A master of my own・2 「何を、言ってるんです?」 捕らわれて初めて口を開いた少年、先ほどまでは脅えを見せていたはずなのに、今やその影はどこにもない。身体の自由を奪われていながらも、平然と笑みを浮かべ、子どもは言う。 彼のほうですよ、と。 「……どういう、意味?」 女は怪訝そうに目を細め、捕らわれたままの少年を見下ろした。現状を鑑みれば、絶対的強者の立場にあるのは彼女のほうだ。何せナイフを突きつけられている少年は、文字通り手も足も出せない。けれどそれを理解した上で、彼はその口を開く。 「捧げているのは。僕ではなく、あのひとのほう」 彼、あのひと。 ふたりの会話のなかでそれらが指す人物はひとりしかいない。 よりいっそう言葉の意味がとれず、女が眉間にしわを寄せたところで。 ぴしり、と。 「ッ!?」 空気の凍る、音がした。 これは比喩でもたとえでもない。実際に、彼女の足下から氷が這い上がってきているのだ。こつり、と石床を踏む足音が背後から聞こえる。 女の背中を押すそれは、冷えた空気と殺気。命のやりとりを日常的にしているものならばすぐに悟るであろう、己の生はここまでだ、と。あるいはこの殺気を受けて生きていること自体に疑問を覚えさえするかもしれない。 男の登場に驚きは覚えない。こうなることを予測し、いや、期待して彼女は少年を捕らえたのだ。目的の第一段階を達成できた、と喜んでもいいくらいである。もちろん、自分の命と引き替えに成したいことがある、など下らないことは考えていない。目的達成は己が生きていてこそ、だ。 男の技で彼女が命を落とす可能性はほぼゼロに近い。そのことを彼女は知っており、そしておそらく今現れた男も理解しているはずだった。 ただ、「死ぬことはない」というだけで技が効かないわけではない。凍った両足は、彼女の力ではびくともしなかった。凍傷になったらつらいだろうか、あるいはこのまま放置されたら飢えや乾きに苦しめられるのかもしれない。彼女がつらい、苦しい、と思えるほど男の技は効果が続くのだろうか。 そんなことを考えていれば、「駄目ですよ」という声が鼓膜を震わせた。 のんびりとした口調、穏やかな声音。 「女のひとには優しくしないと」 言葉を発したのは、イスに縛られたままの小柄な少年。ふわりと笑みを浮かべる彼の視線は彼女を通り越し、その背後へ向いている。そこで今にも女に牙を突き立てようとしている獣へ話しかけているのだ。この場で紡ぐにしても、現れた男へのものだとしても、ひどく場違いなそれ。 「……今この場で、性別に何の意味がある?」 獣が低く、乾いた声で答えた。慈悲の欠片もない音。不要なものを排除するために、相手が何であろうと戸惑いなく氷を繰り出すだろうことが分かる。 女は彼のそういった面を見たことはなかったが、残忍な性を隠し持っていることは知っていた。だからこそ、欲しいと思ったのだ。そういう男をそばに置いておきたかった。 そのために、男のもっとも近くにいるだろう弱者をターゲットに行動を起こした。思惑通りにことが運んでいる、そのはずなのに、どこかに違和感がある。何かが引っかかる。両手をあげて楽観視できないと感じているのに、その理由が彼女にはまだ掴めていなかった。 こつり、足音がひとつ、室内に響く。 突き刺さる冷気と殺気がより強く、深くなった。 彼の使う技で、自分が死ぬことはない。 なぜなら、この身体には呪いがかかっているから。 心を失うかわりに、いかなる攻撃をも彼女の身体を傷つけることはない。退屈の海に溺れることで、彼女はここまで生きながらえてきた。そういう呪いだ。呪いをとく鍵はあるが、そう簡単にとけないからこそ呪いとして意味がある。 彼に自分は殺せない。しかしだからといって、このまま無事では済まないだろう。 この場合、どう行動すれば一番己の望み通りの形を取ることができるのか。少年の命一つで男がこちらに下る、とは考えられない。だとすれば彼が現れた時点で餌として捕まえたものは用済みだ。さっさと始末してしまったほうがいいのだろうか。 そんなことを考えていた女の耳に、するり、と流れ込んできた声。 「スティーヴィー」 聞き慣れぬそれ。 聞いたことがないわけではない。 けれど、今この場でどうして紡がれるのかが分からない。 氷の男と称される彼の名の、愛称。 それはまるで、聞かん坊の子どもに言い聞かせるかのように。 むずがる赤子をあやすかのように。 強さと甘さと優しさを兼ね備えた、呼びかけ。 「そんなことより、しなきゃいけないことがあるでしょう?」 ゆっくりとした口調の言葉に、ぱちん、とまるで糸が切れたかのように女の背中を圧迫していた冷気と殺気が消えた。足を捕らえる氷はそのままだったが、呼吸が少し楽になったような気がする。 はっ、と息を吐き出した女の横を、かつり、と足音を立てて通り過ぎる長身の男。 紛れもなく女が欲した唯一の男、秘密結社ライブラの副官、スティーブン・A・スターフェイズ、そのひとだ。 スティーブンは、女の存在などまるで眼中にない様子でかつかつと少年の元へと歩み寄った。胴体と両足を拘束していたロープを切ったのはナイフか、彼の氷かは分からない。はらりと落ちたロープに視線を向けることなく、男は自由になった少年の前で膝を折り、頭を垂れる。 ひどく自然な動作。 予想外の光景に、ひゅ、と女ののどが小さく鳴った。 彼女の知る男、スティーブン・A・スターフェイズは、必要とあらばたいていのことはやってのける人物だ。目的を達成するため、他人を前に跪くことだってするかもしれない。けれども。 捕らわれる際靴を失くし、素足のままだった少年の左足を恭しく取り、その甲へそっとキスを落とす。自分よりもずっと年上のはずである男のその仕草をさも当然であるかのように受け止め、少年は口元を歪めて手を伸ばした。 くしゃり、と指を差し込むは、スティーブンの癖のある髪の毛の間。優しく頭を撫でたあと、少年の細い指先が肌に刻まれた傷をなぞる。顎の下をくすぐるように撫でた指に掬われるよう、男が顔を上げた。 わずかに顰められる灰赤の瞳。スティーブンの視線から何を見たのか気がついたのだろう、少年がああ、と小さく頷いたようだった。 「さっき少し、ね」 おそらくは頬の傷のことだ。猿ぐつわを解く際のナイフで、皮膚が切れ血を滲ませている。 険しい表情をしている男を見下ろしその顎に手を添えたまま、少年はつぅ、と親指を動かした。引き結ばれた男の唇をそっと撫でる。指の腹を押しつけられ、彼は素直に唇を開いて少年の親指を口内へ招き入れた。 「消毒を」 紡がれた一言に、スティーブンがわずかに顎を引いてみせる。おそらくは頷いたのであろう。するり、と男の口から指を抜けば、唾液が短く糸を引いた。 無言のまま両膝を石床につき、両腕を背後で組む。腹筋と背筋だけで上体を傾けたまま支え、男はその顔を少年へと寄せた。一見すると不自然な体勢だ。しかし女は気がついた。気がついてしまった。 彼は許されていないのだ。 少年に触れることを。 彼のほうから手を伸ばすことを、足へのキス以外では許されて、いない。 ぞくり、と久しく覚えていなかった何かが、女の背中を這い上がる。 言葉を発することもできない彼女の前で、スティーブンがうっすらと口を開いた。伸びる赤い舌、べろり、と大人の男の大きな舌が、少年の円やかな頬をなぞる。ふふ、と小さく少年が笑った気配がした。 青白い光が男の鼻筋を照らす。 光を放つは、少年の瞳。 氷の男の頭を撫でる手つき、指先。 うっとりと細められた瞳、緩む口元。 幼さを残した容姿だからこそだろう、少年のその姿は脳を揺さぶられるほどの危うい色香を纏っていた。 こくり、と女ののどが動く。視線をそらせない、見開いたまま、ただふたりのやりとりを見るしか彼女にはできなかった。 少年は微笑んだまま男の耳元へ唇を寄せる。 「Good boy」 ただ一言。 よくある言葉であるはずなのに少年が口にしたそれは、男を悦ばせる術を身につけた娼婦にも劣らぬほどの艶めかしさを以て響いた。少年の、色を湛えた瞳がちらりとこちらに流される。 ぱきん、と。 何かが壊れる音が聞こえたのは空耳だろうか。 彼女の耳はもはや、「良い子ですね、」と、少年が紡ぐ声しか聞いていない。 「 少年の光る瞳が細められ、その視線に女はびくり、と身体を強ばらた。 「ッ、ア……ッ!?」 そこでようやく彼女は異変に気がつく。氷が這い上ってきているのだ。足下の自由を奪うだけだったそれが、腰から胸へと覆うように広がっている。 いや、たとえ全身を氷で覆われたところで彼女の身体に傷がつくことは。 そう思ったところでひゅん、と彼女の頬を掠めるように何かが空を切った。痛みを、覚える。それはおそらく少年が傷を負った箇所と同じ。ぴりりとした感触、深い傷では、ない。血が滲む程度の浅い、傷。けれど、彼女にとってはあり得ないはずの、負傷。 なぜ、と疑問は言葉にならなかった。その前にこつり、と革靴が石床を叩く音が響いたからだ。慌てて視線を前に戻せば、いつの間に身体を起こしていたのか、スラックスのポケットに両手を入れたままそこに立つ男の姿があった。こつり、わざと音を響かせるよう、彼は一歩、足を踏み出す。 「君にかかっていた呪術はもう、役に立っていない」 そう、鍵はあったのだ。その呪術をとくための方法は。 けれどそれがなされるとは思っておらず、今後ずっとこの呪いとともに生きるのだ、と彼女は諦めてすらいた。 それが、いつの間にか。 この男の計略によって。 あるいは少年の手管によって。 女を守ってくれていた鎧ははぎ取られてしまっていたらしい。 息を呑むほどの美しさと妖艶さを放っていた少年の姿は、男の影に隠れてよく見えなくなっている。彼はわざとその位置に立っているのだろう。女の視界から少年を隠すために、少年の前から女の存在を排除するために。 ふふふ、と女は笑う。 欲しかった、呪いとともに生きるのなら、この男も道連れにしたかった。 けれどどうやらそれは叶わないらしい。 「……ようやく、わたしも死ねるのかしら」 小さく紡いだ言葉に、慈悲のない男は答える、「まさか。」 「君の知っていることをすべて教えてくれたら、死んでもいいよ」 かつり、とつま先で床を蹴ったことが合図だったのだろう。女の背後に現れた人物、おそらくは五人。男の部下であるのだろう彼らへ、「いつものように」とだけ放つ。その姿はやはり支配者のそれで、命令を放つ姿こそ彼に似合いのものだと思う。 こんな男がまさか、自分より十は下であろう少年に跪き、その足にキスをしているだなんて。 許しを得なければ、小さな頬に指を伸ばすことすらできないだなんて。 ぞくり、と女の背中を這い上がるものは、恐怖、そして興奮。 けれどそれがどちらへのものなのか、冷気を放つ男に対するものなのかそれとも、青い光を纏う少年に対するものなのか、彼女には分からない。 ふふふ、と笑う女は、スティーブン率いる部隊の面々に連れられ、闇へと消えていった。 ←1へ・3へ→ ↑トップへ 2016.07.20
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