ヨンパチ。(その10)(1)


 旅館でばったりと出くわした途端、うげ、と心底嫌そうに響いた声は一つではなかった。

「……なんでいるんだよ、お前ら」

 額を抑えて呻くようにそう言ったのは、今や日本支部きってのエースチームの一員となっている青焔魔の落胤、奥村燐、ではなく、彼が学生時代に剣を師事していた元上級監察官の女性、霧隠シュラである。
 あれから十年近く経っているにもかかわらず、彼女の肉体は衰えを見せず、素晴らしいプロポーションを保ったままだ。豊かなバストを惜しげもなく晒すような衣服を纏うシュラは、今は日本支部付けの祓魔師となっていた。燐の監視として本部より派遣されていた彼女だったが、青焔魔の血を引く兄弟に当面の危険はないと判断されたときに正式に移動してきたのだ。理由は語らなかったが、兄弟の行く末を見ていたかったのか、あるいは慕っていた(と彼女は認めないだろうが)師の墓でも守りたかったのか。あるいは単純に、またバチカンへ戻るのが面倒くさくなっただけなのかもしれない。
 移動する前より既に日本支部所属の祓魔師であるかのように任務を渡されていたため、表向きの変化はほとんどなかった。ただ、同僚よりシュラに対する愚痴を聞く機会が増えたくらいだろうか。双子の兄弟が高校を出たばかりの頃はともに任務へ赴くこともあったが、最近は固定メンバで任務をこなしているため久しぶりの邂逅となる。

 そんな彼女が、騎士團支給のジャケットを羽織っているということは、つまり祓魔の任務で訪れてきている、ということだ。
 この山奥にある、寂れた温泉街に。
 温泉街、温泉を売りにした旅館が立ち並ぶ場所。つまりは日々の疲れを癒すために訪れる場所だ。奥村兄弟は、多忙なスケジュールを縫って得た二日の連休を堪能するべくやってきたわけである。最近はチームメイトと過ごす休日も多いが、こうしてふたりきりの時間もちゃっかりきっちり作っているのだ。二十五もすぎた男兄弟(しかも双子)で温泉旅行とはこれいかに、と疑問を抱くのは彼らふたりを知らないものだけであり、知っているものたちは「まああのツインズだから」で済む。この度の温泉旅行計画を知ったチームメイトたちも、「馬に蹴られたくないからどうぞごゆっくり」と快く送り出してくれた。

 そんなこんなで訪れた観光地にて、何故だかばったりと同僚に鉢合わせ。しかも怨嗟の呻きを零されるというおまけ付き。ちなみに呻いたもうひとりは双子の兄弟の弟のほう、雪男である。燐はといえば持ち前の能天気さを全力で発揮し、「なんだよシュラ、お前も温泉か?」と嬉しそうに尋ねていた。
 んなわけあるかぼけ、とブーツを纏ったシュラの右脚が、燐の脛を蹴りつける。悲鳴をあげて蹲った兄を見おろし、弟は「ばか」とため息をついた。
 そうしてひどく嫌そうに歪めた顔を戻すこともなく、「手伝いませんよ」とシュラに向けて言葉を放つ。双子は今日明日と休暇でここにきているのだ。たとえ同僚たちが同じ場所で仕事をしていようと関係はない。こちらをあてにするような祓魔、作戦は御免こうむる、と牽制すれば、「分かってるっつのぼけ」と雪男にも脛蹴りが繰り出された。が、そうくることを予測していたため左に交わせば、それすらも見越していたかのようにボディブローを捻じ込まれる。重たい拳ではなかったがさすがにげほ、と咳き込めば、してやってり、といいたげにシュラが口元を歪めて笑った。青焔魔の息子がふたりも揃って情けないありさまである。

「こっちはてめぇらが来ること知らねぇで作戦練ってんだ、今更変えんのもめんどくせぇだろ」
「ああ、それもそうですね。では、お仕事頑張ってください? 僕たちはこれから温泉でゆっくりさせてもらうんで」
「ほんっとに性格悪ぃな、ビリーは!」
「あなたに言われたくないです。二日の間に無事に終了するようなら、労いにビールくらいは奢りますよ。それとも養命酒とかのほうがいいですか」
「年寄り扱いすんじゃねぇ、くそメガネが」

 このふたりは昔から実はものすごく仲がいいのではないだろうか、と燐は疑っている。そう口にすれば双方から遠慮のない罵声と暴力が飛んでくるため、決して言葉にはしないけれど。だからとりあえず舌戦が治まるまで待ったあと、別れる前に「あ、シュラ!」と師匠へ声をかけた。

「任務、どっちのほうでやってんだ?」
「ちょっと、兄さん!」

 燐が手助けに向かうとでも思ったのだろうか、雪男が慌てたように声をあげたが、燐だって久しぶりの旅行を仕事で潰したいとは思っていない。ある程度の把握ができていないと、下手に行動して邪魔をしても悪いと思ったのだ。避けるにしても場所を知らなければ避けようがない。
 そう説明する燐へ、「川の上流だ」と返ってくる。

「つっても、水の眷属っぽいからな、水場にあんまり近づかねぇほうがいいかもな」

 シュラからの忠告にサンキュ、と手を振って、双子の兄弟は旅館のフロントへ足を向けた。
 受付を済ませ部屋に案内してもらう間、まさかシュラたちの隊がいるだなんて失敗した、と面白くなさそうな顔をしていた雪男だったが、部屋でお茶を啜る頃にはすっかり機嫌も治ったようである。窓際の椅子に腰かけ、のんびりと外を眺めている顏に先ほどまでの険しさはない。荷物をといてお茶を入れて、と甲斐甲斐しく弟の世話を焼いていた燐はといえば、今は部屋の内装へと興味を移していた。

「うわ、すげぇ! ほんとに露天風呂ついてる!」

 からら、と引き戸を開いて覗きこんだ先にある客室専用露天風呂に、歓声をあげる。洗い場を含めた室内の浴室の向こう側にもう一つ、岩づくりの露天風呂が設置されていた。
 燐たち兄弟は人間の心を持っているとはいえ、身体は悪魔のそれだ。魔障を受けていないものには見えないが、ふたりともが黒い尾を備えている。それを目撃されてはいろいろと面倒になるため、ふたりだけで入れる風呂がない場所には泊まれなかったのだ。広々とした大浴場に浸かりたい気持ちもなくはないが、そこは諦めるほかないだろう。広さよりも、景色の良さを堪能すればいいだけのことだ。

「ちょっと入っとく?」

 フロントの説明では、専用露天風呂はいつでも入って良いのだそうである。せっかく訪れたのだから、温泉を心行くまで堪能したい。

「いっぱい入ってやる、ってつい思っちまうのって、やっぱ貧乏性だからかなー」

 備え付けの浴衣を用意し、軽く身体を流したあとふたりで温泉に浸かる。のんびりとそんなことを口にする兄へ、「否定はしない」と雪男は苦笑を浮かべた。払った代金分は温泉成分を吸収して帰りたいところである。
 正面の景色は川を挟んだ向かいの山々。新緑の季節からは少しはずれているが、それでも緑が濃く目に鮮やかだ。宿泊している部屋は三階であるため、身体をのぞけない限りひとに見られることもない。もちろん視界を遮るよう設計されているのだから当然ではあるが、それでも一応「外は覗いちゃだめだよ」と注意が零れてしまう。「温泉たまごー、つるつるおはだー」と意味不明な自作の歌を歌いながら湯に浮かんでいた燐は、弟の小言へ「分かってるって」と笑って返した。
 岩へ頭を乗せて上を仰げば、まだ太陽のある昼の空が広がっている。白い雲に空の水色、そして木々の緑を眺めながら風呂に入るのもまた一興。
 旅行を計画したのは雪男だが、温泉がいいと言ったのは燐のほうだ。特に温泉が好きというほうでもないため、正直年寄りくさいなぁと思ったのだが、これはこれで良い選択だったかもしれない。そんなことを思っていたところで、不意に燐の鼻歌が止まったことに気がついた。雪男は室内側の縁に背を預けて浸かっており、燐は外側の縁に腕を乗せて景色を眺めている。そのため彼の背中しか見えず、表情は分からない。しかし、取り巻く雰囲気が少しだけ変わったのが分かる。何かを警戒しているわけではないが、注意深く伺っている気配を覚えた。

「兄さん?」

 静かに呼べば、「何か、聞こえる」と彼は小さくそう答える。何かとは何だろうか。詳しく尋ねる前に雪男の耳にもその音が届いた。
 正確には音ではない、話し声だ。
 冗談じゃねぇよほんとに、と吐き捨てるように男が言う。そんなに遠くはない。ちょうどこの下のあたりからだろう。旅館のすぐそばには川が流れており、露天風呂はその川側に設置されている。河原を歩く誰かの話し声だろうが、散歩ができるような道などなかったことを雪男は知っていた。観光客、泊まり客がふらっと下りるような場所ではない。

「おい、声がでけぇよばか」

 慌てたように窘めているのも男だ。誰かに聞かれたらどうするんだ、という彼へ、聞こえる距離には誰もいねぇよ、と返す男。確かに雪男たちが人間であれば、彼らの話し声は聞こえなかったかもしれない。しかし残念ながら、悪魔の耳は人間のものより多くの音を拾ってしまうようにできていた。

「お前だって思うだろ、なんでよりにもよって霧隠隊長なんだよ」

 覚えのある名前に眉間にしわが寄る。霧隠だなんて名字、そこらに転がっているようなものではなく、それに隊長という呼称がつくのならもはや雪男たちの同僚以外とは考えられない。飛び出た知り合いの名に、燐も少しだけ身体を強ばらせた。水面が揺れているのは、沈んでいる彼の尾が動いたからかもしれない。
 そりゃお前があのひとを知らないからだよ、ともうひとりの男は文句を口にしている同僚へ言う。

「でも、俺が知ってる隊長はずっと酒飲んでるぞ。信用できねぇだろそんなやつ」
「実力はあるひとなんだよ。だから隊長とか任されてんだろ」

 実力も経験も実績もある祓魔師だからこそ、小隊をまとめあげることができるのだ。祓魔師はひとりでは戦えない、得意分野を伸ばし苦手な部分を補い合って悪魔と対峙し、戦う。これは祓魔師ならば必ず心得ておくべき、極めて初歩的で重要な考え方である。いくら各個人の能力が特化していても、的確に実力を発揮できなければ意味がない。それを行うのが隊のリーダなのである。

「戦闘になるってのにあんな格好だし、ほんとに戦えるのかよ、あいつ」

 ついには上司を「あいつ」呼ばわりになってしまった。彼が今までどのような任務に携わってきたのかは分からないが、相当腹に据えかねていたらしい。

「お前、ずっと海外支部にいたから知らないだけだって。剣持ってる姿みたら分かるんだろうけど……霧隠隊長、最近だとよっぽどのことがないと動かないんだよなぁ」
「動かないんじゃなくて、動けないんじゃねぇのか。もういい年だろ」

 酒しか飲まないんならすっこんでろっつーの、と吐き捨てられた言葉に、「まあまあ」と宥める声が重なる。そのあともぼそぼそとやりとりをしていたようだが、おそらく祓魔の下準備を行っていたのだろう。やがて彼らは上流に向かって去っていったようだった。

「……兄さん、のぼせるよ」

 図らずも知り合いに対する陰口を聞いてしまったが、たとえ相手が彼女であっても気分のいいものではない。雪男でももやもやしたものを覚えたのだから、まっすぐで優しい燐はもっと腹立たしく感じただろう。
 努めて穏やかな声でそう呼びかければ、ずっと背を向けていた彼がようやくこちらを振り返った。思ったとおり、怒りを堪えながらも泣き出しそうな顔をしている。
 もう上がろう、と促して露天風呂をあとにし、脱衣所で火照った燐の身体をバスタオルでくるんでやった。

「大丈夫、シュラさんもプロなんだから」

 それも燐や雪男以上に経験を積んでいるひとなのだ。他人からのやっかみなど掃いて捨てるほどあっただろうし、反抗的な部下だって何人も応対してきただろう。ここでふたりが心配し、腹を立てたところでさほど意味はない。彼女がどういう人物であるのか、燐たちはちゃんと理解しているのだからそれでいいではないか。
 雪男の言葉にようやく表情を緩めた燐は、浴衣を纏いながら「まあ文句言いたくなる気持ちは分かる」と苦笑して言った。

「でも、人間同士でもああいうこと言ったり言われたりするんだから、俺らがいろいろ言われんのもしょうがねーなってちょっと思った」

 同じ人間であっても、厭われる対象になるのだ。異種族、それも敵対関係にあるような種族であれば、なおさらそうなってもおかしくはない。そう考えれば逆に、今自分たちと親しくしてくれるひとがいることが、とても奇跡的なように思える。

「それこそ人間同士でもそうだと思うよ。背中を預けられるチームメイトがいて、僕たちは幸せものだ」

 今ここにはいないけれど、彼らがともに戦ってくれるからこそ、青焔魔の炎を使う双子の悪魔として、雪男たちは祓魔師をやっていられるのだと思っている。
 静かに紡がれた弟の言葉にこくりと頷いた兄は、「土産、買って帰ってやろうな」と笑った。




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2016.07.19