ヨンパチ。(その9)(1)


 ここだ、とふたりが案内された先は、天井の高い書斎だった。壁際に設置された本棚、いかにも値の張りそうなグラスとブランデーボトルの並んだサイドボード。部屋の中央には大きな革張りのソファが一セットに、応接テーブル。それとはまた別に、主人が普段仕事でもしているのか、艶のある木製の大きなデスクと立派な椅子がある。素早く室内を観察した男のそばで、付き従っているもうひとりの男がわお、と楽しそうに声をあげた。

「二時間ドラマやったら、絶対あの灰皿が凶器になると思いません?」

 ぼそり、と小声でそんなことを囁いてくる。指差す先にはテーブルにのったガラスの灰皿があった。確かに、彼が言いたいことも分からなくはない。しかし、相変わらずこの男は真剣さが足りなくてどうにもいけない。やかまし、と勝呂は幼なじみでもある右腕、志摩の頭をすぺん、と叩いておいた。幸い、依頼主である屋敷の主人はこちらに背を向けており、その仕草を見られてはいない。

「私はこの部屋で過ごすことが多くてね」

 屋敷にいる間はだいたいここで仕事をしているため、身近な場所に保管してあるのだ、と振り返った男が言った。小さく頷いて答えたあと、サイドボードのさらに奥に置かれている黒々とした金庫へ目を向ける。顔の動きから何を見ているのか察したのだろう、主人は「ああ、そのとおり」とにやりと口元を歪めた。

「『彼女』はこの中だ」

 ぽん、と金庫を叩く男の手にはきらきらと金の指輪がいくつか輝いており、『金持ちとはかくあるべし』と言いたくなるような姿であった。この主も分かった上で敢えて自らを飾り付けているのだろう。全身ブランドでかため、随所に金と宝石を散りばめたアクセサリを纏うことが彼の趣味であるならば、その美的センスには大いに同情せざるを得なかった。
 すまないが、と男は笑みを浮かべたまま言葉を続ける。

「中を見せることはできない。さすがにあんなものを受け取っているからね。今日が指定日ではないとはいえ、用心するに越したことはない」

 君たちを信用していないわけではないが、とそう言うが、むしろ彼が信用しているもののほうが少ないのではないだろうかと思われた。
 そんな男の言葉に勝呂はいえ、と小さく首を横に振る。

「賢明なご判断かと。そこに例のものがあることを、成田さんが確認してらっしゃるのでしたら構いません」
「ああもちろん、君たちを案内する前に一度、中を確認してある。ちゃんと『彼女』はここにいるよ」

 成田、というのがこの男の姓である。「これで名前が『金蔵』とかやったら完璧なのに」と志摩は依頼書を眺めながら呟いていた。何が完璧なのか、勝呂にはいまいちよく理解できていないが、そばで聞いていた仲間は爆笑していたので笑いどころはあったのだろう。

「しかしまさかこれを盗む、と予告してくるものがおろうとはね」

 そんなものは映画の中だけだと思っていたよ、と成田は少し呆れたような顔をして言う。その視線の先には、デスクの上に置かれた一通の封書があった。丁寧に封を切られた中にあったものは一枚のカード。


『某月某日夜 貴殿より“聖母の血涙”を頂きに参ります』


「『怪盗ブルーブランズ』……って、ルパンの見すぎちゃいますかね」

 許可を得て再びその『予告状』を眺めていた志摩がそう口にすれば、「キャッツアイも見とりそうやな」と勝呂が答える。ふたりの青年の無駄口に、「いたずらであってもらいたいものだね」と成田もまた肩を竦めていた。

「ええ、我々もそうであってもらいたいとは思っとります。けれど物が物ですから、そうでなかったときのことも考えなあきません」

 そのために我々が来たんです、と険しい顔をして告げる彼は、正十字騎士團に属する祓魔師であった。人間とは表裏の関係にあたる存在、悪魔たちから人々の暮らしを守ることを生業としており、この度の仕事ももちろんその悪魔に関係があるものだ。
 まるで物語の中に出てくるような予告状にて狙われているもの、それは真っ赤な涙型のルビーである。大きさは親指大ほどのもので、市場価値の点からしてもかなり高額なものだ。思いの強弱はあれど、欲しいと望むものは多いだろう。
 しかしただそれだけで祓魔師が動くはずもなく、実はその宝石は昔高位の悪魔が所持していただとか、あまたの人間の血を吸わせただとかという真偽不確かな曰くつきの石でもあり、いわゆる『呪われたアイテム』なのだ。持つだけで人間の心に影を落としたり、悪魔を引き寄せたりする類のそれらは社会にあるだけで害悪である。そういったものを回収し、清めることもまた祓魔師の仕事ではあるのだが。
 もう一度伺いますけれど、と枕詞をおいて勝呂は成田へ言葉を放つ。

「この石が人間社会にとってあまり良くないものである、ということはお話させてもらった通りです。できれば我々の手で処理をさせていただきたいのですが」
「何度聞かれても答えは変わらない。ようやく手に入れたものなのだ、いくら積まれようと私は手放す気はないよ」

 きっぱりと告げられた返答に、「分かりました、何度も申し訳ない」と勝呂はあっさりと引き下がった。
 このルビーのように、一度ひとの手に渡ったものを回収することは困難を極める。高額であればあるほど、事情を話すだけで譲ってくれるものはほとんどいないからだ。だからせめて所在が明らかになっているものについては、それなりに監視の目を光らせており、その宝石を巡って盗みの予告が果たされたとなっては騎士團としても黙ってはいられない。そこで派遣されたのが、現在日本支部にて若きエースとして注目されている、竜騎士の称号を持つ上一級祓魔師勝呂竜士と、騎士の称号を持つ上二級祓魔師志摩廉造のふたりであった。
 対象となっている赤いルビー、『聖母の血涙』という通称で呼ばれる宝石は、所有者の命を食らって輝きを増すという曰くつきのものである。前の所有者が不慮の事故(という名の悪魔関連の事件)で亡くなってしまったのち、成田が大枚を叩いて手に入れた『彼女』は金庫の中へ厳重に保管されている。実際にその様子を目で確認してはいないが、成田の言葉と、つい先ほど撮影したばかりだというデジタルカメラのデータを信じるしかないだろう。ルビーは金庫内の、何の装飾もない木の小箱に納められているようだ。

「普段よりセキュリティには気を付けているがね」

 予告状を受け取ったのが四日ほど前のこと。成田は騎士團へ連絡を取る傍ら、屋敷のセキュリティシステム強化にも努めたという。

「何せ私の聖母には科学技術が通用しないからね」

 かなり虚無界寄りの気をため込んでしまっているそれには、従来使える発信器のような器具が取り付けられない。設置は可能だが、電波などの信号がすべて遮断されてしまいまるで役に立たなくなってしまうのだとか。
 加え、予告された日まで時間もなかったため、屋敷に行った工事もひどく大ざっぱなセキュリティシステムとなってしまっている。屋敷と内部の部屋の各出入り口にセンサーを取り付け、質量を持つものが出入りすると警報を鳴らせるというものだ。つまり、それを作動させている間は誰であれ何であれ、動くものすべてに反応してしまう、ということである。

「ただ、感度の問題である程度の大きさでないと反応しないというのが問題だがな」

 小さな虫や埃にまで反応されては意味がないため、移動するものの大きさによって判断するようだ。感知できる最小サイズは野球ボールくらいらしい。

「せやったら、『聖母の血涙』自体は自由に出入りできるっちゅーことですやん」

 あの宝石は長い部分で五センチメートルもない。志摩の指摘するとおり、宝石それだけであれば警報を鳴らすことなく通過は可能だ。

「ははっ、まあ、そうですな。しかしそれは宝石に足が生えるか、あるいは誰かが放り投げない限り、あり得ない状況でしょう」

 成田の言葉に祓魔師のふたりがぴくり、と反応を示す。何より、と若者の様子を気にすることなく成田は自慢げに言葉を続けた。

「センサーを設置したのは何もこの部屋だけではない。屋敷内の部屋すべての出入り口に、そして屋敷周辺の塀にも巡らせてある。センサーが動いているうちは私の聖母はどこにもいけない」

 たとえ持ち出す何者かがいたとしても、必ず警報が知らせてくれるだろう。大雑把なセキュリティではあるが、大雑把すぎて逆に身動きがまるで取れなくなるシステムでもあった。しかし悪魔に対してどこまで通じるかは大きな疑問が残る点である。『聖母の血涙』に対して通じないものが、より力の強い悪魔に有用であるとは思えない。ただ依頼主がそれで安心するというのならば、積極的に止める理由を祓魔師たちは持たなかった。
 一般的な常識に照らし合わせれば、まず警察という公的機関への通報があるべきだ。しかし成田はそれをせず、己の力だけでなんとかしようとしている。そもそも「予告状」自体いたずらと捕らえられかねないだとかなんとか、もっともらしい理由を言っていたが、勝呂たちにはあまり関係のない話だ。今回の依頼は「悪魔の手から聖母を守ってもらいたい」というものである。物が物であるだけに、そして前所有者の末路を知っているが故に、成田は予告状の送り主を悪魔だと決めてかかっている節があった。

「……悪魔やったらなおさら、こんな回りくどい手を使うとは思えへんけど」
「そりゃ悪魔だけやあらへんやろ」

 そもそも宝石を盗み出すというのに予告状を送るなど、人間でさえするものはいないだろう。わざわざリスクを増やしているだけなのだから。

「せやから、なんや意図がある、思うべきやな。予告状を送ることによって、犯人側に得となることがあるはずや」
「あー……犯行予告やら犯行声明やらはまあ、目立ちたいやらなんやらありますけどねぇ」
「それが目的なら、警察に通報せんっちゅうのは犯人にとってはおもろないことかもしれんな」

 いずれにしろ、犯人の目的や意図は勝呂たちには関係のないことである。もちろん宝石を守るという点において知っておきたい事柄もあるが、知らずとも問題のない部分もあるものだ。

「窓は……天井のたっかいとこに一つ、ドアは一つだけでセンサー付き。ここを警戒しつつ、金庫見張っとけばまあ、とりあえずは大丈夫、てな感じですかね」

 志摩の言葉にせやな、と勝呂は重々しく頷いた。

「私の聖母は誰にも渡さない。彼女は命よりも大切な存在だ」

 『彼女』が保管されている金庫を撫でながら成田がうっとりとした口調で言う。常に命の危険のある仕事についているものからすれば、「命よりも大切」などと軽々しく口にできる言葉ではないと思うが、価値観はひとそれぞれだ。何よりも自分の命が大切と思うものもあれば、自分よりも大切なひとをもつものだっている。それが物言わぬ鉱石であるひとだっていてもおかしくはないのだろう。それが何かに惑わされているのではなく、彼自身の意志であるならば。

「予告日は明日だ。また明日、よろしく頼むよ、ふたりとも」
 もちろん私も一晩中ここで見張るつもりだ。

 もし仮に本当に悪魔がやってくるのだとすれば、一般人である彼こそ最大の荷物となりそうだったが、さすがに無碍にはできない。顔を見合わせた祓魔師ふたりは「こちらこそよろしゅう頼んます」と依頼主に頭を下げた。


    ***   ***


 暗闇に紛れ、す、と走り抜ける影が一つ、いや二つ。黒いシャツにボトム、黒い靴。ひとりは黒いパーカーをかぶって口元には黒いマスクを。もうひとりも同じく黒いマスクをつけていたが、ゴーグルで顔の上半分を覆っていた。
 音もなく駆け抜けたふたりが足を止めたのは、屋敷南側にある二階テラスの下。壁に身体を寄せて腰を沈め周囲を伺う。ひと気はない。しかし屋敷の使用人を含め、臨時で雇われた警備員が常に周囲を見張りながら歩いているはずだ。ぐずぐずしている時間はない。小さく頷きあったあと、背の高いほうがテラスの真下へ移動した。もうひとりは屋敷から離れた位置へと移動しているが、足音はおろか衣擦れの音すら立てていない。まるで風のように、影のように、ふたりは身体を動かしている。
 テラスの下へと走り寄った細身の男は、もうひとりの男の膝と両手を足場にし、ふわり、と宙へ飛び上がった。着地する先は当然二階のテラスである。
 手早く設置したロープをおろし、もうひとりが登り終えたところでそれを回収して再び息を潜める。二階まで飛び上がる跳躍力も、ロープを素早く上ってくる腕力も、一般的な人間からはかけ離れた運動能力であるが、それを目撃しているものはひとりとしていなかった。ひとの目のない一瞬の隙をついての侵入劇なのである。

 変わらず周囲にひと気がないことを確認して顔を見合わせたあと、ゴーグルをかけた男がそっと屋敷内に通じる窓へ手を伸ばした。力を掛けてみるが当然施錠されており開かない。ゴーグルの男はパーカーの男へ目配せをし、彼は心得たとばかりに小さく頷いた。
 『情報』によれば、出入り口すべてにセンサーが設置されている。今日は朝まですべてを起動させるため、屋敷内の住人ですら自由に部屋の出入りができなくなっているはずだ。テラスの大窓にも当然センサーは設置されており、そこからの侵入はもちろん不可能。足を踏み入れたが最後、警報が鳴り響き、多くの警備員に取り囲まれ何の収穫もないまま逃げ出す羽目になるだろう。
 しかしそれは通常の人間が相手ならば、である。

 パーカーの男が窓の鍵のあるあたりで小さく指を振っている。黒い皮手袋を着用している指がまるでリズムを取るように振られ、その動きに合わせて室内の鍵周辺に異変が起こった。黒い影のようなものがずずず、と現れ、しっかりと施錠されていたクレセント錠に絡まりそれを外してしまったのだ。
 もしこの光景を祓魔師が目撃していれば、集まった黒い影が魍魎と呼ばれる悪魔であること、パーカー男が物体を動かせるほどまでそれらを集め、操ることができる異様な力を持っていると知ることができたであろう。悪魔を呼び出し操ることができるものは祓魔師のなかにもいる。手騎士と呼ばれる彼らであるが、契約すらしていない悪魔を従わせるなど、人間の成し得ることではない。
 そうつまり、全身を黒で覆ったふたりは所謂「人間」という種族から外れたもの、悪魔なのである。

 センサーがどこにあるのかという情報はすでに入手済みであり、ふたりの「力」を使って感知部前面の空間を歪めた一瞬に屋内への侵入を果たす。空間を歪ませるという術は、もともとふたりの悪魔が使えていたものではない。この度の「仕事」のために知り合いから全力で学び、盗み取った術である。まだ修行中であるため歪ませることのできる範囲は狭いが、今の時点では十分であろう。目的の部屋まで、すべてのドアをこの術で抜けていけばいいのだ。こうなると気を付けなければならいのはむしろひとの目のほうである。

「…………だから」
「でも…………」

 廊下のほうからぼそぼそと声が聞こえる。慌てて身を隠した悪魔たちの耳に、ふたりの女性が交わす会話が届いた。

「意味分からないわ。あたしはただのメイドだし、あんたはただの庭師でしょ」

 不機嫌そうにそう言っているのは、白いエプロンを纏った使用人だった。艶やかな黒髪を頭の上で丸く纏めている。廊下に立つ彼女の相手をしているのは、どうやら別の部屋にいるらしい。ちらりと覗いただけでは見えなかったが、庭師であるらしい女性はどこかおっとりとした話し方をしている。しょうがないよ、と庭師の女性はメイドの女性を宥めるように言った。

「こんな状況だし、起きて見張ってるひとはひとりでも多いほうがいいから」

 センサーが起動しているため、彼女たちも部屋の出入りが自由にできない。しても良いがそうすると警報が鳴り響いてしまうだろう。だから扉を開けたまま廊下と室内とに身を置いて話をしているようだ。
 悪魔たちが目指す部屋は幸いなことに彼女たちが見ている方とは逆にある。おしゃべりに夢中になっているらしいふたりの女性を背に、悪魔は音もなく廊下を駆けていった。


    **


 こんこん、と室内に響くノックの音に三人の男が同時に視線を向けた。誰だ、と誰何したのは、主である成田だ。

「あ、あの、お茶をお持ちしたのですが……」

 返ってきたのはハスキーだが、か細い声。勝呂の合図で志摩がドアを開けば、廊下にはティーセットが乗ったトレイを持つ使用人がひとり、立っていた。黒いロングスカートに白いエプロンと、古典的なメイド服を纏っている。今時こんなメイドを雇っているだなんて、メイド喫茶か、某支部長の屋敷くらいだと勝呂は思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
 女性にしては背が高い、ような気もする。百七十を越す志摩とあまり変わらない背丈だが細身で、髪は黒くショートボブ、いやに頬の白いメイドだった。俯きがちであるため、顔の表情ははっきりと見て取れない。

「一晩中こちらで見張られると伺っております。何かお飲物があったほうが良いかと思いまして」

 ご不要でしたら下がりますが、ということは、成田の指示でやってきたわけではないらしい。メイドの言葉を聞いて「ああ、そうだな」と少しだけ考え込んだ成田は、手元にある小さなタブレットに視線を落とす。屋敷各所に設置されたカメラから送られてくる映像をすべて確認することができるそれはまた、扉や窓のセンサーの起動と解除ができる操作パネルでもあるのだ。今現在すべてのセンサーが稼働中であるため、もちろんメイドが入ろうとすれば警報が鳴り響く。ティーセットの乗った盆だけを差し出したところで、大きさがあるためやはりアウトだ。
 予告状に記されていたのは日付と夜というざっくりとした区切りだけであり、具体的な時間はなかった。もしかしたら明け方かもしれず、あるいは丑三つ時かもしれない。メイドの言葉どおり少しくらいは気を休める時間も必要だろう。

「センサーを解除する、入れ」

 端的な指示にメイドが従ってすぐに、成田はまたセンサーを起動させた。各センサー個別の操作が可能であり、もしどうしても部屋を移動しなければならない用ができた場合は、内線で成田のもとへ連絡をする手はずになっている。そこでカメラを確認しながらセンサーを解除し、またすぐに起動させるのだそうだ。要するに、屋敷内での人間の動きはすべて彼に管理されている状態である。
 すべてのセンサーを起動させたままというのは、防犯面では安全かもしれないが、生活面ではかなり不便だ。そう考えていたところでふと、勝呂の脳内に引っかかるものがあった。

「……ちょい待ち。せやったら厨房からどうやってそのお茶を持ってこれたんや、あんた」

 廊下からこの部屋に入る際にもセンサーを解除する必要があったのだ。厨房から廊下へ持ち出す際もその必要があったはず。しかしそういった連絡は成田のほうに入っていないのだ。
 だとすれば、このティーセットは一体どこから現れたというのか。
 そんな祓魔師の疑問に、メイドは「事前に廊下に用意しておりました」とあっさり答えた。主が夜通し見張りを行うこと、センサーがセットされることは屋敷の使用人ならば皆把握していることである。頃合いを見計らってお茶を差し入れるために、センサー起動前に廊下に準備をしていたそうである。

「角田さんよりそうするよう、お夕食のあとに言われましたので」

 成田に確認を取れば、角田というのはこの屋敷のメイドを束ねる女性だそうである。家庭を持つ身であるため七時過ぎには帰ってしまうが、ずいぶん前から働いてもらっている信頼のおける人物だと成田は説明した。

「旦那さまのお姿が見える場所ならば、センサーを解除していただけるだろうから、と。午前二時に軽食を、午前四時にもう一度お飲み物をお持ちする用意はしております」

 流れるような口調でそう説明した使用人は、トレイを持ったまま扉付近に下がった。カップを回収して戻るつもりなのだろう。折角出されたものだ、口をつけないままというのも失礼にあたりそうで、長い夜を戦うためにもそれぞれカップを手に取る。

「ほんまに来ますかね?」

 右腕からの質問に勝呂は「どうやろうな」と眉間に皺をよせたまま答えた。

「ただのいたずらかも知れん。それにしちゃ、狙うもんが悪すぎるが」
「ああ、ですねぇ。やっぱりアレが何か、知っとるってことですか」
「その可能性は高いやろうな」

 確かに宝石としての価値はあるだろうが、勝呂や志摩のように祓魔の業界に身を置いているもの、あるいは成田のように収集家のネットワークを持つものの間ではその手のものは有名だ。持ち主に不幸をもたらすものも少なくないというのに、どうしてだか皆手にしたがる。それ故に「呪われた」と言われているのかもしれない。

「ブルーブランズって何やと思います?」
「……知らんわ、んなもん」

 それは予告状の最後に記されていた怪盗の名前だ。何らかの意図があるのか、響きだけなのか。あんなふざけたものを書く人物の心など、勝呂にはまるで理解できない。しかし志摩はどうも気になるようで、「ブルー、青……ブランズ……?」と首を傾げている。

「ブランズってなんやろ……ブランコの複数形?」
「何でやねん。ブランドの複数形やろ」
「え、青いブランド? ブランドってあれですか、バーバリーとかアルマーニとか……バーバリーならブルーレーベルってなかったですっけ」
「知らんわ。つか関係あらへんやろ」
「ブランドってほか、なんか意味あります?」
「あ? あー……種類とか……」

 英語も分からないわけではないが、日常会話程度である。ニュアンスで理解しているものも多いため、具体的に日本語で説明をしろといわれても咄嗟には出てこない。「坊、見張っといてくださいね」と志摩に言われたため金庫から目を離さずにいれば、スマートフォンを取り出した彼が何やら調べ始めてしまった。相当暇らしい。

「んー……燃えさし、焼き印、商標、えーっと、品質銘柄、種類、焼き印」
「それ、さっきゆうた」
「家畜に押すようなやつと、あと昔罪人に押してた焼き印もブランドいうみたいですね」
「ああ、焼き印っちゅうか、らく、い……」

 言葉尻が不自然に途切れガシャン、と陶器が床にぶつかる音が辺りに響いた。続いてどさり、と重たい身体が落ちる音が重なる。同じような音がもう二か所からも響き、途端に室内に静寂が訪れた。
 からん、からん、と割れずに転がるカップをそっと手に取るものがひとり。それを持ち込んだメイドである。宝石のような青い目を細めてふふ、と小さく笑ったあと、カップを手に持ったまま部屋の出入り口を開けた。するり、と室内に入り込むのはゴーグルをかけたあの悪魔だ。
 床に転がる祓魔師ふたりを避けて進む彼は、真っ直ぐに金庫の元へと歩み寄る。本来なら主である成田しか知りえない鍵番号であったが、ゴーグルの悪魔は迷う素振りも見せずに取り出した鍵を差し込みダイヤルを回した。かちかちかち、と小さな音だけが室内に響く。
 悪魔としての力を使えば金庫をこじ開ける、ということもあるいは可能かもしれない。しかし、余計なことをせずにこれを開ける手があるならば、それを使うべきだろう。開かなかった場合に強硬手段を取れば良い。
 そう考えていた悪魔だったが、幸いにも力に訴える必要はなさそうである。かちり、と手ごたえがあり、鍵が回った。静かに開かれたその内側には、写真で見たとおりの地味な小箱が鎮座している。
 小箱ごと手に取る、という愚行はしない。用があるのはその中身だけだ。木の蓋をあけ、小さな宝石を取り出した瞬間。

「そこまでや」

 ごり、とこめかみに押し当てられた感触。銃口だ。続いた音は銃のセーフティを外したものだろう。ゴーグルの奥、碧に似た青の瞳を軽く見開いた悪魔は、どうやら驚いているようだった。

「石を置け」

 低い声に端的な命令。従わざるを得ない響きを持っているのは、彼の特性なのかもしれない。こめかみを抉るよう更に圧をかけられ、悪魔は大人しく石を置いて両手を挙げた。下がれ、と続けられた言葉にも素直に従い、一歩金庫から離れる。眼球だけ動かして室内の状況を確認すれば、わずかな間に形勢は逆転してしまっていた。お茶を運んだメイドが床に沈んでおり、倒れていたほかふたりが身体を起こしている。戦うことのできない成田は邪魔にならぬよう隅に避けているが、もうひとりの祓魔師は錫杖を構えて悪魔を睨んでいた。
 ちっ、と小さな舌打ちを一つ。

「差し入れのお茶は舌に合わなかったみたいですね」

 悪魔の言葉に「グルメなんや、俺ら」と勝呂が軽口を返した。志摩もまた「日頃、美味いもん食わしてもろうとるしなぁ」と喉を震わせて笑う。
 お茶のなかに何が混入されていたのか、勝呂たちには分かっていない。それでも何かが入れられているだろうことはタイミングを考えれば明白であり、口をつけるはずもなかった。そうなるとお茶を持って来たメイドも怪しい、とすぐに行き当たる。

「わざわざ『ブランズ』なんて複数形にしよるからな。単独犯やないことはすぐに分かったわ」

 少なくともふたりはいるだろう。そう睨んだため、メイドが仲間を引きいれるまで待っていたのだ。

「大人しゅう観念しや。日本支部に連行させてもら、ッ!?」

 ひゅ、と空を切って飛んできたものが何であるのか、咄嗟には分からなかった。反射的に身を翻してそれを叩き落とすが、勝呂の銃口から逃れることのできた一瞬を悪魔は見逃さない。

「ッ、お前……っ」

 完全にゴーグルの悪魔のほうに意識を向けており、床に伏していたメイドはほとんどノーマークに近かった。意識が戻ったのか、あるいは勝呂たちのように気絶した振りでしかなかったのか。慌ててメイドが倒れていたほうを見やったが、既にそこに姿はない。
 次いでガッシャン、という大きな音が室内に響き、皆の視線はゴーグルの悪魔へと戻った。ぱらぱらと頭上から降り注ぐガラスの破片、どうやら天窓が割れたらしい。扉以外では唯一の出入り口であるそこからロープが伸び、その先端は当然のように悪魔が握っている。いつの間に移動したのか、スカートをひらひらと舞わせるメイドの腰を彼はぐい、と抱き込んだ。

「ひとまず、今日のところはお暇させてもらうことにしましょう」

 そう言った悪魔はゴーグルの奥で不敵に笑み、するするとロープを上っていってしまった。メイド服を纏っているもうひとり(それはもちろんともに侵入した悪魔だ)も、同じように腕の力だけで素早く天窓付近まで到達する。舌打ちを零した勝呂は銃口を向けてガウン、と発砲してみるが、残念ながら窓枠に当っただけで悪魔には掠りさえしなかった。

「……なんや、マジでルパンと不二子ちゃんみたいやん」

 隣まで歩み寄ってきた志摩がぼそりとそう呟くのが聞こえ、「いらんこと言わんでええわ」と苛立ち紛れにその頭をすぺん、と殴っておいた。




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2016.07.19