溶けない感情・1


 ものすごく困った顔をしているね、と正面に座る男が面白そうに笑って言った。頬骨が上がり、目元が緩む、その小さな表情の変化さえひとの視線を奪っていく、レオナルドの前にいる男はそういうタイプの人間であった。

「……そりゃ困りもしますよ」

 眉を八の字に下げた少年は唇を尖らせて不満を表す。そうして彼が視線を向ける先は、いつもより質の良い服を纏った己の身体だった。肌触りの良いシャツとスラックス、まだ足に馴染んでいない革靴、蝶ネクタイはさすがに固辞したが、代わりにとでもいうかのように喉元にはリボンタイが揺れている。頭の上から足の先まで男の好みで仕立てられた服を纏い、レオナルドはどうしてこんなことに、と大きくため息をついた。
 もともとはちょっとした賭事だったのだ。勝ったほうが負けたほうのいうことを何でも一つ聞く、という。多少(というレベルではなかったかもしれないが)のアルコールが入っていたときで、レオナルドははいはい、とその賭に乗り、見事に負けた。今思えば、最初からこの男、スティーブンの手のひらの上で転がされていただけなのかもしれない。
 男に二言はないとばかりに、どんなことでも聞きます、と胸を叩けば、スティーブンが口にした願いは、「デートにつきあってほしい」というもので。

「……それくらいなら、その、別に、普通に言ってくれたら、全然つきあいますけど……」

 もちろん互いの都合が合えば、ではあるが、何せ信じられないことに、ライブラの副官であるスティーブンと、ひょんなことから結社入りした少年レオナルドは一応「恋人」という関係であるのだ。デートならば今までだって普通にしてきた。わざわざ「景品」として望まれる必要性が感じられない。
 首を傾げたレオナルドを前に、男は楽しそうに笑って言うのだ、「うんだから、今から服を買いに行こうか。」
 スティーブンにつれられて彼の行きつけだという店で、何から何まで買い与えられてしまった。常ならば受け取らないものなのだけれど、「何でもいうことを聞いてくれるんだよね」と言われては着替えないわけにはいかなかったのだ。そうして男好みに仕上げられた状態で、次に向かう先は洒落たレストラン。今日のディナーはここで取るらしい。そこまで格式張っている様子はないが、それでも普段のレオナルドならば足も踏み入れられないような建物だ。与えられた服一式と、スティーブンのエスコートがあるからこそ、今こうして、なんとかテーブルにつけている。それでも雰囲気に押されしまっているのだけれども。
 もぞもぞと落ち着かない様子の少年を前に、恋人はひどく満足そうな笑みを浮かべていた。

「だって、君、僕から物を受け取るの、嫌がるだろう?」

 年の差とその立場の違いがあるのだ。物や金を対価につきあっているわけでもないのだから、プレゼントくらい受け取ってくれたらいいのに、というのが恋人の言い分である。だからこそ逆に受け取れない、というのがレオナルドの言い分だ。人間、誰にだって身の丈というものがある。バーガーやサブウェイを奢ってもらうくらいならまだ良いが、いつもレオナルドが着ているものよりゼロが二つも多い値段の服を何の理由もなく渡され、素直に喜べるほど脳天気な神経はしていない。
 そりゃまあ、と俯いてごにょごにょと言葉を濁らせる少年へ、男は苦笑を浮かべて肩を竦めた。レオナルドの心情を理解できなくもないからこそ、彼は普段無理強いをすることはなく、押しつけてくることもない。選んだ手段が賭の報酬(しかも勝ったのはスティーブンだ)というのが、なんとも彼らしい。ここで頑なに拒否をするのはさすがに申し訳なく、またレオナルドとて、プレゼントを渡されることが嬉しくないわけではないのだ。

「……すみません。ありがたく頂きます。っていっても、着る機会なんてスティーブンさんとご飯食べに行くときくらいでしょうけど」

 このようなフォーマルな服を着て出かける場所とは、基本的に縁のない生活を送っている。せっかくもらったとしても、日の目を見る回数は少なそうだ。
 残念そうに口にすれば、「それでいいんだよ」と男は右手を伸ばしてレオナルドの頬に触れた。

「僕の前で着てくれたら一番嬉しい」

 よく似合ってるよ、と見ほれるほどの笑みを浮かべて告げられ、体温が一度か二度、上がってしまったような気がする。とろりと色気の溢れた視線を受け止めきることなどできず、頬を真っ赤に染めて俯いた。ありがとうございます、という謝辞は彼の耳に届いただろうか。
 食事の間に交わす会話、向けられる視線。デート相手をエスコートするのに完璧な仕草を彼は身につけている。そう振る舞えるよう意識しているのかは分からないが、スティーブンの男としての技量に気がつくたび、レオナルドは居心地の悪さを覚えざるを得なかった。

「やっぱりなんか、申し訳ないですよね」

 顔の作りもスタイルも申し分ない男だ。その手管を披露するのであれば、柔らかなボディを持つ女性が相手であるべきだろう。レオナルドのような男に対して発揮する能力ではないはずなのだ。
 もったいないな、とそう思う。
 自分のようなものを相手にそこまで完璧なエスコートをする必要はないのに、と。
 そんな感想を漏らすレオナルドを前に、スティーブンはきょとんとしたような表情をしたあと、眉を下げて苦笑を浮かべた。

「相手が君だからこそ、なんだけどな」

 レオナルドが相手でなければ、こんなことはしない、と。
 甘い言葉に、心臓を羽毛で撫でられたかのような心地がする。少しだけ唇を噛み、意識して頬を持ち上げ、恋人と視線を合わせて「嬉しいです」と笑った。ふと、心の中に浮かんだ言葉は口には出さない。表情にも出さない。出ていなければいいけれど。
 うそつき、だなんてやはり言われて気持ちの良い言葉ではないだろうから。
 誰にでも、と思っているわけではない。けれど彼は必要があれば、甘い顔も言葉も道具のように使えるタイプだと知っている。だからどうしても自惚れることができないのだ。恋人の言葉を信じきることが、できない。
 好かれていない、わけではないだろう。義眼を逃がさないため、でもない。もしそれだけが目的だとすれば、スティーブンならもっと違う手を取る。こんな回りくどく、手間のかかることはしない。だから何か違う目的があるのか、あるいは単純に毛色の違うものに手を出してみているだけなのか。
 それなりに大事にされているとは思う。愛されてもいるのだろう。
 けれど与えてもらえるその気持ちを、すべて信じて受け入れることができない。そうしたい、そうできたらどれほど幸せだろうとは思うのだけれど、レオナルドの未熟で醜い心は、自分には釣り合わない恋人への疑いを捨てきれないでいる。たとえ上辺だけであってもこんなに優しく愛されているのに、どうしたって素直に受け取れないことが後ろめたくて、ますます卑屈な気持ちが膨れてしまうのだ。あまり良くない循環だな、と自分でも思う。
 はたから見れば自分たちは(性別と年齢差を無視すれば)順調な恋人同士に見えているだろうか。できれば見かけ上だけでもそうでありたい、とレオナルドは常に思っていた。

「レオ、食べかけで悪いけど、僕のデザートも食べられる?」
「いいんですか?」

 こうしたレストランで皿を交換するのは、マナーとしてはあまり良くない行為だとレオナルドでも知っている。最後に出された二枚のプレートにはそれぞれチョコレートソースのかかったアイスクリームと、ベリー系のソースのかかったプディングが乗っていた。最初から二つともレオナルドに食べさせるつもりだったのだろう。だからわざと違うデザートを用意させていたのだ。

「どうせ誰も見てないよ。僕には甘すぎるから。君に食べてもらえたほうがデザートも幸せだろう」
「あはは、じゃあ遠慮なくいただきます」

 お腹はしっかり膨れているが、これくらいの甘いものならまだ余裕で迎え入れることができる。皿を受け取ってスプーンを手に取り、口の中へ。ふわりと広がる甘さに「うまいっす」と頬を緩めれば、「幸せそうだねぇ」と笑われた。
 会話だってきちんと交わせているし、笑い合うこともできる。一緒にいて楽しいと思う気持ちに嘘はない。心の奥底に巣くうわずかな黒い感情さえ無視しておけば、レオナルドは今のままで十分に幸せだった。このままで良かったし、これ以上は望んでいなかった。
 デザートを食べるレオナルドを見ながら食後のコーヒーを飲んでいた男が、やおら足を組み替え、テーブルに肘をつく。

「ところでレオナルド」
 僕は今日、君を持ち帰ってもいいのかな?
 にっこりと笑って告げられた言葉、その真意に気づけないほど鈍くはない。赤く染まった頬を膨らませ、「ひとを荷物みたいに言うの、止めてくれません?」と憎まれ口を叩く。素直ではない少年を前にくつくつと喉を震わせ、スティーブンは右手を伸ばした。

「デザート、おいしかっただろう?」

 するりと頬を撫でたあと顎の下に指先を滑らせ、親指で唇を辿る。まるでキスをするかのように親指の腹が押しつけられ、ちゅ、と小さな音が立った。

「僕も、デザートを食べたいんだけどな?」

 彼の求めるデザートが、ソースのかかったスイーツではないことなど確認するまでもない。右腕を引いたスティーブンは、見せつけるかのように己の親指をぺろり、と舐めた。かっ、とさらに頬に熱が集まる。
 デザートをもらったからだとか、そんなことは理由にはならない。もとよりレオナルドはそのつもりであったし、スティーブンだってそうするつもりであったはず。それをわざわざ言葉にして確認するあたり、この男は意地が悪い。羞恥を煽るだけでなく、レオナルド自らそれを望んでいるのだということを自覚させようとしているのかもしれない。

「んっ、んぅ、ふ、ぅんー……っ」

 何度となく訪れた男のマンション、部屋へ向かう途中のエレベータの中で、壁に身体を押しつけられ唇を奪われる。すぐ部屋に着くというのに、待てない、とスティーブンは薄く笑った。欲の滲んだその声音にぞくぞくと背筋が震える。
 小さな箱の中で仕掛けられたいやらしいキスに、レオナルドの身体から力が抜けた。ふらふらと覚束ない足取りの少年を抱えるように自宅へと戻った男は、そのまままっすぐ寝室へと足を向ける。
 ぼすん、と背中からベッドに沈めば、間髪入れずのしかかってくるスティーブンにまた唇を塞がれた。

「久しぶりだからね。少しひどくしてしまうかも」

 先に謝っておくよ、と穏やかではない表情で告げられ、レオナルドは眉間にしわを寄せて唇を噛んだ。自覚しているのならひどくしないよう努力してくれてもいいだろうに、彼にはそのつもりがまるでないらしい。

「……痛いのは、ヤ、です」

 レオナルドは基本的にはノーマルな性癖の持ち主だ。今たまたま男を相手にこうなっているだけで、男性しか愛せないというわけでもないしもちろん、被虐趣味があるわけでもない。シーツに頬をすりつけてぼそりと言えば、スティーブンはくつくつと喉を震わせて笑う。

「今まで僕が痛くしたことがあった?」

 問われ、ふるりと首を横に振った。男同士、なおかつ体格の差があるため、挿入まで至るセックスはレオナルドの身体に負担をかける。そのことをスティーブンはよく理解しているのだろう。激しく揺さぶられ、しつこく求められ、抱きつぶされることはあれど、最中の彼はひたすら小さな恋人を蕩けさせることに夢中になっているため、痛いと思ったことは今まで一度としてなかった。
 嫌だ、と口にした言葉は単なる照れ隠しに過ぎない。感じすぎてつらい、気持ちよすぎて苦しいというくらいで、本音をいえばそうして熱を与えられることが嫌ではないのだ。むしろ嬉しい、と思えるくらいで。
 幸せなのだ。
 そう思う。
 こんなにも優しく愛されて、激しく求められて。
 これ以上、何を望むというのだろう。
 これ以上、どんな幸せがあるというのだろう。
 だからこのままでいい、これくらいが、いい。今が壊れなければ、レオナルドにとってはそれで良かったのだ。
 たとえ、恋人の愛の言葉をすべて信じることができなくても。




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2016.07.20