は、それでも負けじと「俺だって!」と声を上げた。

「俺、だって! もっと、ちゃんと、雪男と話、したかった、し! べんきょ、だって途中で、ちゃんと称号とりたかった! 飯だって、折角美味そうなカレイ買ったのに。今度は中華を作ってみよーかなとか思ってたのに。俺が飯作って、雪男とクロが美味ぇって笑ってくれて、ずっと、そーやってたかったよっ!」

 燐の言葉を、うん、うん、と小さく頷きながら大切に聞く。いつも何かを諦めている兄の願い、どれ一つ蔑ろにはできないのだから。

「けっきょ、く、俺、何も、できてねぇし、親父と、お前が守ってくれてたのに、何も、頑張れなかった……!」
「頑張ってたよ、兄さんは。僕は知ってる」

 苦手な座学にも唸りながら取り組んでいたこと、人間からの憎悪の視線を受けながら、それでも両足で立ち前を見続けていたこと。真っ青なその瞳は、こうなった今でも決して曇らない、澄んだ色を湛えたままただ、悔しさだけを見せていた。

「ッ、とーさん、怒る、かなぁ、俺、おれ……っ」
「大丈夫、父さんだってちゃんと分かってるよ」

 魔神の血が流れていること。その青い炎を継いでいること。それらがこの物質界においてどれほど重大な事柄であるか、聖騎士であった養父が分からぬはずがない。赤子のときに手に掛けてしまっていたほうが、燐のためにも良かったのではないかとまで思ったのだと言っていたのだから。

「それに怒られるなら、僕も、一緒だよ」

 養父の遺志を結局完遂することができなかった。叱られるのならば共に。そう言った弟を見上げ、燐は「ゆきおっ」とその名を呼んだ。

「俺、まだ、死にたくねぇよぉっ」

 死ぬのは嫌だ、死ぬのは怖い。そんな恐怖ももちろんあるが、心残りが多すぎて、やり遂げられなかったことが多すぎて、悔しくて仕方がない。情けなくて仕方がない。堪えきれなかった涙がほろり、と零れ燐の頬を濡らした。この世の中で一番綺麗な水だ、とそう思いながら牢へ顔を近づけ、舌を伸ばした。かしゃん、と柵にぶつかったメガネが小さな音を立てる。

「ッ、ゆきっ!?」
「ごめん、両手使えないから」

 指で拭うかわりに舐めたのだ、と悪びれず言った。怒るか照れるかどちらかだろう、と思っていたが、しかし悪魔の身体と能力を持つこの兄が、人間よりも優しい心を持っていることを失念していた。

「っ、腕、痛い? 痛いよな? ごめん、俺のせいで……っ」

 この拘束は決して燐のせいというわけではない。彼が悪魔の力を継いでいたことが、彼自身のせいではないのと同じことなのに、ごめんな、と燐は泣く。

「ごめ……、ごめんっ、俺、早く、処刑、してもらう、からっ、そしたら、きっと、雪男も帰れるはず、だから!」

 もう少し待ってくれ、と泣きながら言う兄を見下ろし、「帰るって、どこに」と思わずほろりと言葉が零れた。

「どこ、って……」
「だってどこに帰っても、兄さんはいないんでしょう?」
「ッ」
「どれだけ待っても、兄さんは帰って来ないんだよね?」
「ゆ、き……」

 互いに互いが唯一の肉親だった。普段は口げんかが耐えない関係ではあったが、心の底から嫌っているわけではないとふたりとも理解している。
 雪男を苦しめたくなくて早く殺してもらおうと思ったのに、そうすると雪男から唯一の家族を奪ってしまうことにもなる。何をどうしても結局弟を苦しめることしかできなくて、ごめんなさい、と燐は泣いた。頬を伝う涙を、雪男は格子越しに舌を伸ばしてできるだけ掬いとる。背後には監視役の祓魔師が数人控えていることは知っていたが、兄弟以上の接触であってももう気にしない。そんな余裕などどこにもないのだ。

「俺がっ、死んで、も! お前、ちゃんと、飯、食えよ?」
「難しいけど努力はするよ」
「も、監視とか、しなくていいんだから、祓魔師とか、危ねぇことも、止めろ」
「兄さんがそう言うなら」
「医者になりたい、って、まだ思ってるなら、そっち頑張れ」
「うん」
「きれーな、彼女、見つけて、結婚とか、しろよ?」
「うん」
「子供、いっぱい、作って、いっつもみんな、笑ってるような、幸せな家、作れよ」
「……うん」
「もう、俺のことなんて、忘れていいから」

 こんな兄貴がいたことなんてさっさと忘れて、笑顔の耐えない幸せな家庭を作って貰いたい。
 そんな願いにうん、と頷いた雪男は、口元を緩めたまま目を伏せた。

「兄さんが、本当にそうしてほしい、って望んでるなら、僕はそうする」

 そこに雪男の意志は入らない、雪男が望むことはただ一つ、己の兄の幸せなのだ。燐がそうしろというのなら、それを望むというのなら、ただその光景を作り上げるよう努力するだけ。

「兄さんが本当に、僕に兄さんを知らないようなひとと結婚して家庭を持ってほしい、ってそう思ってるなら」

 燐の言葉寸分違わずその通りにしてみせよう。本当にそうしていいの、とゆっくりと開いた目で、燐を見つめて尋ねた。

「僕が兄さんを忘れて、これから生きていってもいいの?」

 責めるような色はなかった、淡々と、確認を取るような言葉に、燐の喉がひぐ、と鳴る。そしてくしゃくしゃ、と歪む顔。

「やだぁ……っ!」

 そんな叫びと共に先ほどまでの比ではない勢いで、ぼろぼろと燐の両目から涙が溢れては顎から落ちていった。幼い子供のように、いやだ、と首を振って泣く。

「やだっ、やっ、いやだっ! わ、わすれ、んなっ、忘れんなよぉっ! 俺、ここにいるっ、ちゃんと、俺、生きてたん、だっ!」

 十五年、人間として生き、一年弱ほど悪魔として生きた。確かに奥村燐として存在していたのに、双子の弟にそれを忘れられてしまえば、誰が記憶に留めてくれるというのか。

 忘れないで、いなかったことにしないで、ここにいる、ここに生きていたのだ。

 ずるずると、格子を握ったままその場にしゃがみ込んだ燐を追って、雪男もまた腰を下げる。両手が使えないためバランスが取れず、ぐらり、と揺れた身体が牢にぶつかり「いて」と小さく声が零れてしまった。

「ゆき、」

 慌てて顔を上げた燐が、格子の間から手を伸ばして雪男の身体を支えてくれる。ありがとう、とその手へ頬をすり寄せた。料理を得意とし炊事することが多いため、以前の燐の手は少し荒れてかさついていた。けれど今はそんな小さな傷ですら治癒してしまう血のせいで、兄の手はひどく綺麗だ。
 綺麗、なのだ。このひとは。身体も、心も、どこまでも真っ直ぐで、ねじ曲がって育ってしまった雪男には決して真似のできないようなことを平然としてのける。その姿がとても眩しくて、時折そんな彼の弟であることが苦しく思えることもあったけれど、やっぱり自分の兄は、家族はこのひとだけなのだとそう思った。兄さん、と燐を呼ぶ。

「兄さんが望むなら、僕は絶対に兄さんを忘れない。ずっと覚えてる、僕の兄さんは兄さんだけだから、ずっと兄さんを好きでいるよ」

 それでいい? と確認を取れば、燐はうー、と唸って俯いてしまった。

「それじゃだめなの?」
「ッ、だ、って、それじゃ、雪男、がっ」

 幸せになれないのではないか、と燐はそう言う。
 忘れてもらいたくはない、けれど捕らわれたまま生きてもらいたくはない。そんな複雑な感情を抱いてしまうのは、心をもつひとであれば当然のことなのだが、燐はやはりごめんなさい、と泣くのだ。我儘でごめん、と。

「も、雪男、の、好きなように、してくれよ、お前が笑ってられるなら、俺、それだけで、いーんだから……っ」

 自分は何も言わない、それ以上望まない、と燐はそう言うが、そもそも兄のいない人生に価値があるなど、雪男には欠片も思えない。その状況で笑っていられる自分が、まるで想像できないのだ。

「本当に?」

 首を傾げて言った雪男へ、何が、と燐もまた涙に濡れた目を向けてくる。

「本当に、僕の好きなようにしてもいいの?」
「……そ、りゃ、それで、雪男が、幸せに、なれるなら」

 双子の弟が健やかな心でいられること、それこそが燐の望みなのだけれど。だったら、と雪男は格子に額を寄せ、ひっそりと請う。

「僕は兄さんとずっと一緒にいたい」

 兄弟だから、家族だから、そんな感情が根底にはあるのだろう。けれど、様々な状況を経た今では、この執着がただの兄弟愛で済むのか雪男には判断ができない。ただ、そばにいたいと思う心だけは本物で、自分でも誤魔化しようがない。
 雪男の言葉がどういう意味を持つのか。燐が深く考える前に、「兄さんは?」と尋ねてみる。

「兄さんは、僕と一緒にいたくない?」

 それにふるふると首が横に振られたのは、もはや条件反射に近かったのかもしれない。けれど本能による否定であったため、それが偽りでないことがよく分かる。

「……兄さん、覚えてる?」

 小さな頃、身体が弱く、少しのことですぐ泣いていた雪男の手を引いて、いろいろなところへ連れ回してくれたこと。泣き虫だ、とからかいながらも、燐は決してその手を離そうとはしなかった。雪男を置いていこうとはしなかった。雪男もまた、兄の見せてくれる世界が怖く思えることもあったけれど、一緒に行きたい、連れていって、といつもねだっていたのだ。

「僕はたぶん、あの頃から何も、変われていないんだ」

 熱を出して寝込むことはなくなり、悪魔を見て怯えることもなくなった。けれど結局、置いていかないで、と双子の兄に縋っていた幼い頃のまま。
 兄さん、と揺れる真っ青な目を真正面から覗き込み、燐を呼んだ。きっともう、雪男が何を望んでいるのか彼は気がついているだろう。
 優しくて、真っ直ぐで、誰よりも強いひとだからこそ、雪男が望む言葉は言いづらいだろうと思う。たとえそれを燐もまた望んでくれていたとしても、いや望んでいるのならばなおさら、決して言わないと分かる。けれどだからこそ、燐の口からそれを、聞きたかった。
 弱音や不安をあまり口にすることのない兄だったから、自分のことよりもほかの誰かのことにばかり一生懸命になる兄だったから、最後くらいは彼の人生最大の我儘を口にしてもいいのではないかと思うのだ。最初で最後の、最大でおそらくは最悪の、我儘を。
 そして、それを叶えるのが双子の弟として生まれた自分の役目だ。
 共に母の胎内に生まれ、悪魔の力すべてを押しつけてしまった罪悪感が雪男にはある。守りきれなかった悔しさもある。それら以上に、誰よりも大切で誰よりも愛しているひとの望みを叶えたい、という気持ちがある。
 できることなら、兄と共に、生きたかった。決して平坦な道ではないことは分かっているが、生きるための努力をしたかった。どれだけ苦しかろうとも、辛かろうとも、足掻きたかった、もがきたかった。
 けれどそれはもはや叶わない。
 そのことを雪男だけでなく、燐もまた深く理解しているはずだ。

「兄さん」

 促すように燐を呼ぶ。
 雪男の望みはただ一つ、燐が望むことを叶えてやりたい、それだけだ。たとえ何がどうなろうと、ふたりが兄弟であることは変わらない。永遠に、その生が途絶えたとしてもそれだけは変わらないのだから。
 兄のいない生活がどれほど辛いのか。燐もまた自分に置き換えて想像をしてみればいい。そんな状況に愛する家族を追いやっていいものか、考えてみればいい。
 きゅう、と唇を噛み、一度収まっていた涙が再びほろほろと溢れ燐の頬を濡らした。あ、と口を開いて何かを言いかけ、言葉にできずに閉じて唇に牙を立てる。何度その動作を繰り返しただろうか。こつり、と背後で監視が動く気配、そろそろ時間かもしれない。
 それを燐もまた悟ったのだろう。

「最後、だよ」

 これが最後だ。顔を合わせるのも、言葉を交わすのも、何もかもがこれで終わってしまうのだ。静かに告げられた言葉に大きな涙をぽたぽたと落としながら、「ごめん、雪男、ごめんっ」と燐は泣いた。


「俺と一緒に、死んでくれ……っ」


 死ぬのは嫌だ、死ぬのは怖い。けれどそれはもう逃れられない定めだというのならば、せめて。
 愛するひとと、一緒に。
 ひとりはもう、嫌だ。
 兄としてあるまじき言葉だ、と分かっている。取り残され、辛い思いをすると分かっていても、それを乗り越えて生きてもらいたい、と望むのが家族だろう。けれど、それこそが自分でも見なかった振りをし続けてきた本音。あまりの醜さに自分が心底嫌になる。恨みや妬みではなく、ただただひたすら自分が寂しいからという、それだけの理由で弟と共に逝くことを望むなんて。
 蹲ったままの燐は、しゃくりあげてごめんなさい、と謝罪を続ける。けれど雪男からしてみれば、謝られる理由などまるでないのだ。むしろやっと言葉にしてくれた、という安堵と、歓喜しか覚えていないくらいで。
 兄さん、と燐を呼ぶ。手が使えないため、燐の顔を上げさせることができない。言葉だけでこちらを見るように希えば、ようやく兄は顔を上げた。涙や鼻水でぐちゃぐちゃに汚れてしまった顔を真っ直ぐに見つめ、ふぅわりと笑みを浮かべる。

「うん、いいよ」
 兄さん、僕も連れていって。

 まるで近くの公園のブランコを漕ぎにいくかのように。
 草の茂った河原へ虫取りに出かけるかのように。
 ひどく軽く、幼い口調で、雪男は燐の希望を受け入れた。
 それは双子の兄だけでなく、弟の希望でも、あったのだ。





 虚無界を統べる神の血を引く双子の兄弟の処刑は、彼らの希望で同日同場所、同時に行われた。何が起こるか分からない、何か企んでいるのではないか、と勘ぐるものも多かったが、結局ふたりの希望が受け入れられたのは、そうしなければ抵抗をしてみせるという兄弟の言葉と、正十字騎士團日本支部支部長、名誉騎士である道化からの口添えがあったからだ。もしかしたら、まだ成人にすら至っていない子供をただ驚異になる可能性があるというだけで命を奪うことに、騎士團側も多少なりとも罪悪感を覚えていたのかもしれない。
 悪魔をも殺してしまう方法に人間が耐えられるはずもなく、先に息絶えたのは弟の方だったという。しかし元聖騎士である養父に鍛えられ、ただそのためだけに生きてきたといっても過言ではない彼は、最期まで己の兄を守ろうと、その身体を抱きしめたままだった。
 対する兄の方もまた、唯一なる肉親へ頬をすり寄せごめんな、と謝りながらも、共にあれることに嬉しさを覚えているようだったらしい。

「もう、俺らのことは、放っておいてくれ」

 何か大それた望みを抱いていたわけではなかったのだ。ただ大切なひとの幸せを願いながら、静かに生きていたかった、それだけだった。
 炎を飼う少年は、最期に一言だけ、普段の彼の様子からは想像できないほど疲れたような、寂しそうな顔でそう言ったあと、真っ青な炎で己と、弟の身体を包み込んだ。魔神の血の流れる悪魔の身体と人間の体など、そう簡単に手には入るものではない。けれど、魂無きあとその抜け殻を好きにされてはたまったものではない、と。
 それは悪魔として生まれた彼の、騎士團側への唯一なる反抗だったのかもしれない。

 ふたりの処刑が施行された数日後。
 南十字修道院の墓地にある元聖騎士、藤本獅郎の眠る墓石へ、双子の兄弟の名が加えられた。彼らの亡骸はそこには眠っていなかったが、藤本ならばそれを望むだろう、と。そして双子の兄弟もまた、父と共にあることを喜ぶだろう、と。兄弟の友人を含めた、生前の彼らを知るものたちは誰もそのことに異を唱えなかった。

 彼らの生きた道はひどく過酷なものであったけれどせめて、ふたりであれて良かった、と。
 生まれ出でるときも、死に行くときも。
 ふたり一緒であったことが、せめてもの救いだと、残されたものたちはみな、そう思っていた。
 そう思うしか、なかった。 






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2012.07.19





















「……ぃさん、にいさん、ねぇ、起きて」
「んぁあ? んだ、もう朝ぁ? 今日はガッコねぇってゆったじゃんよぉ」
「いつの話だよ、寝ぼけてんな! いいから起きろ」
「いッ!? ってえなっ! 何で殴んだ、ばかゆきっ!」
「いいからほら、周り、見てみて」
「うぉおっ!? なんだこりゃ、つーか、どこだここっ!」
「えーっと、そう思いたくはないけど、うん、たぶん、虚無界的な、どこかじゃないかな、とか思ったりする」
「え? あれ? 俺らどうしたんだっけ? 確か、処刑がどーのっつって、あれ?」
「僕の方は間違いなく死んだと思うんだけどね。まあ、こうなってるから……」
「は、しっぽ!? え、あれ、なんでお前まで!?」
「人間としては死んだけど、ってことかもね」
「うわぁ、意味分かんねぇ、状況についていけねー……」
「うんまあ、ついていけなくてもさ、とりあえず、今度はこっちで死なないように頑張らなきゃいけなさそうだよ?」
「は? え? えぇえっ!?」
「あはは、すごいねぇ、アレ、全部僕ら狙ってきてるっぽいよね」
「なんだなんだなんだ!? なんでこーなってんだ!?」
「一応魔神の息子だから、倒しておけば格が上がるとか、そういうことじゃない?」
「カク? 格さん? 助さんは上がらねぇの?」
「ゲヘナに水戸黄門はいねぇよ」
「いででで。銃を兄ちゃんに向けんなよ、つか何でお前武器持ってんだよ」
「兄さんだって刀、持ってるじゃない」
「え? あ、ほんとだ。まあ、武器があるならいいか。とりあえず、全部ぶっ飛ばせばいいんだろ?」
「そうだね、物質界にいた頃みたいに余計なことも考えずに済むしね」
「オーケーオーケー、任しとけ、そういうのは大得意だぜ!」












というやり取りを経た数十年後が「終焉の鳥、静寂の蝶。」だったら面白いな、という妄想。