ジェラシーギャップ・前


 そもそも、ザップという男は考えることが不得手である。苦手、というレベルではなく、ひとによっては不可能と断じられるくらいであり、気の向くまま、本能のままに生きているといっても過言ではない男だった。ザップ自身もある程度は自覚しており、己の感情を言語で表現することはあまり得意ではない。腹が立つ、むかむかする、楽しい、嬉しい、気持ちがいい、美味い、眠い、そういったことならばいくらでも言えるが、その原因(どうして腹が立つのか、どのように美味いのか)を口にすることが面倒くさい。考えればきっと説明はできると本人は思っている。(が、本当にできるかどうかは怪しいものだ、と周囲の人間は判断していた。)
 だから、今現在、どうして自分がいらいらとした気持ちを抱えているのか、ザップはうまく口にすることができなかった。いや、誰かに説明する必要はないのだ。わざわざ言葉にしなくても良いのだけれど、自分自身への説明が必要な場合もある。原因不明の苛立ちなど、抱えていて愉快なものではない。刹那主義、快楽主義を自認するザップ・レンフロにとって、不愉快な感情はさっさと切り捨てるべき、忘れ去るべきものなのである。
 そう分かっていてもなかなか頭の切り替えができず、それ故に仕方なしに、苛立ちの原因について分析してみよう、と試みているわけだ。

 まず、今ザップのいる場所は、秘密結社ライブラの執務室、いわゆる事務所である。緊急の呼び出しがなくとも、全休日以外は必ず顔を出せ、と言われているため本日もこうして真面目に出勤したのだ。けれど今のところ特に外へ出る事件も起こっておらず、情報収集のため街にでも繰り出そうかと思いながら腰を上げるのが面倒なためソファに寝転がっている。
 室内にはラインヘルツ家お抱えの執事、ギルベルトが物音を立てずに仕事(掃除や備品のチェックなどだろう)をこなしており、彼が仕える主はといえば、執務室から続く温室にいた。温室というよりサンルームといったほうが正しいのかもしれない。執務室との間の壁や扉はガラス張りであり、温室の内部が見えるようになっている。ただ、温室自体かなりの広さがあるため、奥までは完全に見通せない仕様だ。
 ライブラリーダがいるのは温室の手前側であったため、ザップの位置からでもその巨躯はよく見て取れた。大きな両手で小さな鉢植えを抱え、軽く背を丸めているのは、話し相手の顔を見るためだろう。彼の背丈に比べれば大抵の人物は小さくなってしまうため、どうしたって身体を小さくせざるを得ないのだ。しかも、今彼の前にいるのがメンバのなかでも小柄なレオナルド・ウォッチ少年なものだからなおさらである。
 厳つい顔の表情を和らげ、クラウスは熱心に何かを語っているようだ。おそらくは大好きな植物のことだろう。対するレオナルドは、あまり植物について知識はないようで、時折首を傾げながら、それでもいつもの気の抜けたような笑みを絶やすことなくリーダの話を聞いていた。
 こうした場面を最近よく見かけるようになった、気がする。
 もともとクラウスは誰に対しても平等に敬意を払う博愛主義者だ。けれど、妹のために懸命に頑張っているレオナルドには格別注意を払っているようで、有り体にいえば気に入っている相手なのだろう。レオナルドのほうも、クラウスの力強い言葉に背中を押され、勇気をもらえただとかで、盲目的に心酔している節がある。要するにライブラのリーダと、若干特殊な立ち位置にいる少年は仲が良い、ということだ。時折事務所に姿を見せる隻眼スナイパー(子持ち)は、「癒しコンビよねぇ」とあのふたりを見てよく言っている。いまいちザップには分からない感覚だった。

 クラウス・V・ラインヘルツ。確かにあの男はすごい。血闘術を使わずともかなり強い。こちらが血法を使ったとしても勝てない程度には。それだけでもザップにとっては意識するに十分な存在である。ただ、性格はどうにも愚直で、バカがつくほど真面目だ。ひとを疑うことを知らず、その分副官であるスティーブンにしわ寄せがいっているのだろう。どちらにしろただの戦闘員であるザップは、上の決めた事柄に従って身体を動かすだけではある。
 レオナルド・ウォッチ。こいつは逆にめっぽう弱い。血法を使わずとも純粋な暴力でおそらく息の根を止めることができる程度には。けれどその両眼は特殊なものであり、それと同じほど特殊な性格もしている。端的にいえばこいつもいい奴なのである。ぎゃあぎゃあとやかましくすぐにビビってすぐに泣く、そのくせ妙に肝が据わっていて根性を見せるときがある。なるほど、クラウスが気に入るのも理解できるくらいには、強い何かを持つ男なのだ。
 そんな少年を(人違いであったとはいえ)最初に拾ったのはザップであり、つまりはふたりを引き合わせるきっかけとなったのもザップである。だからどうというものでもないのだろうけれど、なんとなく、仲むつまじく話をしている様子を見やり、いらいらもやもやとしながら、俺のおかげだっつの、と思ってしまうのだ。

 高々趣味の話を聞かせてもらえるだけで、そんなに嬉しそうな顔をしなくてもいいじゃねぇか。
 高々趣味の話を聞いてもらえるだけで、そんなにも優しそうな顔をしなくてもいいじゃねぇか。

 おもしろくない、非常に、たいそう、大変に、おもしろくない気持ちでいっぱいだった。
 その原因はまだ、分からない。
 分からなさすぎて、掴み所がなさ過ぎて、そろそろ考えることに飽きてきた。むしろ分からないことにさえ、いらいらむかむかとしてくる。いらいらを解消したくて脳味噌を回転させたというのに、逆に増えるとはどういうことだ。

「……納得いかねー」

 ソファに転がり天井を見上げて呟けば、「何がっすか?」と声が降ってきた。驚いて身体を起こせば、きょとんとした様子のレオナルドがそこにいる。少年もまた、ザップの反応に驚いているようだった。

「あ、れ? おめー、さっき、温室で旦那と、」
「クラウスさんですか? このあと商工会のお偉方と約束があるそうで、ギルベルトさんと出かけましたよ。たった今なんで、追いつくとは思いますけど」

 事務所の扉のほうを指さしてそう告げられ、「別に旦那に用があるわけじゃねーよ」とザップは再びソファへと身体を沈めた。その様子を見やり、レオナルドは「でしょうね」と言葉を返す。吐き出されたため息には、どんな感情が込められているというのだろうか。
 眉間にしわを寄せ、おもしろくない気分のまま、「おめーよぉ」と口を開く。レオナルドの姿を捕らえてはいないが、足元のほうからぎしり、とソファの軋む音がした。返事くらいしろよ、とそう思う。

「ずいぶんとよぉ、旦那と仲が良さそぉじゃねぇか」

 唐突な話題に訝しげな視線が向けられている、ような気がした。身体を起こすことはせず、レオナルドのほうを見ることもしない。一見チビの陰毛頭であっても、奴の顔面には蒼く光るオーパーツが埋め込まれている。何でも見通すというそれと、今は視線を合わせたくなかった。

「……それが、何か?」

 クラウスとレオナルドは、職場における上司と部下の関係である。もちろん人間関係が円滑であるほうが仕事はスムーズに進むため、仲が良いのは責められることでは決してない。ただそう、べたべたしすぎて馴れ合いになってもらっては困るのだ(という理由は今でっちあげただけかもしれない)。
 別に何もねぇけどよぉ、と吐き出す言葉がそのとおりに響いているようには、ザップ自身にも聞こえなかった。基本思ったことを思ったままに、後先考えずにきっぱりはっきりと口にする男にしては珍しい物言いに、後輩の表情がますます訝しげに歪められる。

「よくもまあ、あんだけ懐けるもんだな。ライブラのリーダによ」

 犬みてぇ、と付け加えれば、誰が犬だ、とレオナルドが吠えた。小さい身体できゃんきゃんとやかましい様は、犬そのものだと思う。

「その『ライブラのリーダ』に、ところかまわず殴りかかってる猿には言われたくねーですよ!」
「あぁっ!? 誰が猿だ、誰がっ! こんな強くて男前で完璧な猿がいてたまるか!」
「強い以外に賛同できる部分がないっすね。完璧っつーのは、クラウスさんみたいなひとのこと言うんです」
 強いし優しいし頭もいいし何でもできるし、気配りの紳士だし!
 いくらライブラリーダであっても、できないことだってあるだろう。好きなゲームに夢中になるとひとの話を聞かなくなることなどしょっちゅうだし、まっすぐで頑固な性格にはあの副官ですら手を焼いている。だから決して「完璧なひと」というわけではないと思うが、レオナルド少年からすればそう言いたくなるくらい眩しい存在なのかもしれない。
 おーおーおーおー、と身体を起こし、盛大に顔を顰めてザップは吐き捨てる。

「ずいぶんとまあ、入れこんでんなぁ? どんだけ旦那のこと好きなんだ、おめー」
 なに、つきあってんの、おめーら。そーゆー関係なの。

 言葉にして、もやもやと渦巻いていた何かが少しだけすっきりしたような気がした。どうやら己はその点を気にしていたらしい、と自覚する。が、いらいらとした気分は収まっていない。
 レオナルドから視線を逸らし、再びソファに仰向けに寝転がりながら、「あーでもお前と旦那だと、」とザップは纏まらない思考をそのままに言葉を続ける。

「よくてせいぜい子どものつきあいだろーなぁ? なんせ童貞と紳士だし。おててつないで公園デートとか、ジジババじゃねぇんだから、もちっと色っぽいことでもしてたほうがいいんじゃね?」

 なんならザップさまが教えてやろーか、と笑ったところで、すぐそばでゆらり、と影が揺れた。頭を起こしてそちらを見やる前に、どさどさどさ、と重たい何かが腹の上に落とされる。

「ぐぉッ!?」

 内臓へ与えられたダメージに、ザップは身体を折って悲鳴をあげた。出る、中身が出る。せっかく食ったものを吐くだなんて、そんなもったいないことができるかばか。
 涙目のまま腹に落とされたもの(分厚い書籍の束だった)を払いのけ、「っめぇ、なにしやがんだっ!」とレオナルドを睨みつける。しかし、寝そべったままのザップを見下ろす少年の視線は、常にないほど冷たく、怒りを湛えているようだった。
 僕はいいですよ、と少年は低い声で言う。

「僕のことは何言ってもいいです、全力で言い返しますし。でも本人のいないところでクラウスさんを悪く言うのは止めましょーや」
 そんなの、あんたも空しいだけでしょ。

 レオナルドとの軽口のやりとりはいつものことであるし、お互い本気で腹を立てるような喧嘩だってする。売り言葉に買い言葉でひどい罵り合いをすることもあり、互いに口が汚いことは分かりきっていた。ただ、こんな目を向けられたのは初めてであり、怒りのまま怒鳴られるより心を抉る言い方があるのだと理解する。
 ぐ、と唇を噛んで言葉を呑み、険しい顔のままレオナルドから視線を逸らせた。浮き上がりかけていた背中を再びソファの座面に沈め、身体ごと背もたれのほうへと向く。
 ザップの背中を見下ろしていた少年は、はあ、とこれ見よがしにため息をついてみせた。ぺっちん、とその小さな手で男を叩き、ソファの縁。ザップのそばへと尻を落とす。こちらの身体に体重をかけるように背中を預け、「何があったのかは知らねぇっすけどね」とレオナルドは口を開いた。

「ストレス解消ならもっと違う方法選んだほうがいいと思いますよ」

 苛立ちのまま八つ当たりをするように言葉を吐いたところで、すっきりするはずがない。本意ではない言葉であれば、余計に鬱屈したものが溜まるだけだ。

「ザップさん、頭良くないんですから、うだうだ考えるだけ無駄でしょ。遠回しに言っても何もならないです。あんたの爛れた私生活を聞くのは正直遠慮したいんっすけど、吐き出して楽になる何かがあるなら、ここにいますからご自由にどうぞ」
 目はこんなにされましたが、耳は無事なんで。

 ちらりと振り返り、右目を軽く開いてレオナルドは笑う。身体の特徴をネタにジョークを口にするのは、ウォッチ家のお家芸なのだろうか。笑いづれぇよ、と腕を振って背中を叩けば、少年はあはは、と声をあげた。
 むくりと身体を起こし、はあ、とため息をつく。がりがりと無造作に頭を掻いて、俯いたままもう一度息を吐き出した。腕を伸ばし、すでにこちらから視線を外している男の身体を抱き込む。小さな肩に額を押しつけ、「お前ほんとお人好しすぎるだろ」と呟いた。
 自分でもらしくない態度だとは思ったが、レオナルドの言うとおりぐだぐだ考えたところで答えが出ないのだから無駄でしかない。ごんごんと額を肩にぶつけてやりながら小さく紡いだ謝罪の言葉は、痛い、と喚く少年の耳に届いただろうか。

「だから痛ぇって! つか、あんたにそれ以上バカになられても困るんで、頭突き止めてください!」
「あぁ!? 誰がバカだ誰が! お前、さっきもひとんことバカ呼ばわりしたな、そういや」
「あんたの頭が悪ぃのは事実でしょーが! バカじゃねぇっつーんなら、せめてHLにとって重要な政治家の顔と名前くらい一致させいひゃいいひゃいいひゃいっ!」
「あーあーあーあー、うるせぇうるせぇっ! おっさんの顔と名前なんざ覚えられるかぼけっ」

 怒鳴りながらレオナルドの両頬を引っ張れば、少年はがりがりとザップの両手を引っかいた。腕力も含め、身体を張った喧嘩となれば、レオナルドがザップに勝てる要素はない。そのため少年は殴る蹴るはもちろん引っかいたり噛みついたりものを投げたりと、あらゆる手段を使ってくる。命を失う心配がなく、濁った薄暗い感情のない喧嘩など、ザップはレオナルドに出会って初めて体験したのかもしれなかった。
 離せ、と暴れるレオナルドの肘がきれいに鳩尾を抉り、ぐえっ、と呻いて腹を押さえる。その隙に逃げたレオナルドが、ぜぇはぁと胸を喘がせて「ざまーみろ」とザップを見下ろして笑った。「しね、陰毛チビ」と返しておく。
 床に散らばってしまっていた本を回収し始めた少年は、つきあう時間が長くなればなるほど、よく分からない部分が増えてきている気がする。最初はただの臆病者だと思った。それが意外に根性が据わっているという認識になり、けれどやっぱりぎゃんぎゃんうるさい小動物で、このくそったれな街にいながら変わることなく己を貫く強さを持っている。ともかく不思議な男なのである。べつに、とザップは本の表紙を叩いている少年に向かって口を開いた。

「おめーと旦那がどうこうとか、本気で思ってるわけじゃねぇから」

 拗ねたような言い方だ、と自分でも思う。聞いたレオナルドもそう感じたのだろう。小さく笑いやがったのが腹立たしい。
 分かってますよ、と少年は苦笑を浮かべて言う。

「クラウスさんはああいうひとですから。そういう憶測はなしにしましょう。それに、」
 下手なこと言ってんの聞かれたら、あんたの命も危ねぇっすから。

 続けられた言葉の意味がよく分からず、どういうことだと眉を寄せて首を傾げる。しかしレオナルドは答える気はないようで、ふふ、と笑うばかり。その反応にむかっときたため足を伸ばして太股を叩いてやった。

「いってぇな! なんで蹴ったんすかっ!」
「あー、悪ぃ悪ぃ。ほら、俺様、足、長ぇからさぁ」
「長さは関係ねーですよ! 自分の足一つまともに制御できねぇんですか。人間はね、ちゃんと脳味噌で自分の行動を制御できるんです! ザップさんの頭、何が詰まってんの? わたげ?」
「はぁあっ!? てめーの頭に詰まってんのは陰毛だろ、いんもうっ! おら、脳から陰毛がはみでてんぞ!」

 怒鳴りあげて手を伸ばし、がしり、とレオナルドの頭を鷲掴みにする。それにぎゃんぎゃんと文句が返され、またいつものような罵り合いになっていくのだ。ザップの失言により淀んでしまった空気はすでにこの場にはない。レオナルドが吹き飛ばしてしまった。この男とのつきあいは、こうしたところがひどくやりやすく、心地いいのだ。




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2016.07.20