死にネタ注意。


   悪魔の恋・前


 世界はとても退屈だった。
 他の仲間たちより少しばかり強い力故、望めば大抵のことは思うとおりになったし、その力を使うことすらなく傅いてくる愚か者は掃いて捨てるほどいた。
 燐は悪魔だ。それもいわゆる夢魔、淫魔と呼ばれる種族である。
 大勢のものに求められ、大勢のものをいいように使い、大勢のものと好きなように交わる。それこそが最上の喜びだ、と思っていた日ももはや遠い。すぐに飽きを覚えたそれらを捨てることになんら戸惑いは抱かず、そうしてひとり身軽になって痛感したことは、世界は死にそうなほどつまらない、ということ。この退屈を紛らわせてくれるような何かがどこにも見いだせない。きっと自分はこの退屈に首を絞められ死んでしまうのだろう。

「……そういえば、首絞めてもらいながらヤるの、気持ちよかったなぁ」

 思い返すほどの出来事として燐の中に残っているものといえば、快楽を伴う行為についてのみ。今度誰か適当に見繕ってもう一度してみよう。力加減を誤られると苦しいだけだが、こちらには誘惑の力〔チャーム〕がある。意識の根底にまでもぐり込ませることのできる毒で身体を制すれば、都合良く動く傀儡の出来上がりだ。
 思い立ったところで、なんとなく空腹を覚えてくるから不思議なものである。誰ぞ、手近な相手で済ませてしまおうか、と考えたところで、ふと頬に触れる風の違和感に気がついた。ここは悪魔たちの住まう世界、殺意と悪意、嫉妬と憎悪、暗闇と腐臭の渦巻く虚無界。それなのに肌に触れる風はどこかしら光の性質を帯びているものだった。

「久しぶりに人間、ってのもいいかな」

 淫魔の食事は精気だ。性交によって得るそれらは、相手が悪魔であろうと人間であろうと変わりはない。オーガズムに達してさえくれれば、いくらでも摂取できる。ただ、人間の場合は奪い過ぎるとすぐ死に至ってしまうため、気に入った相手と何度も性交するということがなかなか難しい。
 この風はおそらく人間たちの住まう物質界から流れてきたものだ。普段二つの世界が繋がることはないが、時折人間側から穴を開けてくれることがある。安易に悪魔を呼び出したところでその人間に災いが降りかかるだけだろうに、彼らにはどうしても人智を越えた存在の助けが必要なときがあるらしい。
 この風も、そうしてわずかに繋がった箇所から流れてきているのだろう。折角気がついたのだ、久しぶりに物質界へ赴き、人間の精気をいただくことにしよう。
 風を頼りに繋がっているだろう箇所へ赴けば、開かれた扉はひどく中途半端なものだった。物質界に伝わる呪術は不完全なものが多く、悪魔が通るに足るものができあがることは希である。その扉を通ることができるものは、魔力が小さすぎて素通りできるか、あるいは己の魔力だけを向こう側へ送り、通れるだけの扉を作るよう術者を操ることができるものくらい。姿も見ずに相手を操るほど強い誘惑の力を持つものはあまりいないが、燐にとってはさほど難しいことでもなかった。
 向こうで悪魔の出現を待っているのだろう愚かな人間を操り、扉を広げ固定させる。己が通れるほどの道を作り上げたあと、周囲に群がってたゴミ(にじみ出るチャームによって燐の周囲には常に何かしらいるような状態だった)を散らしてひとりになったところで物質界へ足を踏み入れた。向こう側へ行ったことがないわけではないが、覚えていないほど久しいことは確かだ。どうせなら首締めプレイを人間相手にしてもいいかもしれない。人間ならば燐を殺すほどの力を出してくることもないだろう。
 そんなことを考えながら裂け目を抜け、閉じていた目を開いて燐は眉を大きく顰めた。

「あー……どうりでやけにあっさりしてるなって思った……」

 不格好な召喚陣のそばに倒れている小さな身体、幼い少女。おそらく彼女はこれが悪魔を呼び出すものだとは知らなかったのだろう。本に描いてあったものをそのまま写しただけ。本来それだけでは繋がることはないものなのだが、彼女にそういう素質があったのか、偶然が重なっただけか。どちらにしろ、燐ほどの悪魔を呼び出すなど幼い少女が耐えられるはずもない。ぐったりとした彼女の顔は青ざめ、苦しそうに胸を喘がせていた。
 少女のそばにしゃがみ込み、頬をするりと撫でる。子供特有のまろやかな輪郭。白く柔らかな肌、くしの通った黒髪、清潔な服装、両親からしっかり愛情を受けていると分かる姿。今は眉を寄せ苦悶の表情を浮かべているが、目を開けて笑えばきっととても可愛い女の子だろう。細い首筋へ指を滑らせたあと、喉からあごへ向けて撫で上げる。呼吸のためわずかに開いた唇。柔らかなそれに指先を押し当てたところで。

「その子から離れていただきましょうか」

 近づいてくる何者かの気配には気がついていた。姿を消したほうが面倒がなくて良さそうだとも思っていた。それでも敢えて残っていたのだが、銃を構えてこちらへ視線を向ける男を見やり、わざわざ姿を見せた甲斐があった、と燐はにんまり笑みを浮かべる。
 ふらり、立ち上がり、チュニックの裾をひらめかせて少女のそばを離れた。途中下げた右手で軽く宙をなぞり、子供が作り上げた円を破壊させておく。こうすれば彼女への負担もなくなり、誰ぞ燐のあとからやってくるものもいなくなるだろう。
 現れたものは、背が高く、眼鏡をかけた若い男だった。カソックに首から下げた十字架と、どうみても悪魔とは対局の位置に属するもの。彼を取り巻く清浄なる気に、相当強い力を持っていることも分かる。

「あんた、美味そうな匂いがする」

 手を伸ばせば触れることができそうな位置まで近づいて口を開けば、男の眉がひくりと動く。インキュバスか、と小さく呟かれた言葉に、「サキュバスにもなれるけどな」と笑って返した。強い魔力を持つ夢魔ならばどちらにでもなれるものだ。生まれたときの性別が男であったため、こちらでいるほうが楽だというだけのこと。

「な、あんたほどの力だったら少しくらい精気食われても平気だろ。どう? 気持ちよくしてやるよ?」

 淫魔としては当然のことでもあるが、性技に関しては自信がある。相手が男であろうが女であろうが、今まで味わったことのない快楽を与えてやることができるだろう。それが忘れられず、何度も求めてきたあげく精気を奪われすぎて死に至るものも少なくない。淫魔とセックスをするということは、そのまま精気を与えるという意味だ。欲しいと望むから与えてやっただけ、可能性を教えてやったにもかかわらず手を伸ばしてきた結果は、燐の知らぬところである。
 目を細めて見上げた先、眼鏡の奥の瞳は孔雀の羽によく似た青緑色。若干緑が強いかもしれない。綺麗な目だ。左目の下に縦に二つ、唇の左下に一つ、ホクロがある。男らしいシャープな顔立ちだが、目じりが下がっているため穏やかな印象を受けた。彼の口元が笑みを形作っているせいでもあるだろう。「お断りしますよ」と男は静かに口にする。

「これでも一応聖職者ですから」

 そう言う彼へ、「見たら分かる」と燐は笑って答えた。服装や所持品はもちろん、銃を構えて悪魔を狙うなど一般的な人間が行うことではない。彼は聖職者である上、悪魔を滅する祓魔師でもあるはずだ。そんな人間が悪魔の誘いに乗るなど、まず考えられないだろう。
 もちろん分かっていて誘いの文句を紡いでみた。燐のチャームに靡く様子も見せないところから、あっさり断られるだろうことも予測済み。ちらり、と背後を振り返り、意識を取り戻す気配もない少女を確認して「まあいいや」と小さく息を吐く。言葉一つで誘いに乗ってくるような男に興味はない。

「しばらくこっちにいるし、また口説きにくる」

 じゃあな、と祓魔師の横を通り過ぎ部屋を出た直後に、空間を操って姿を消す。追ってくる気配がないのは、少女の救出が優先だからだろう。燐に操られたことで大きく削られてしまっていた彼女の生気だが、唇に触れた際に返しておいたため、直に目を覚ますはずだ。
 呼び出してくれたお礼、と歌うように呟き、ひとまず空腹を満たすため、夢魔は人間たちの住まう町へと繰り出した。


**  **


 あまり騒ぎになって祓魔師たちに目を付けられると動きづらいため、殺さぬ程度に少しずつ人間たちから精気を奪う。虚無界でのように満腹感を覚えるほどエネルギィを得ることができないにもかかわらず、燐がこちらに留まる理由は一つ。初日に出会った祓魔師が気になるからだ。
 人間らしい生気に溢れた、それでいてどこかすれたような、投げやりな空気を漂わせていた青年。年のころは二十代前半と言ったところか。穏やかそうな表情だったが、銃を構えた腕はがっしりと太く、体格も良かった。燐という悪魔を前に一分の隙を見せることもなかった様子から、かなりの手練れだと思われる。少し地味ではあったが、顔も整った作りをしていた。強くて若くて、しっかり鍛えてある上に顔のいい男だなんてそうそう出会えるものでもない。あの男の精気が欲しい。きっと今まで食べたなかでも極上の部類に入るだろう。
 そんな欲望に突き動かされ、彼の様子を伺ってみて気が付いたことがある。

「……なんか、あんたも大変そーだな?」

 礼拝堂に佇む男の背後に現れて思ったままを口にすれば、「ここ、教会なんですけどね」と苦笑を向けられた。悪魔が顔を出す場ではない、と言いたいのだろうが、ろくな結界も張っていないくせによく言うものだ。

「あんたの信心が足りないんじゃねぇの」

 宙に浮いたままそう笑えば、「痛いところをついてきますね」と返された。要するに燐の言葉が事実だと言っているのと同義である。教会を管理している神父が、そのようなことを言ってもいいものだろうか。
 変な奴、と呟けば、否定はしませんよ、と男は言った。

「だからあんた、騎士團に入ってねぇの?」

 シンプルなカソックは、神父が纏うごく一般的な衣装だ。しかし、先日燐に対し銃を向けたところをみれば、彼が祓魔師であることも間違いないだろう。人間の祓魔師は、皆、正十字騎士團という集団に属しているはずだ。確か、シルバーの台座に赤と青の石が埋め込まれたシンボルを皆持っていた。それを首から下げたものから精気を奪ったこともある。

「騎士團をご存じなんですね。それも、交わった相手から聞いたんですか?」
「いんや? こっちにいる悪魔〔シリアイ〕から。今からヤろうってのに、こんな野暮な話、しねぇよ」

 ベッドの上(ばかりとは限らないが)、まさにこれから同じ高見に昇ろうという相手に対し囁く言葉にはそれなりに気をつけていた。夢魔の中には話すことすら無駄だというものもいるが、言葉というものがなかなか馬鹿にできないのだということを燐は知っている。柔らかく誘う言葉で、淫らに煽る言葉で、蔑み罵る言葉で、直接的に下品な言葉で、甘えて媚びる言葉で、巧みに相手の心身を高め、操れば、最高の快楽へ共に落ちることができるのだ。
 それは失礼、と笑って謝罪した男は燐が見る限り、祓魔師団体である正十字騎士團に所属していないようなのだ。銀のシンボルを身体のどこにも身につけていないし、彼らが纏う似たデザインのコートを着ている姿も見たことがない。他に仲間がいる様子もなく、彼は基本的にひとりでこの教会を管理していた。神父として礼拝者への対応やミサなどを行う合間に、銃を装備して出かけ悪魔祓いをしている。騎士團に属さない、フリーの祓魔師といったところか。

「騎士團に入らなければいけない理由がありませんしね」

 祓魔に必要な知識も道具も、すべて自力で手に入れることができる。組織に属する恩恵を見いだせず、むしろ行動を規制されるという不自由さが科せられるのだから、勧誘を断るのも当然だと男は言った。
 ここ数日、ほぼ毎日のように、彼のもとには騎士團からの従者が訪れている。くどくどと長ったらしい話をしていく彼らの言葉を要約すれば、今後も祓魔活動を続けるつもりなら騎士團に所属しろということだった。

「こちらで請け負った悪魔の情報はすべて回しているというのに、これ以上何を欲しがっているのか」

 とさり、と長いすに腰を下ろしてそう口にする男のそばへ、すぅ、と宙を舞って身体を寄せた。彼を取り巻く空気から疲労感がにじみ出ている。連日の呼んでもいない訪問客が、彼の気力を削いでいるのだ。

「前からずっとあんななのか?」
「ここ最近特にしつこいですね」

 おそらくは、と神父が口にした推測は、人間らしくひどく下らない理由だった。近々、ヴァチカン本部のほうで、新たな上層役員を決める会議が執り行われるらしい。それに際し、少しでも多く有能な祓魔師を抱えておいたほうが有利になる、と考える誰ぞがいる、という話。

「顔も知らないひとの手駒になるだなんて、冗談じゃありません。考えただけでも虫唾が走りますよ」
「あんた、神父のくせにえらい汚ねぇ言葉、使うな」
「おっと、失礼。じゃあ言い直しましょう、ご自分で動くことすらままならぬほど高貴なお方におつかえするなど、私のような一神父には身に余るお役目ですから、謹んでご辞退申し上げております」
「……言ってる内容は一緒だな」
 つーかそういうの、俺に言ってもいいもんなの。

 呆れたように零れた疑問へ、「私は騎士團のものではないので」と男はまるで悪びれな
い。

「それに、あなた、騎士團にも祓魔師にも興味がないでしょう?」

 悪魔というと一般的には人間を襲い、騎士團や祓魔師たちを敵視していると思われがちだが、実はそのような悪魔は全体の二割もいないと思う。何故なら悪魔というのは基本的に己のことにしか興味がないからだ。二割に含まれる悪魔たちが、人間を襲うことを喜びとしているだけのこと。それを理解せずに、悪魔とみれば片端から祓魔しようと躍起になる祓魔師たちは、いつになれば己自身で敵を増やしているのだと気がつくのだろうか。

「まぁな。今んとこ俺がきょーみあんの、あんただけだし?」

 他の人間や祓魔師はまるで琴線に触れない。この男に会っていなければそれなりに楽しめたかもしれない相手でも、なんとなく物足りなさを覚えてしまうのだ。

「なぁ、ほんと、ストレス溜まってそうだしさ、一発、抜いとかね? 俺のこと、好きに使ってくれていいからさ」

 ふわふわと、宙に浮かんだまま二度目の誘いをかける。もちろん性交をするということは精気をちょうだいすることになるが、一度のセックスで死に至るほど奪うつもりもない。

「男が嫌だってんなら女になるし、あんたの好みの姿だって取れるからさ」

 性交時に奪う精気は、相手が深いオーガズムに至れば至るほど、より極上のものになる。そのためにどのような手段をも使うのが夢魔という悪魔だ。そしてできれば、こちらもより強いオーガズムを覚えることができるのが理想である。

「……そこまで執着する理由が分かりませんね」

 私はただの神父ですよ、と苦笑を浮かべて見上げてきた男へ、「だって好みなんだもん」と端的に返した。

「目の色、好きだし、顔は地味だけどでもかっこいいし。身体しっかりしてて、腕太いし、力強そうだし。俺、ちょっと乱暴にされるほうが好きなんだよね」

 目を細め、明らかな秋波を乗せてみるものの、やはりこの男は一筋縄ではいかなそうだ。大抵の相手は潤んだ目と濡れた唇でころりと落ちてくるというのに、彼は「だったらご期待に添えそうもありません」と無碍もない。

「あなたのように、意志のあるものを『道具』扱いする趣味もありませんから、どうぞ、他を当たってください」

 きっぱりと言い切り、立ち上がった男へ「えー」と不満の声を上げる。どうしても乱暴にされたいわけではないし、道具扱いされたいわけでもない。ただセックスをしてみたいだけだ、とより端的に求めてみたところで、「お断りします」と変わらぬ拒絶。腰を上げ、礼拝室から出て行こうとする男をふわり、と宙に浮いたまま追いかけた。

「なあほんと、一回だけでいいからさ。あんた、祓魔師として結構強ぇだろ? だったら一回くらいで俺に夢中になったり、セックス中毒になったりすることもないって」

 そうした闇に落ちていくものは、精神の弱いものたちだ。お前はそうではないだろう、という挑発にも応じることなく、「そうですね」と彼は足を止め、振り返る。向けられた顔には変わらず笑みが浮かべられていた。

「夢魔の誘惑に乗らない程度には、強いですよ」

 意中の獲物をしとめようと、燐の身体からあふれ出るチャーム。それを跳ねのけることができるなど、かなり強靱な精神力をしていると言っていい。さすがにここまで誘って靡かない相手など会ったこともなく、眉をひそめた燐を見下ろした男は「ああ、そうそう」と思い出したかのように口を開く。

「先日はありがとうございました」

 突然の謝辞に面くらい、きょとんとした燐へ、「女の子、助けてくれたでしょう?」と祓魔師は言った。

「あなたほどの夢魔を呼び出したにしては、衰弱が見られませんでした。あのあとすぐに意識を取り戻しましたよ、彼女」

 あなたが生気を送ったんでしょう、と確認するように問われ、ああまあ、と曖昧に頷きを返す。まさかそのことに気づかれるとは、いや気づかれたとしても面と向かって礼を言われるとは思っていなかったのだ。

「半日ほど寝込んではいましたけど、あのとき私が現れなかったら、もしかしたらすぐに起きあがれるくらいにはなっていたかもしれませんね」

 ましてや、「邪魔をしてしまったようで、すみませんでした」などと謝罪までされるだなんて。

「……俺、悪魔、なんだけど……」

 思わず呟いた言葉に、「ええ、見たら分かります」と以前の燐と同じセリフを口にして男は笑う。

「服装は夢魔っぽさに欠けますが、それ、強すぎるチャームを抑えるためですね?」

 膝丈の白い長袖チュニックに同じく白いボトム、金に縁取られた大きな青緑色のストールを肩周りに巻き、マントのように揺らしている。常に相手を誘惑するため行動しているといっても過言ではない夢魔にしては大人しすぎるそれは、彼の言うとおり無駄に寄ってくるものたちを少しでも減らすためのものだった。清潔で性とはイメージ的に遠い白という色、肌の露出を極力減らすデザイン、顔すら覆えるほどの大きなストール。存在自体がセックスの象徴だとまで言われるほど、燐の誘惑の力は大きい。意識してコントロールできるならまだしも、人間でいうならもって生まれた肌の色のようなものなのだ。この教会にやってくる騎士團の人間たちではないが、呼んでもいない客を引きつけることも多かった。
 もちろん夢魔として生きていく上では役に立つ力ではあるが、何事にも限度というものがある。

「たとえあなたが悪魔であろうと、女の子を助けてくれた事実は変わりませんから」

 そして、たとえ己が人間であっても、その治療行為を邪魔してしまったという事実も変わらない。そのことに対し謝罪をしているのだ、と祓魔師は生真面目な顔をして言う。

「……あんた、ほんと、変な人間だな」

 普通は言わない、悪魔に対し、謝礼も、謝罪も、口にするはずがない。とくに祓魔師や聖職者であれば、尚更言わないようなことを、衒いもなく、臆面もなく言ってのける。そうするのが当然だとばかりに。
 しみじみと言った燐の言葉へ、「だから組織には向かないんですよ、私」と男は笑った。

「ますます好みだ。なぁ、悪ぃと思ってんだったらさ、」

 謝罪の気持ちを行為で示してもらいたい。そう望んで手を伸ばせば、彼に触れる前にばちり、と指の先に火花が散った。息をのんで腕を引いた燐へ、「それとこれとは別問題です」と男は笑う。

「あと気をつけてくださいね。これでも一応、祓魔師なんで」

 彼がかつん、と右のつま先で床を蹴ると同時に、今まで隠されていた術式がぶわわ、と宙に浮いて現れた。教会に結界を張っていないと思えばなんのことはない、この男は自分自身にのみ、対悪魔用のガードを張り巡らせていたのだ。
 赤くなった指先を押さえ、「っのやろぅ」と食えない表情の男を睨みつける。

「絶対落としてやっからな!?」
「どうぞ、ご自由に」



***     ***



 男の名前はオクムラというらしい。尋ねてくる人間たちが「オクムラさん」だとか「オクムラ神父〔せんせい〕」だとか呼んでいるのを耳にした。

「なあなあ、オクムラ。オクムラって、上の名前? 下の名前?」

 人間には確かファミリーネームとファーストネームがあったはずだ。悪魔には家や家族というものがあっても、家庭というものがないためよく分からない感覚である。燐の問いかけにオクムラは「さあ、どっちでしょう」と笑うばかりで答える気はなさそうだ。

「あ、俺! 俺の名前はな、」
「ああ、礼拝の方がいらっしゃったみたいですね。少し隠れていていただけます?」

 にっこりと笑って追い払われ、ちぇ、と唇をとがらせて姿を消す。悪魔であるため、魔障を受けたものにしか見えないが、これからやってくる人間が魔障を受けているかいないかなどわかるはずもない。いたずらに姿を目撃され、騒がれても面倒なだけだ。加え、オクムラは燐が大人しくしている限りはここから出て行けだとか、虚無界へ戻れだとかいうことを口にする気はなさそうなのである。それならば、本願を遂げるまでは彼の意向に沿っていた方が何かとやりやすいだろう。
 相変わらず男の周囲は何重にも練り上げられた結界が張ってあり、触れることすらままならない。燐にできることといえば、姿を消してオクムラの様子を伺うこと、時折顔を出して彼と話をすることくらいである。
 オクムラの日常は規則正しく、とても平坦だった。毎日決まった時間に起き、祈りを捧げ、毎週決まった曜日に訪れる人々へ教えを説き、祈りを捧げ、訪れるものたちの悩みを聞いて祈りを捧げ、時折持ち込まれる悪魔祓いの相談に乗って出かけては、祓魔をして祈りを捧げる。
 ただ月に一度、男は誰とも会わず部屋にこもる日があった。その日だけは張りつめた表情をしていることが多かったが、それ以外にはとても穏やかな日常だ。

「退屈じゃねぇの?」

 もう何度読み返しているのだ、と聞きたくなるほどぼろぼろに読み込まれた本を手に、静かに文字を追う彼へそう尋ねてみれば、「退屈ですね」とオクムラは笑う。

「でも退屈だからいいんです」

 この教会にはどこにも結界が張られていないため、彼の書斎や寝室にも燐は出入り自由である。ただ触れることができないというだけのことで。

「俺は退屈なの、嫌いだな」

 変わらない日々、繰り返される日常、そういったものに殺されそうなほど息苦しさを覚えてしまう。

「オクムラに触ることもできねーしさ。つまんねぇ」

 日差しの差し込む窓のそば、大きなウッドチェアへ腰を下ろして読書する男の肩のあたりに、あぐらをかいた姿勢で浮いている。そんな燐を見上げ、「あなたはそうかもしれませんね」とオクムラは笑って開いたページへしおりを挟み込んだ。

「でも、まったく触れることができない、というわけでもないんですよ?」

 ほら、と言いながらこちらへ向かって伸ばされる腕。え? と思う間にするり、とかさついた手のひらが頬を撫で、逃げていく。痛みはない。火花も散らない。温かいと感じる暇すらなかった。

「邪な考えがなければ発動しませんから、この結界」

 相手をどうにかしたい、と考えてさえいなければ役に立たないもの。そういった思いさえ捨ててしまえば、自由に触れることができるとオクムラは言った。

「え、いや、っていうかそれ、無理じゃね? 俺、夢魔だし、存在全否定じゃね?」

 邪な思いを捨てろと言われても、淫魔という生き物はそれそのものが集まったようなものである。思いたくないから思わない、と理性でどうにかできるようなものではないのだ。
 無茶言うなよ、と膨らんだ燐の頬をつつきながら、「頑張ればなんとかなるかもしれませんよ」とオクムラは他人事だ。

「いやいやいや、俺、そういう精神論、だめなんだって、苦手なんだって!」
「奇遇ですね、私も嫌いです。根性があっても無理なものは無理ですよね」
「だったら言うなよっ!」


**  **


 今までずっと他者を翻弄しつづけていたつもりだったが、この男が相手だとどうにも調子が出ない。言葉や表情に騙され、巧みに交わされてしまうのだ。一層のこと夢魔らしくチャームを全開にして誘ってみようかとも思ったが、そうすると他のものまで呼び寄せてしまいそうだ。触れることができればオクムラにだけチャームを送ることも可能だが、まずそれができないのだから。

「オクムラぁ、いつになったら俺の魅力に気づくんだよぉ」
「そうですねぇ。とりあえず今は、お隣のサダコさんのお腹のほうが気になりますからねぇ」
「隣のサダコって、猫じゃねぇかよ……俺、井戸から出てきそうな猫より下ってことかよぉ……」
「サダコさん、実は結構な年ですから、無事子猫が産めるかどうか、心配なんです。あなたは猫、嫌いです?」
「や、嫌いじゃねぇけどさぁ、可愛いけどさぁ……」

 大きなお腹を揺らして近所を闊歩する母猫のことは燐も気になってはいた。しかし、それはきっと今引き合いに出されることではないし、比べる対象としては大きく間違っていると主張してもいいだろう。

「つーかさぁ、オクムラ、別に不能ってわけでもねぇんだしさ、まだ若ぇんだし、俺じゃなくてもエッチする相手くらいいてもいいじゃん」

 宗派によっていろいろと規則が違うらしいが、聖職者でも妻帯が認められているものだってあるはずだ。それとも彼はこの若さでそういった欲望をすべて捨ててしまっているからこそ、一つの教会を任されているのだろうか。
 そう思っていれば、「私が不能者ではないと分かるものなんです?」と別の部分に食いつかれた。

「あぁ、そりゃまあ、俺、夢魔だし」

 夢魔のエネルギィ源は性的な官能だ。それを得ることができる相手かどうか、餌足りうるものかどうかくらいは区別が付く。オクムラを見て美味しそうだ、とそう思ったということは、つまりはそういうことだ。
 そんな燐の答えに「私もまだまだ、ってことですか」と彼は苦笑を浮かべる。どういう意味だと首を傾げれば、「修行が足りないってことですよ」と返ってきた。聖職者としてはそのような欲望の色すら漂わせないほど、精神鍛練を積まなければいけないそうだ。

「……いやっていうか、十分すぎる程だと思うぞ、オクムラは」

 そもそも食欲や睡眠欲と同じレベルで語られるほどの欲望である。種の保存といった本能的な部分もあるため、完全に抑え込むのは不可能だと思った方がいい。むしろないほうが生物として、人間として異常なのだ。
 オクムラとてそれくらいは十分に理解しているだろう。そもそも綺麗なものばかりを見ているような理想主義者には見えないのだ。ただ今後、そういった相手を作るつもりがないこと、まるで興味がないということだけはなんとなく察することができた。

「人間同士の場合は単純に快楽の共有だけというわけにはいきませんからね」

 もちろんそういう関係もないわけではない。しかし、どうしてもひとはその間に「愛」だとか「恋」だとかいう意味を込めたくなってしまうのだ、と神父は言った。少しだけ突き放したようなその口調は、何か思うところでもあるのかもしれない。そのような行為なくしては愛を語れぬ人間に呆れているのか、あるいは愛そのものに懐疑的なのか。
 肩を竦めて「俺は嫌いじゃねぇけどな」と燐は口を開く。
 たった一言にどれほどの感情を込めて人間は言葉を交わすのだろう。そこに何を見出すのだろう。
 人間ではない燐にはよく分からないし、所詮夢魔にとっての性交は食事をとる行為でしかない。ひとのようにそこに何らかの意味を付随させたとしても、腹を膨らませることにどうしても目がいってしまうのだ。仕方がない、夢魔とはそういう生き物だ。
 たとえ人間の言う「愛」だとか「恋」だとかが彼らの勘違いであったとしても、勘違いをすることさえできないものから見れば、少しばかり、羨ましくも思う。

「きっと、そういう言葉がくっついてるエッチって、すげぇ美味そうだなーってさ」

 そう考えてしまうのだから、どうあっても夢魔という生き物の性からは逃れられないのだけれども。
 にへら、と笑ってそう言えば、こちらを見ていたオクムラは、燐から視線を逸らせ「そうですね、」と静かに目を伏せた。

「あなたの場合は、美味しいでしょうね、きっと」

 その言葉にどういう意味だ、と眉を顰める。燐の訝しがる視線に気づいた男は、苦笑を浮かべて言うのだ、「私の場合はたぶん、食べれたものじゃないですから」と。ますます意味が分からない。むしろ淫魔である燐が「愛」や「恋」を語ってセックスをする方が異常で、食べられたものではない気がする。そう言った燐へ、オクムラは優しげな笑みを向けて口を開いた。

「確かにあなたは夢魔ですけど、とても優しい心を持っていることを私は知っていますから」

 燐を呼び出した少女を助けたこと、人間やオクムラの迷惑にならぬよう気を付けていること、子供を腹に抱える母猫の様子を毎日見に行っていること。燐がさして意識していない小さな事柄、それらを「優しさ」だと男は言う。少女を助けたことは呼び出してくれた礼でしかなく、人間に迷惑を掛けぬようにしているのはまだこちらでやりたいことがあるからだ。母猫サダコについては気になるだけとしか言いようがないが、何の裏もない行動ではないのだけれど、と首を傾げた燐へ、「人間にだって純粋な優しさはほとんどないですよ」とオクムラは笑った。

「私も、あなたのようにあれば、もう少し、違う道を生きることができたかもしれません」

 聖職者が悪魔のようにと口にするなど、笑えない冗談だ。しかし静かに語る口調からは、彼が心の底からそう思っていることが伺える。燐のようにあれば、もっと違う「愛」や「恋」を抱くことができたかもしれない、と。
 食べることができないほどの「愛」や「恋」。
 神に心を捧げた男は、一体それらをどんな人物に向けたというのか。
 そんな問いかけに神父は言った、「双子の兄に」と。

「…………その、兄ってのは、」
「死にました」

 月に一度、彼が部屋にこもる日は、兄の月命日であるらしい。
 その日、神父は誰に会うこともせず、ひたすら懺悔を捧げる。
 自分のせいで死んでしまった兄に向けて。
 血の繋がった弟から向けられる感情に気づき、自ら命を絶ってしまった最愛の兄へ。
 ただただ、「ごめんなさい」と謝り続けている。
 きっと彼は、その生が尽きるまで、自身を許すことはないのだろう。
 そんな雰囲気を読み取り、口を閉ざした燐はなんとなく。
 本当に、何の根拠もなく、ふと、思った。
 その死んでしまった兄も、弟と同じ感情を抱いていたのではないか、と。
 だからこそ。




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2014.01.17