A master of my own・1 すまない少年、と眉を下げ、申し訳なさそうな顔をする男を前に、珍しい光景を見ているのではないだろうか、と青い瞳を持つ少年はどこか呆然とそんなことを考えていた。 発端がそもそも、レオナルドにはまるで関係のない事柄だ。 いや、ライブラの副官であるスティーブンの行うことは、ひいては結社のためのもの。曲がりなりにもそこに属する少年に、一ミリも関係ないかと言われたらそうとも言い切れないのかもしれない。けれどその件においてはレオナルドの持つ能力が必要であったわけでもなく、また血界の眷属絡みというわけでもない(そうである)。結社全体に話を通すまでいかず、副官が様々な思惑を以て単独で行動をしていたことに由来する。 話を聞いたときは正直半信半疑であったが、実際にこうして捕らわれてしまえばなるほど、男の考えは用心深すぎるものでは決してなかった。むしろ聞いていた上で捕まってしまっているレオナルドのほうが不用心だった、と言わざるを得ない。 ぎっちりと身体を拘束する縄は、どちらかといえば細いほうであろう。けれどイスに座らされた状態で背もたれにぐるぐると上体を縛られ、両足首もそれぞれイスの足に縛られている状態で、さほど力があるわけでもないレオナルドにできる抵抗といえば、がたがたとイスを揺らす程度。猿ぐつわをかまされているため、口から零れているのは意味をなさない唸り声だけ。スウェットの上下はあちこちが裂けており、ゴーグルもスニーカーもどこかでなくしてしまっているため、石床の冷たさが素足に堪える。 あまり暴れて無駄に体力を消耗してもなぁ、と己を捕らえた犯人を前に呑気に考えていられるのも、こうなる可能性を事前に聞いていたからだろう。正直彼女が前に現れるまではこれがそうなのか判断しかねていたのだが、その口から我らが副官の名前が出てきたため瞬時に状況を理解できた。 「あら、思っていたより子どもなのね?」 こつり、とヒールの音を響かせて現れた女は、一見はとても普通のひと、であった。緩やかなウェーブのかかったセミロングの髪、サイドを拾って後頭部のあたりにバレッタでとめている。愛しい妹が好んでする髪型によく似ている。袖口と襟元がレースとリボンで飾られた白いブラウスを纏い、柔らかなクリーム色のロングスカート。どちらかといえば清楚でおしとやかそうに見える女性だ。化粧だって決して派手ではなく、爪も綺麗に整えてはいるがマニキュアをつけている様子もない。 こんな状況でさえなければ、「綺麗なお姉さんだなぁ」くらいは思ったかもしれない、と考えたのも一瞬のこと。ロングスカートを軽くたくしあげ、惜しげもなく晒された太股に装着されたナイフを取った彼女は、その切っ先をレオナルドへと向けた。武器を携帯していること、それを取り出す動作に淀みがまるでないこと、そして喉元に突きつけることに戸惑いが見えないこと。それらはつまり、この状況が彼女にとって日常であるということを物語っていた。 ちくり、と肌に触れるそれに背筋が震える。 「ねえ坊や。あなたは、どうしてこんなことになっているのか、状況を理解できていて?」 坊や、と呼びかけられるような年ではないのだが、彼女からすればレオナルドは十分「坊や」と呼ばれる範疇なのだろう。口をふさがれていて良かった、うっかり思ったことをそのまま吐き出していれば、気を悪くした女の凶器がのどに突き刺さっていたかもしれない。本当のところ彼女の年齢がいくつなのかは分からないが、少なくともレオナルドよりはずっと年上だと思われた。 イスに縛られた少年がそんなことを考えているなど知りもしない女は、口元に笑みを浮かべたままナイフを上向かせる。掬われるように顎をあげたレオナルドを、灰色がかった青い瞳が見下ろしていた。 「スティーブン・A・スターフェイズ。もちろん知っているでしょう?」 こういった状況の場合、まず知りたいのは犯人側の目的である。レオナルドが目指すべき事柄は、できるだけダメージを受けずにこの場から逃げ出すこと、だ。最悪四肢の一部を欠損したとしても、命さえあればどうとでもなる。うまくすればちぎれた一部だってつなぎ合わせてもらえるかもしれないのだ。 彼女がレオナルドをどうしたいのか、レオナルドを使って何をしたいのか。そこを見極めなければ取るべき言動を選択できない。そして捕らえた理由や動機は目的を知るためにも欲しい情報である。 その動機にレオナルドの上司であり、皆には内緒で(ということにしている、一応、念のために)おつきあいをしている恋人が関わっているという点は理解した。というよりも、ここ最近こなした仕事を考え、相手がレオナルドと知って捕まえたらしいこと、そして女性であったことをからたぶんそうだろうな、となんとなく分かってはいた。 (スティーブンさん、ひっかける相手、もうちょっと考えましょうよ……) 「わたしはね、どうしても彼が欲しいの」と語る女性を前に思わずそんなことを考えてしまうが、脳味噌が下半身に直結している某先輩ではあるまいし、あの男のことだ、考えた上でのことだったのだろうと分かっている。 「少し話をして分かったわ、あのひとはわたしと同じ。こちら側にいる人間だって」 夢見る乙女並の電波妄想かと思っていたが、どうにも語る内容が血なまぐさい。そしてスティーブン・A・スターフェイズという男を、彼がどういうことをしているのかを知っているようでもある。 「彼は何も大切にできない、何も愛せない、誰からも愛されない、そういうひと」 わたしと同じ、と女は笑う。 こんなことをしてまでスティーブンを手に入れようとしているのだから、彼女は彼を「愛して」いるのではないだろうか。あなたは何も愛せないというわけではない、と反論したかったが、きっと違うのだろうなと思い直す。彼女のそれは愛ではない、ただの執着だ。それはあるいは愛よりもたちが悪いのかもしれない。 女の持つナイフの切っ先がするり、と頬を滑った。口に含まされた布と肌の隙間に冷たい金属がねじ込まれ、ぴん、と軽くはじかれる。頬にぴりりとした痛みを覚えると同時に、口内を塞ぐ力が弱まった。唾液を含んだそれを吐き出し、自由な呼吸を取り戻す。けほ、と小さくせき込むレオナルドを見下ろしたまま、「彼、素敵なひとよね」と女は微笑んで言った。しかし、その声音に張り付く感情は恋慕でも親愛でもない。何の色も見て取れない口調にぞっとしたものを覚える。 「だからきっと、わたしと同じところまで落ちてこれるんじゃないかと思って」 彼女がどのような場所にいるのかは分からない。レオナルドのいる場所より下にいるのだろうか。奥にいるのだろうか、深くにいるのだろうか。 いずれにしろ、「生きている」という点では変わりないのに、と思うのだけれど。 あなた、と呼びかけられ、レオナルドは視線を上げた。 女の表情から、その感情は読みとれない。同情、憐憫、嘲笑、優越、そのどれも抱いているようで、どれも違うような気がする。 「本当に、まだ子どもじゃない」 すぅ、と瞳を細め、そう呟きを零した。彼女の目に自分はいったいいくつに見えているのだろう。もともと童顔ではあるけれど、思った通りに成長してくれなかった身体のせいで、レオナルドは実年齢通りに見られた試しがなかった。 ちゃんと考えたほうがいいわよ、と女は言う。 「ここを生きて出ることができたら、まだ長い人生が続くのかもしれないんだから」 続く、とは言い切れないのがこのヘルサレムズ・ロットである。それを知っているからこそ、女は「かもしれない」と推測で語るのだろう。 考えたほうがいいわよ、と彼女は繰り返した。 「心を捧げる相手を」 間違えたらわたしのように、捧げる心をなくしちゃうから。 何も知らないものが聞けばそれは、ただの比喩だと思うだろう。けれど、レオナルドには、事前に彼女がどういう存在かを聞いており、またすべてを見通す眼球を持つ少年には、それが決して言葉のあやではないと分かってしまった。彼女には、呪術がかけられている。具体的にどのような効果をもたらしているのかまでは分からないが、こうしてレオナルドが捕らわれているのも、またスティーブンが彼女へ近づいたのもその術があるためだ。 可哀想に、と思うことは彼女に対し、失礼だろうか。 くつり、とのどを震わせ、レオナルドは笑う。あまりこういうことは好きではないが、はっきりと感じ取ってもらえるよう、分かりやすく嘲笑を浮かべてみせた。 スティーブン・A・スターフェイズ。 レオナルドを抱きしめ、愛している、と耳元で囁いてくれる男のために。 2へ→ ↑トップへ 2016.07.20
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