悪魔の恋・後


 できるだけ気を付けているつもりではあったが、基本的にあまり燐を敵視してくるような存在と相対する機会が少なく、考えが甘かった点は否めない。チャームに頼り切っていたということもあるかもしれないが、そもそも夢魔などそれくらいしか力を持たないのだ。それで乗り切れなければ、抵抗を諦めるほかない。以前の、虚無界にいた頃の燐ならばきっとこのレベルの人間など、たとえ祓魔師であっても簡単に操れただろう。しかし今は時期が悪い。すぐにこの男をどうにかできるほどの力が今の燐にはない。
 己の身体を束縛する術にちっ、と舌打ちを零して正面の男を見やる。オクムラよりもやや年上だろうがまだ十分に若い。身体つきはあまりよくなく、詠唱や札に頼っているところから前線で戦うタイプではなさそうである。
 オクムラのほうが良い男だなぁ、と思いながらも、逃れることが出来そうもない術に歯噛みした。そもそもひとを襲っていたわけでもなく、こちらへ来て誰ぞ殺したこともない。それなのに出会いがしらに、「この悪魔めっ!」と封魔術を放ってきたのだ。客がきたことを教会の奥にいる神父へ知らせに行こうとしてやったというのに、だ。

「ここのところ強い陰の気を感じると思えば、やはり悪魔が棲みついていたか」

 これだから付け焼刃の知識しかないやつは、と吐き捨てられた言葉は、明らかにオクムラを侮蔑するもので、どうしてだか燐がむっとしてしまった。あの男にどれほどの力があるのか、こいつには分からないのだろうか。オクムラが日ごろ使っている書斎の壁一面にある本の九割が、祓魔関係の資料であることを知らないのだろうか。
 そう言いかえしてやろうと口を開いたが、十字を切って紡がれた聖典に腕と胴を纏めて締め付ける術の力が強まり呻きが零れる。ぶつぶつと詠唱を続けながら近づいてきた祓魔師(騎士團のバッチが左胸に光っている)は、懐から一枚の札を取り出した。おそらくあれを直接貼り付けて祓魔を行うつもりだ。そのときにはわずかだが指先が燐に触れるはず。その瞬間ならば、チャームも使えるかもしれない。
 そのときに賭けよう、と眉間に皺を寄せたところで。

「ひとの家で随分なご挨拶ですね」

 その子から離れていただきましょうか、と続けられた言葉に聞き覚えがあると思えば、初めてオクムラに会ったときに燐が言われたものだ。まさか次は保護される対象として聞くとは思ってもいなかったが。
 しかし、それを聞いた祓魔師はあのときの燐と同じような行動はとらなかった。「何を馬鹿なことを」と眉を顰めたと同時に、構えていた札を燐の胸へ張りつけたのだ。

「ぐっ、ぁ、ああっ!」

 焼けた石を押し付けられたかのような、そんな痛みが胸を襲い、全身に広がっていく。オクムラが現れたことで完全にチャームを使うタイミングを逸してしまった。このまま苦痛を与えられ、詠唱を続けられたらさすがに虚無界へ逃げざるを得ないだろう。
 脂汗を浮かべながらぎり、と奥歯を噛んだ燐の側をひゅ、と通り過ぎた黒い影。霞む目で追ったそれは、どうやらオクムラの脚のようだった。
 さすがに人間相手に武器は使わないようだったが、遠慮なく繰り出した長い左足で術を展開していた祓魔師を後方へと蹴り飛ばす。ぐは、と呻いた男が燐から離れると同時に拘束が解けたのは、オクムラが術を消滅させてくれたのだろう。その場に頽れかけた燐を抱き留め、胸を焼く札をはぎ取って投げ捨てた。

「ッ、き、さまっ、分かっているのか!」
 そいつは悪魔だぞっ!

 身体を強かに打ち付けたのだろう、よろめきながら立ち上がった男は、こちらを指さしてそう叫び声を上げる。しかしそんな声など聞こえていないかのように、オクムラは「失礼」と断って燐のチュニックの襟首を引き下げた。
 焼けただれた皮膚を見て眉を顰めた男は、じっとしていて、と言って燐を横たわらせて腰を上げる。ぱたぱた、と響いた足音は礼拝堂の奥で止まり、すぐに戻ってきた。

「少し沁みるかもしれませんが」

 そう前置かれて赤くなった喉の下へ軟膏を塗り広げる。悪魔である燐に人間の治療(だと思う)が効くとも思えないのに。そう言いたかったが、彼の言葉どおり薬の沁みる痛みに眉を顰め、歯を食いしばっていたため言葉は出てこなかった。

「こんっ、こんな、ことをして!」
 ただで済むと思っているのか!?

 オクムラが燐から離れた隙にいくらでも攻撃はできたであろうに、蹴り飛ばされたダメージが大きかったのか、あるいは単純に気迫に押され動けなかっただけか。どちらにしろ所詮その程度の祓魔師であるということだ。
 お忘れのようですけれど、とオクムラはそっと燐の襟元を直しながら静かに言う。

「私は騎士團の人間ではありません。あなたの言葉に従う謂れはない」
「ッ、しかしだからといって悪魔を庇うなどっ!」
「私が滅する対象はひとに害成すものです。彼があなたに何かしましたか? 何らかの被害を受けた方がいるとでもいうのですか?」

 もしそうであるならば滅することを止めはしない。しかしそのような事実がないにも関わらず、ただ悪魔であるというだけで祓うことには賛同できない。

「だからずっと、そちらからの言葉をお断りさせていただいてたんですよ」

 もちろん正十字騎士團全体がそういう方向で動いているというわけではないだろう。しかし中には人間側の都合で祓ってしまう悪魔もいるわけで、そのような任務に就くのが嫌だった。だからこそ、勧誘を断ってきていたのだ。

「私は今後もこのスタイルを変えるつもりはありませんし、あなた方と肩を並べて戦うつもりもない」
 どうぞ、お引き取り下さい。


**  **


 俺、悪魔なのに、と小さく呟けば、「動かないでください」と怒られた。ようやく騎士團の祓魔師が去った礼拝堂で、オクムラは今軟膏を塗った燐の胸元にガーゼを当て、包帯を巻いてくれている。

「こんな、こと、しなくても……」

 悪魔だから人間よりも治癒力は高い。じくじくとした痛みは続いているが、赤味もだいぶ引いてきている。それなのにオクムラは治療の手を止めようとはしなかった。
「確かに、あなたに人間の薬が効くかどうかは分かりませんけど」
 それでも、と眼鏡の奥の瞳を伏せ、男は静かに言葉を紡ぐ、手当てというものは馬鹿にできないものなのだ、と。
 綺麗に巻かれた包帯の上、札を張り付けられた場所にそっと置かれた手のひら。頬に触れられたときとは違い、今度ははっきりと、オクムラの体温を感じることができた。相手にも寄るでしょうけど、と男は続ける。

「こうして触れられていると安心できるでしょう?」

 この行為により劇的に治癒が早まるわけではない。それでも、病気や怪我をするということはとても不安なことだ。誰ぞ、心を預けることのできるものが側にいてくれるだけで、どれほど心強く思うことか。そういった安堵感が治療には必要なものなのだ。だからこそ直接手を当てる「手当て」も馬鹿にできないのだ、と。
 そう言って穏やかに笑う男を見上げれば、胸元にじん、と何かが広がっていくような気がした。札から受けた痛みでも熱さでもないそれはゆっくりと胸から喉へ、顎を伝って耳へ、脳へ広がり、肩から下りて指先まで、足のつま先まで包み込んでいく。
 確かにこれは、馬鹿にできない。燐が自分以外の誰かの肌に触れるときは、ほとんどがセックスに繋がる場合だ。その先には骨も蕩けるような愉悦と熱が待っている。何も分からなくなるほどぐちゃぐちゃになって溺れるセックスはもちろん好きだけれど、夢魔である自分はそうなる以外、誰かに触れることなんてできないと思っていた。
 そっと手を伸ばしてみれば、燐の指先は火花に拒まれることなくオクムラの頬にたどり着く。このような状況であるため結界自体を無効化してくれているのか、それとも。

「あんた、すげ、やさしーけど、さ。ここにいても精気、貰えそうもねぇし、祓魔師くるし、すげぇ熱いし、痛いし、もー散々だからさ」

 これ治ったら帰るわ、と告げた燐へ、男は何も返さない。返さないまま、頬に触れる燐の指へそっと手を重ねてくれた。
 自分がこんなにも穏やかにひとに触れることができるだなんて、知らなかった。



***     ***



 抱いた気持ちを「愛」だとか「恋」だとか言うつもりは毛頭ない。夢魔がそのような言葉を吐いたところで喜劇にしかならないだろう。きっと誰にも信じてもらえまい。何せ自分でさえよく分かっていないのだから。
 ただ重ねられた掌から伝わってきたその熱は、今も燐の胸をじん、と焦がしている。
 この温もりを覚えている限りはきっと生きていける。
 ひとりそっと、そんな想いを抱くことくらいは、許されるのではないだろうか。



***     ***



 オクムラの日常は相変わらず、平坦だ。毎日起きる時間も、ミサを開く曜日も、人々に応対する口調も笑顔も、変わりない。悪魔祓いの相談に自らの足で赴いて祓魔を行うことも、祈りを捧げる姿勢も横顔も、月に一度彼が纏う物悲しい張りつめた雰囲気も、燐が側にいたころとまるで変わりがない。
 ただゆっくりとときが流れ、彼自身が年を取ったということくらい。

「オクムラ神父〔せんせい〕」

 ひょっこりと礼拝堂に顔を出したのはセーラー服姿の少女。それはかつて燐をこちらへ呼び出してくれた少女の成長した姿だった。母親の使いとしてやってきたらしい彼女と、親しげに会話を交わす男をぼんやりと眺める。あの時から、燐はオクムラの前に姿を現していない。しかし虚無界に戻ったわけでもなくただこうして、彼を眺め続けていた。
 時々、本当にごくまれに、悪魔祓いをする際に少しだけ手を出す程度で、それ以外燐は己をないものとして彼の背後に置いていた。どうしてこんなことをしているのか、数年経った今でも良く分からない。
 あの時助けてくれた恩を返したいのか、それとも。
 悩んで考えた時期は当に過ぎ、分からないものは分からないままとして置いておこうと諦めた。ただ人間の一生は悪魔のものに比べずいぶんと短いと聞く。それならば、人間である彼の命が尽きるまではこうしているのも悪くない。少なくとも、退屈に殺されかけていたような虚無界にいる頃よりは、今のほうがずっと心穏やかではあった。
 燐の見下ろす先で、オクムラは今日もまた、昨日と同じように平坦な日常を送っている。できればこのまま穏やかに彼の時間が流れることを望んでいたのだが、やはり燐という悪魔と関わってしまったことで、彼の日常は既に崩れてしまっていたのだろうか。
 パン、と乾いた音が礼拝堂に響くまでそのことに気が付けなかったのは、燐があまり人間というものを深く理解できていなかったせいもあるだろう。他者を排する際に殺意を完全に抑えることのできる人間がいること、殺すという意識をまるで持たず、機械的な動作を行うことで暗殺を成すよう訓練を受けたものがいることを知らなかった。相手が燐のような悪魔であれば、あるいは敵意や殺意を剥き出しにしてくるようなものであれば絶対に、防げたはずなのだ、このような凶弾など。

『ッ、オクムラッ!』

 思わず叫んで男のそばに舞い降りる。銃弾が貫いた腹部からは真っ赤な血があふれ出ていた。抑え込むオクムラの手も真っ赤に染まっている。血を止めようと手を伸ばすが、この状態で何かに触れることはできない。それ以前に悪魔である燐に人間の治療などできるはずもないのだ。背を向けて走り去っていく犯人も気になるが、それよりもまず誰ぞ人を呼んでこなければ。
 慌てて腰を上げ、ひとのいる場所へ向かおうとしたところで、「待って、ください」と呼び止める声が鼓膜を震わせた。思わず足を止めて振り返るが、オクムラには燐の姿は見えていないはずだ。魔障を受けたものであっても見ることができぬように、姿を隠匿しているままなのだから。それでもオクムラは言うのだ、「そこに、いるのでしょう?」と。

「姿を、見せて」

 どくどくと流れ出る血は止まる気配を見せず、話すことさえ辛そうだ。もしかしたら燐を呼んでいるのではないのかもしれない、近くにいる別の誰かを呼んでいるのかもしれない。そう思いながらもおずおずと姿を現し覗き込めば、「やっぱり」とオクムラは安心したように笑った。悪魔祓いをしている彼はときおり、燐がいる方向へ視線を向けてくることがあった。気づかれているのだろうな、とは思っていたのだ。

「こうして、顔を、見るのは久しぶり、ですね……」

 悪魔である燐にとっては数年などさして長くもない時間だが、人間であるオクムラにはそうではないのだろう。血の気を失い、青ざめた顔のまま「私も年を取ったものです」と彼は笑う。

「ッ、な、なぁ、俺、人間のケガとか、よく分かんねぇけど、このままじゃやばいんじゃねぇの!?」

 このような傷が簡単に塞がるとも思えない。悪魔とは異なり、人間の身体はとても脆いのだと聞いている。現に横たわったオクムラからはどんどんと生気が失われているのだ。

「誰か、呼んでくっから! 助けてくれるひとっ!」

 己にはそれができない。だから誰か人間を連れてくる、それまでなんとか持ちこたえてくれ、そう口にして立ち上がりかけたが、やはりオクムラは「待って」と燐を呼び止めるのだ。

「さいごくらい、は、一緒に、ね」

 おそらく自分はもう助からない、ここでこの生は尽きるだろう。だからその時は側にいてもらいたい、と乾いた唇で男は乞う。
 何馬鹿なことを言ってんだ、と弱気な言葉を跳ね除けたかったが、代わりに燐の口から零れたのは、「ごめん」という震えた声での謝罪だった。

「助けられなくて、ごめん……ッ」

 もう少し早く男が銃を構えていることに気が付けば、騎士團の人間がやってきたときにもっと警戒をしていれば良かった。彼と騎士團の関係が年々悪化していることは知っていたのだ。何せずっと見てきていたのだから。決定的にまで罅が入ったのは燐が傷つけられたあの事件以降だが、結局それはもとに戻ることもなく、邪魔ものを排除するという一方的な暴力で幕を引かれようとしている。

「ごめ……っ、ほんと、ごめん……ッ」

 燐が現れなければ、あのとき捕らわれることがなければ、もしかしたらここまでの凶行に及ばれることもなかったのではないのだろうか。そう悔いたところで時は戻らない。ほとんどすべての存在を操ることのできる燐のチャームも、時間に関するものだけはどうにもできないのだ。そもそも今は、オクムラを治療するための人間を操って連れてくることすらできないほど力が弱まっているのだから、たとえその能力があったとしても使えないだろう。
 助けられなくてごめん、と項垂れる燐の頬へそっと伸びてきた手。血に濡れていない方のそれは、以前とは比べ物にならないほど冷たかった。やっぱり、とオクムラは言う。

「け、っきょく、だれの精気も、取って、ないんですね……」

 あれ以来、と口にする男は気が付いていたのだ。あの時燐があっさり祓魔師の術にかかってしまったことも、逃れることができなかったのも、精気を得ないまま過ごしたせいで徐々に魔力が弱まっていたせいであることに。

「ッ、だ、って、食う気、しねぇもん……っ」

 目の前に極上だと思われる精気を持つ男がいる、それが食べたくて仕方がない。そんな欲望のままに断食していたわけではない。本当に、オクムラ以外のものから精気を取る気になれなかったのだ。一度もわけてもらえたことがないというのに。本当に美味しいものであるかどうかも分からないというのに。
 欲しかったのだ、この男が。
 静かに笑い、穏やかに語りかけ、悪魔だろうと人間だろうと、変わらず接する彼だけが。
 ただ欲しかった。
 ばかですね、あなたも、と笑う男へ、うるせぇ、と眉を寄せて言葉を返した。

「名前を、教えて、もらえますか?」

 耳を寄せなければ聞き取れないほど、オクムラの声は小さくなっている。吐き出される呼吸も一つがやけに長い。今まさに、燐の膝の上で、腕のなかで、男の命は尽きようとしている。

「リン、だ。鬼火とか、狐火の、燐」

 りん、とその音を口のなかで転がし、オクムラは満足そうに笑みを浮かべる。

「燐、私が死んだ、ら、この身体は、好きにしてもらって、かまいません、から」

 結局側にいる間は何もしてやることができなかった。夢魔の食事である精気も分けることができなかったから、と彼は言う。人間として、祓魔師として、聖職者として、当然の態度を取ったことを悔いているわけではないだろう。最愛の人物を亡くし、己を許すことのできなかった優しい男が、そうと決めて生きてきた道。けれど、そのことを申し訳ない、と思う程度には燐の存在を受け入れてくれていたのだとも思う。
 小さく息を呑んだあと、「ば、かじゃねー、の」と燐は掠れた声で男を罵った。

「死んじまう、よーな、弱いやつの、身体に、なんか、用、ねぇし……ッ」

 要らねぇよこんなもん、と口にする夢魔を見上げ、オクムラは「残念」と目を細める。

「死んだ、あと、くらいは、君に、触れて、みたかった……」

 そう笑った男はほとんど力の入っていない腕をあげ、燐の手を取った。導かれるまま腕を上げれば、冷えた彼の唇がそっと手の甲に落とされる。

「ぼくは、雪男と、いいます。奥村、雪男」

 出会って数年、ようやく知ることのできた、フルネーム。ゆきお、とその名を呼べば、どうしてだか胸の奥がぎゅう、と痛んだ。

「ゆきお、雪男……」

 繰り返し重ねれば重ねるほど、胸の痛みは強くなる。ずきずきと喉の奥が痺れ、目玉の裏が熱くなり、つん、としたものが鼻の奥を突き刺した。ゆきお、と震えた声で呼びかけた声に、うん、と子供のような返事が一つ。
 浅くなる呼吸、失われる体温、小さくなっていく鼓動。

「ありがとう、燐」

 我儘を聞いてくれて、そばにいてくれて、いつも見守っていてくれて。
 悪魔に対する謝辞に続けて何事かを小さく呟いたあと、男は静かに目を閉じた。
 その目蓋はもう二度と開かれることはないだろう。
 あの綺麗なグリーンの瞳が燐の姿を映すことは、もうないのだ。

「――――ッ」

 ひゅ、と喉が妙な音を立てて鳴った。頬に当たる風が冷たいのは、己が泣いているせいだと燐は気が付いていない。握り返してくれることのない手にそっと己の手を重ね、静かに眠る男の上へ顔を屈める。
 もう二度と動くことのない唇、柔らかく、優しく、燐の名前を紡いでくれた唇。
 それに己のものを重ねようとして、ふ、と動きを止めた。

 変わらない日常を送っていたオクムラ。彼は毎日祈りを捧げ、清めたカソックを纏い、十字を胸元にさげて生きてきていた。彼がどれほどその心に神を掲げていたかは分からない。どれほど心を寄せていたかは分からない。
 しかしこの男はどこまでも聖職者足ろうとした。悪魔の甘言には耳を貸さず、それでいて悪魔だからと見下すこともない。己の行く道を天におわす神と、亡くしてしまった兄にだけ捧げて生きてきた。
 この身体は神に愛されるべき身体だ。
 神の祝福を受けてしかるべき存在だ。
 しかし己は魔に属するもの。
 たとえ彼が死していたとしても、その唇に触れてしまえばきっと魂を穢してしまうことになるだろう。
 そのようなことが、できるはずもない。

 ぐ、と唇を噛みしめて顔をあげ、体温の失われた男の頬を撫でる。
 最後にようやく与えられたものは、冷えた口づけが一つ。
 オクムラの唇が触れた手の甲を見下ろした後、ゆっくりと目蓋を伏せ、燐は同じ個所へ己の唇を押し当てた。

「……俺も、」

 小さく呟く言葉は、決して口にしてはならないもの。音にはできない想い。
 けれど、それを抱いたという事実だけは、消えてなくなることはない。



 俺も、愛して、いるよ。




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2014.01.17
















触れ合わない愛。

Pixivより。