溶けない感情・2


 そうして己を誤魔化している時点で、もはや言い逃れはできないだろう。
 レオナルドは、本気でスティーブンのことが好きだった。いや、過去形で語れる感情ではない。現在進行形で好きなのだ。
 どこがどう、と聞かれると言葉に困る。気がついたら好きになっていた。いつの間にか心を奪われていた。
 戦闘中の張りつめた表情も好きだったし、積み上げられた書類に呻く不満そうな顔も好きだ。ときどき見せる子どもっぽい笑顔にやられて、それでいて大人の男の持つ色気に当てられる。少し怖くてとても不思議で、けれどどこか寂しそうなひとだと思った。
 このひとの特別になれたらどれほど嬉しいだろう。頬に触れる手を許してもらえたらどれほど幸せだろう。
 憧れであったはずの感情は、気がついたときには醜い欲望を張り付けてレオナルドの心に巣くってしまっており、ああこれはただの憧れではない、と否が応でも気がつかざるを得なかった。
 レオナルドがそんな感情を抱いていたことを、おそらく聡い男は気がついていたはずだ。己に向けられる秋波を感じとれるからこそ、彼はそれを道具として使うことができている。まさか年の離れた、しかも同性から向けられるとは思ってもいなかったかもしれないが。
 自分に恋心を寄せる子どもをからかいたくなったのだろうか。あるいは珍しく思ったのか、もしかしたら哀れに思ったのかもしれない。実らせるつもりのなかった恋はなぜか成就しており、今はスティーブンの恋人という立場に収まっている。

 現実味を抱けないままではあるがその「関係」があるからだろうか。いや、本気であの男のことが好きだから、かもしれない。
 ビジネス上のつきあいだと分かっていても、彼がほかの誰かと親しくしている姿を見て、気分が良くなるはずもない。しかもそれが己では決して持ち得ない、柔らかで肉感的なボディの美女であればなおさら気持ちは沈んでしまうというものだ。やっぱり女性のほうがいいのではないか、と思わざるを得ない。
 そういうことをしている、そういう相手がいる、と直接告げられたわけではないが、なんとなく察してはいた。彼が集める情報の中には、ハニートラップで得たものもある、と。こういった世界で生き抜くためには当然力も必要だが、それと同時に情報もひどく重要となってくる。どちらかといえば情報寄りに生きているレオナルドだからこそ、そのことはきちんと理解しているつもりだ。ライブラの副官である男が集める様々な情報は、この結社を動かす上でなくてはならないものである。
 けれど頭で理解していても、気持ちが納得してくれるかといえば、そうとは限らないのだ。

 特に大きな事件や騒動が起きることもなく、HLにしては平和な時が流れていたその日、ギルベルトから買い出しを頼まれ、ザップとふたりで事務所を出たのが一時間ほど前のこと。事務所で使う備品(のストックであろう)を買い揃え、忘れずに領収書を受け取って、そうして戻る途中のことだった。
 不意に足を止めたレオナルドに気づき、隣を歩いていたザップが怪訝そうに立ち止まる。どうした、と声をかけつつ少年の視線を追いかけ、褐色肌の男はその端正な顔を歪めて舌打ちをした。

「見るな」

 レオナルドの視界を遮るように広げられた手のひら。この忌々しい義眼の前ではひとの手など遮蔽物にもならないのだけれど、咄嗟に手が出てしまったのだろう。生活態度も性格も屑そのものである男だけれど、どうにも突き放しきれないのはこうした優しさを時折見せるからかもしれない。懐に招き入れた人物に対して、結局彼は甘いのだ。
 立ち止まったままだったレオナルドの腕を取り、ザップは小さな身体を引きずるように大股でその場を離れる。既にふたりの視界からあの路地は消えていたし、当然そこにいた人物たち、スティーブンと名も知らぬ女性のキスシーンだってもはや見えていなかったけれど、それでもザップの足は止まらない。

「ざ、ザップさんっ、ちょ、はやい、ですって……っ」

 コンパスの差を考えてもらいたいものだ。彼にとっては早歩きでしかなかったとしても、レオナルドからすれば小走りくらいになってしまう。懸命に足を動かしながら告げた文句に、男は少しだけ歩調を緩めてくれた。
 真っ白いジャケットに覆われた背中を見つめ、「大丈夫、ですよ」と小さく言葉を紡ぐ。よいしょ、とずり落ちかけていた腕の中の荷物を抱えなおした。
 スティーブンとの関係をおおっぴらにしているわけではない。けれど隠しているというわけでもないため、気づいているメンバがいてもおかしくはなかった。戦闘センスに溢れ勘の鋭い男だから、レオナルドがスティーブンに向ける視線から何かを読みとってしまったのかもしれない。彼の性格を考えれば盛大にからかってきそうなものではあったが、確証がなかったからかあるいはつついてはいけない藪だと思ったのか、今の今までスティーブンとレオナルドの関係についてザップが口にすることは一度もなかった。
 けれど、この反応を見るにおそらく彼は気がついている。そして、恋人とほかの女とのキスシーンを見て、レオナルドが傷ついたのでは、と気遣ってくれているのだ。
 歩く足を止めることなくザップがちらり、と後ろを振り返る。その男の顔を見上げ、「仕事だって、分かってますから」とレオナルドは言った。
 けれどその返答に、彼はますます顔を歪めてしまう。再び盛大に舌打ちをしたザップはふい、と視線を逸らせた。

「お前、物分かりのいい振りするのも大概にしとけよ」

 吐き捨てられた言葉がぐっさりとレオナルドの胸に突き刺さる。彼は感情を飾らない。回りくどいことは嫌いで、思ったことをそのまま口にし、直球に相手を責める。
 耳に痛すぎる説教(まさかザップから説教をされる日がくるだなんて思ってもいなかった)に、レオナルドは「でもだって、」と俯いて返すしかない。

「どうしようも、ないですもん……」

 確かにレオナルドとスティーブンはつきあっているし、恋人という関係にもある。けれど、レオナルドの一番はどうしたって妹ミシェーラであり、スティーブンを一番にすることはできないのだ。それはスティーブンのほうも同じことで、彼の一番はライブラであり、クラウスだ。そのためになることであれば、どんな手段だって取ってみせるだろう。ひとの気持ちを踏みにじることも、彼自身の感情を殺すことだって。
 彼を一番にできない自分が、彼の一番になれないことに文句を言える道理がない。
 だからしょうがないことなのだ。そう己を納得させるくらいしか、レオナルドには取れる手段が、ない。
 小さな呟きに、はぁああ、と腹の底から息を吐き出したようなため息をついた男は、腕から離した手でがしっ、とレオナルドの頭を掴んだ。突然のことに驚いて顔を上げれば、そのままわしわしと髪の毛をかき混ぜられる。もしかしたら慰めてくれているのかもしれない。

「ッ、ザップさん、痛っ、痛いっ!」

 レオナルドの悲鳴を無視して、「だったらてめー」と男は興味なさそうな声音で言葉を放った。

「もう少し作り笑い、練習しとけよ」

 しょうがない、と割り切ったことを口にするのならば、全然そう思っていないような顔で悲しそうに笑うのは止めろ、と。
 気遣ってくれている男の優しさに感謝しつつ、レオナルドはザップを見上げへらり、と笑って見せた。

「ザップさんの前だから、ですよ」
 あのひとの前じゃ完璧のはずです。

 そう言葉にできるほど、完璧に笑えているかどうかは自信がない。けれど、余計なことは言わないように、そして聞かれないようにと気を張ってはいるつもりだ。この程度のことは想定の範囲内なのだ。分かっていたことで揉めるのは嫌であったし、捨てられるのはもっと嫌だった。
 その答えが気に入らなかったのか、あるいは浮かべた表情に腹を立てたのか。ごつん、とレオナルドの頭にげんこつを落とした先輩は、「もう知らねぇ」と吐き捨てそれ以降、この話題に触れることは一度もなかった。
 ザップには言ってないが、今夜、レオナルドはスティーブンと会う約束をしている。久しぶりに彼の自宅でゆっくり食事を取ろう、と誘われているのだ。つまり、つい先ほど光の入らない路地で女性の腰を抱いていたあの男は、今日の夜にはレオナルドのもとに来てくれる、ということ。女を抱きしめていた腕は、この貧相で起伏の少ない身体に回る予定なのである。彼女のように一時の間だけではなく、夜ごとそのまま、彼のプライベートの時間をレオナルドはもらうことができるのだ。
 そこに安心し、どうしたってわき起こる優越感。
 あの路地裏の女性も、あるいは彼とつきあいのある女性たちも、レオナルドと同じように思っているのではないか、という考えても面白くもなんともない思考に浸るより、自分だけは特別なのだと思っていたほうが何倍も気分が良く、そして何十倍も愚かだと、そう思う。


**  **


「そういえばレオナルド、君、今日8番街にいた?」

 スティーブンから唐突にそう問いかけられたのは、彼の自宅で夕食を取り終え、キッチンで後かたづけをしているときだった。通いの家政婦が来てくれることは知っているし、彼女とも面識はあるのだけれど、だからこそごちそうになったお礼くらいはしないと、とレオナルドは毎回食事の後かたづけと皿洗いをかって出ていた。
 律儀だなぁ、と笑いながらも必ず隣に立って一緒に皿洗いをしてくれるのだから、スティーブンのほうこそとても律儀だといつも思う。
 両手を泡に埋もれさせたまま、レオナルドは長身の恋人を見上げ首を傾げた。
 8番街といえば、今日ザップとともに買い出しに出かけた先だ。つまり、恋人がほかの女とキスをするシーンを見てしまった場所でもある。

「どうして……」

 突然そんなことを尋ねてくるのか。意図が分からずそのまま疑問が口から零れた。少年を見下ろし眉を下げた男は、「ザップに聞いた」と簡潔に答える。
 何をどう、聞いたというのか。
 正直検討もつかないが、余計なことを、と思わず眉間にしわが寄る。
 あのとき、スティーブンのほうはこちらに気がついていなかったのだ。レオナルドさえ黙っていれば、あれはなかったことになる。自分はキスシーンを見てはいないし、彼はほかの女を抱いていない。そう思いこむことなど、神々の義眼を使いこなすことに比べたら反吐が出るほど容易いというのに。
 レオナルドが何か見てしまったのではないか。確証がないため曖昧な言葉で探りを入れてきているのかとも思ったが、男の表情や口調からすると、どうもそうではなさそうだ。
 黙り込んでしまった少年へ視線を向けたまま、スティーブンはゆるりと目を細めた。「君は、」と彼は静かに言葉を紡ぐ。

「本当に何も言わないね」

 言ってどうにかなるようなものなのか。
 思わずそう返したくなるが、唇を噛んで堪えた。
 その言葉はただの皮肉でしかない。恋人を困らせ、あるいは嫌な気分にさせるだけだろう。自分が我慢をすればいい、と思っているわけではなかったが、敢えて目を逸らしておきたい事柄だって世の中にはたくさん転がっているのだ。
 ふ、とレオナルドは小さく息を吐き出した。

「気分は、良くないですよ。もちろん」

 見たい光景ではなかった。できれば自分には決して見せないでもらいたかった。それくらいの努力はしてもいいのでは、と思ってしまう。
 最後の一枚の皿を綺麗に濯いで、水切りかごへと重ねて置く。食器洗浄機付きのシステムキッチンであることを知ってはいるけれど、皿を洗うという日常的な行為を恋人とともにすることが好きだったし、こんな話題でさえなければゆっくりと話のできる心地よい時間になるはずだったのに。

「ただ、スティーブンさんの『仕事』の邪魔は、したくないんです」

 それが『仕事』であること、『仕事』以外の何ものでもないことを暗に確認するような言い方。ずるく厭味ったらしい言葉を紡いですぐ後悔したが、一度音にしたものを回収することなどできなかった。
 どうしてもそういう手を取らざるを得ないということもあるのかもしれない。レオナルドには分からないような理由があるのだとすれば、口を出したくはない。そうすることによって、煙たがられたくはないのだ。
 ざっとシンクを洗い流し、スポンジを置いて手を流す。それが終わる頃には一足先に手を拭っていた恋人が、タオルを構えて待っていてくれるのだ。
 ぽふん、と柔らかなタオルでレオナルドの両手を拭ってくれながら、スティーブンは「そうか」と呟いた。なんとなく顔を上げづらくて、黙ったままタオルに包まれた己の両手を見つめる。
 彼の返答にどんな意味が込められていたのか、レオナルドには分からない。安堵しているのだろうか、それとも何か言いたいことがあって我慢しているのだろうか。
 水気の引いた手に指を絡められ、タオルを避けてスティーブンの腕が伸びてくる。ぐい、と腰を引き寄せられ、身体を抱き込まれると同時にキスが落ちてきた。ちゅ、と額に一つ、顔を上げれば鼻の頭に一つ。視線を合わせて唇に一つ。
 ご機嫌取りのつもりなのだろうか、とちらりと考えてしまった自分に、心底嫌気がさす。

「……シャワー、浴びにいこうか」

 そっと囁かれる言葉に、レオナルドははこくり、と頷いた。
 当然ただ汗を流して終わるはずもなく、バスローブかバスタオルにくるまれてそのままベッドに移動することになるのだろう。それを知った上で、だからこそレオナルドは恋人の誘いにイエス、と答えるのだ。
 ひょい、と抱き抱えられ、すがりつくように首筋に腕を回す。男の体温と香りを感じながら、少年はぼんやりと思っていた。
 うまくいっているように見えて、自分たちはなんだかとてもすれ違っている。
 噛み合っていない、しっくりこない。
 いつからこうなってしまったのだろう。考えても思い出せない。それはつまり最初からだった、ということなのかもしれない。原因と呼べるものがあるのだとすれば、おそらく恋人を信じ切ることのできないレオナルドにある。そう分かっていてもどうしようもできないのだ。

「『仕事』だよ、君以外は全部」

 紡がれる言葉にどうしてだか泣きそうになった。
 この分だと、終わりも早く訪れそうである。




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2016.07.20