「ハロー・グッバイ」の続き。 ハロー・アゲイン 昔から、頭の片隅になにか大きな空白があるような気がしていた。 昔、というほど自分が目覚めたときは遠くないけれど、それでも周囲を認識したそのときにはすでに、それはあったような気がする。 手が届きそうで届かなそうなそれは、注意深く探ってようやく厳重にロックされた何らかのデータではないか、と気がつくくらい、ひっそりと分からないように隠されていた。可能な限り自身で分析をしてみたけれど、何のファイルなのかも分からず、どうしてこんなものがあるのかも分からない。おそらくパスワードでロックは解除できるのだろうけれど、入力する文字もまた分からなかった。 雪男は人間の手助けをするために開発された、ヒューマノイド・ロボットである。人々の生活に浸透しているヒューマノイドは、様々な場面で活躍し、人間とともに共存していた。人間には難しいことを行うために開発されたもの、より人間に近づけて開発されたもの、用途に合わせて様々なタイプがあるが、雪男はいわゆる「平凡型」と呼ばれるヒューマノイドである。取り立てて特化した能力を持たない代わりに、より人間らしい所作ができるようプログラムされたタイプ。蓄積できるデータが特化型よりも遙かに多く、「人と同じように学習して成長する」ロボットだ。 ただその「学習」も「成長」も人間のように「自然に」は行えない。たとえどれほど外見や言動が人間に近くとも、ヒューマノイド・ロボットは飽くまでも人型の機械である。自然とは対局の位置にいるため、一日の出来事、初めて見聞きしたことや抱いた感情について整理し吸収する時間が必要となる。そうしなければスムーズに新しく知ったことを己のものとして表現できないのだ。 雪男の主人である少女が床につき、彼もまた明日動くための充電を行うためにスリープモードに入っているときがデータ整理の時間だ。人間で言えば夢を見て記憶を整理しているのと同じような感じなのかもしれない。 そうしてメモリに蓄積されたものを整理している時に気がついた、自分の中に眠っている自分の知らない何かのこと。 雪男を開発した誰かが意図的に潜り込ませたデータであろうか。一体誰が、何のために。メンテナンスを受けるためにラボへ出向くこともあり、開発者と顔を合わせたことがないわけではない。けれど、誰もとくに雪男に対して注意を払っている様子はなく、あくまでも自分たちが作ったヒューマノイド・ロボットのうちの一体、という認識をされているようだった。彼らが雪男の中にデータを埋め込んだという線は、かなり薄いのではないかと思っている。むしろ、こんなにも奥深く、隠れるように仕込まれているため、開発者たちにはばれたくないという意図の現れではないだろうか。 中身も分からなければ目的も分からない。もしかしたら危険な情報が入っているのかもしれないし、雪男のプログラムをハッキングするようなウィルスが仕込まれているのかもしれない。可能性を考えればきりがなく、最悪の事態を想定するのならば、今すぐにでも主人に伝え、詳しい検査をしてもらうべきだろう。 ヒューマノイドの存在意義は、主人の役に立つことだ。主人を持たないヒューマノイドは存在を許されず、必ずひとりの主に仕えて動いている。それがヒューマノイド・ロボットという機械だった。 主人に害が及ぶ自体だけは避けなければならない。 雪男の今の主人は、人見知りだけれど心優しい少女だった。学校にも通えないほどの対人恐怖症でだが、ヒューマノイドラボの近くで営まれている店に生まれたせいか、ヒューマノイド相手ならば少しは相手ができるそうである。そんな彼女の話し相手兼家庭教師として、雪男は今この店にいた。ときどき彼女の母に乞われて力仕事を手伝うこともある。男手があって助かるわ、とふたりともとても喜んでくれるのだ。 主人に大切にされていることは理解しているし、雪男もまた彼女たちを尊敬し、慕っている。起動時にそうプログラムされているだけだ、と皮肉を込めて口にするものもいるが、プログラムされたものでも雪男の感情に違いはない。 開くこともできないデータならば、放置していても問題はないだろう。話すことで余計な心配をかけるだけなのでは、という懸念と、主人たちを危険な目に遭わせる可能性は早めに取り除いておかねばという使命感。せめぎ合いのなか、ようやく決意を固め、雪男は主人に打ち明けることにした。 自分のなかに眠っている、内容が不明な何かのことを。それを検査するためにラボへ向かう許可がほしい、と。 雪男の言葉へ真剣に耳を傾けていた少女、杜山しえみは大きな丸い目を少しだけ細めて小さく首を傾けた。 「それは、雪ちゃんのなかにずっとあった、ってことだよね?」 説明した内容を確認され、おそらくは、と頷いて答える。起動したばかりのころは周囲の状況を把握し、プログラムを慣れさせることに手一杯になっていたため意識はしていなかったが、今思い返せばそれはずっとそこにあったのだ。 パスワードでロックされてるんだよね、と重なる問いかけに、はい、と答えた。 「普通に英数字のパスワードだとは思うんです。最大でも八桁。一応0から99999999までは試してみましたがダメでした。アルファベットまで加えると膨大になって時間がかかるので確認はしてませんけど」 ラボでの検査でも詳しいことがわからなければ、最終手段として虱潰しにパスワードを試すほかないだろう、と思っている。とにかく、この中身が何であるのかを把握したい。しておかなければならない気がして仕方がないのだ。 雪男の説明を聞いて、少女はんーと小さく唸ったあと「うん、分かった」と頷いた。 「明日、ラボのほうに連絡してみるね」 「あ、いえ、それくらいは自分で」 「だーめ。自分の友達の具合が悪いかもしれないんだから、私にも何かさせて」 そのかわり、といいながら彼女は机の隅に寄せていた勉強道具をたぐりよせた。ノートを開き、余白にペンを走らせる。 「パスワード、この組み合わせを試してもらえないかな」 少女の書く丸みを帯びた可愛らしい文字が綴るは、『1227』という四桁の数字と『rin』という三文字のアルファベット。どう組み合わさっているかは分からないそうだ。単純な並び替えだけでいいのならばパターンも多くないため、時間はかからないだろう。 少女は一体何を思ってこの数字とアルファベットを書き記したというのだろうか。心当たりでもあるのか、単純におもいついた単語なのか。 首を傾げながらわかりました、と答え、脳内(本当に頭部にあるデータというわけではないため感覚として、だ)にあるロックされたファイルへのアクセスを試みた。『1227rin』では開かない。単語を崩さずないパターンだと『rin1227』はどうだろうか、とパスワードを入力してすぐに雪男は驚きに目を見開いた。 「雪ちゃん……?」 ぴたり、と動作を止めた友達の名前を少女が心配そうに呼ぶ。どうしたの、と続けられた言葉に重なるように、「開いた」と雪男は小さく呟いた。強固にアクセスを拒み続けていたそれが、まさかこんなに簡単に、あっさり開くとは思ってもいなかったのだ。どうして、と呆然としている雪男の耳に、「やっぱり」と震える少女の声が届いた。 「ねえ雪ちゃん、そこに何が入っていたのかな。私にも教えてもらえる?」 そっと雪男に向かって伸びてきた手。小さなそれはかすかに震えているようだった。少女を震えさせているものは一体なんだろう。どんな感情だろう。考えても分からない。まだ雪男には人間に対する理解が及んでいないようだ。 「ええと……画像、データ、みたいですね……待ってください、今モニタに表示します」 大抵のヒューマノイド・ロボットには己が見聞きしたものを記録し、再生できる機能がついている。自分が確認するだけならば出力することもないが、誰かに見せるためには映し出すモニタが必要だ。しえみの勉強のために用意していたポータブルのモニタの電源を入れ、ケーブルを繋いで画像データの出力をオンにする。 ぱっと画面に映し出されたものは動きも音もない、静止画。きょとんとしたような顔をしている少年が写っていた。隣に座っているしえみが大きく身体を強ばらせ、息を呑んだ気配が伝わってくる。 次に現れたのもまた同じ少年だった。キッチンに立っているのだろう、フライパンを手にこちらに顔を向けている。少し不機嫌そうだ。何か思い通りにいかないことでもあったのかもしれない。 次もまた同じ少年。かなり近くにいる寄っているため、透き通るような真っ青な目に吸い込まれてしまいそうだった。綺麗だなとごく自然に思う。たぶん、今まで雪男が見たなかで一番綺麗なものだ、と。 しえみと一緒に写っている画像もあった。ふたりとも笑顔だ。嬉しそうに、楽しそうに、こぼれんばかりの笑みを浮かべている。「りん」と少女が小さく呟いた。おそらくそれがこの少年の名前、なのだろう。 「りん、燐……っ」 ほろほろと涙をこぼし頬を濡らしながら、少女はただその名前を繰り返し紡ぐ。初めて聞くはずのその響きが、どうしてだかとても優しく、懐かしい。耳にするだけで心がぎゅうと締め付けられるような、それでいて叫び出したくなるほど幸せな気分になるような気がした。りん、と自分でも呟いてみるけれど、何故だろう、己の口から紡がれたそれは少しの違和感を雪男に抱かせる。 「わ、わすれたく、なかったんだね、雪ちゃん、燐のこと、覚えて、たかったんだね……っ」 ひっく、ひっくと喉をしゃくりあげ、顔をぐしゃぐしゃに濡らして泣く少女は、嗚咽混じりにそう言うと、再び顔を覆って泣き始めた。ううう、と唇をかんで呻く主人を前に、どうしたらいいのかが分からない。しえみさん、と名を呼んで、震える肩をそっと抱き寄せた。ぎゅう、と少女の小さな手が雪男の服をつかむ。そのまま少女は声をあげて泣き続けた、わあわあと、まるで小さな子供のように。燐、燐、とおそらくはもうどこにもいないのであろう、綺麗な瞳をもつ少年の名を、彼女はただ繰り返していた。 どれほど少女を抱きしめていたであろうか。ようやく落ち着きを取り戻したしえみは、泣きはらした目を雪男に向けて、「ちょっと待ってて」とそう言葉を放つ。少しよろけて立ち上がった彼女は、お気に入りのレターセットやしおり、押し花をしまっておくための小箱を持って戻ってきた。そのなかの一番下に、まるで隠すようにひっそりとしまわれていた一通の封筒。差し出されたそれとしえみの顔を交互に見やり、雪男は息を詰めたままそれを受け取った。そっと中のものを取り出してみる。中に入っていたものは一枚の写真。 「僕と、燐?」 ソファに腰を下ろし俯いて目を閉じているのは、見知った己のボディである。そんな自分の膝に頭を預け、床に腰を下ろして目を閉じているのはたった今画像で見たばかりの少年、燐のようだった。燐の背のあたりから伸びている黒いものは充電用のケーブル、だろうか。だとすれば彼もまたヒューマノイドであるということだけれど。 「このときね、もう燐の身体は限界だったの」 どこか遠くを見つめるような視線のまま、少女は掠れた声で静かにそう語る。 「いつ動けなくなってもおかしくないって言われて、それで燐、最後だから雪ちゃんと一緒に暮らしたいって、そう研究所長さんにお願いしたの」 ――あなたは燐の双子の弟、だから。 ヒューマノイド・ロボットであるため、血縁があるという意味ではないだろう。同じ時期、同じ場所で作られたもの同士を家族のように呼ぶものもいる。けれどわざわざ「双子の」ということは、もしかしたらそれ以上に何か繋がりがあったのかもしれない。 「一ヶ月か二ヶ月くらいだったかな。燐と雪ちゃんが一緒に暮らしてたのは。雪ちゃんは起きたばかりで、テスト起動中ってことになっていたから、そのときの記憶データは全部消去しなきゃいけない決まりだった。消さないでくださいって、お願いしたんだけど……」 こうして語る少女は燐や、テスト起動中だった雪男と過ごした時間を持っているのだろう。だからこそ雪男のなかからそのデータを消さないで、と頼み込んだ。しかし今現在雪男にその記憶は残っておらず、結局しえみの願いは聞き入れられなかったようである。ヒューマノイドのテスト起動は感情プログラムへの学習と、各可動部分の確認のための期間である。新しい主人の元へ出向く際には、その間の出来事をすべて消去しなければならない。 ふたりともね、すごく仲良しだったんだよ、としえみは誇らしげに、そして少し寂しげに笑って言った。 「ねえ雪ちゃん、ここ、見えるかな」 少女の細い指が指した箇所は、写真のなかのある一点。燐の頬だ。 彼のボディの限界は、その熱暴走が故のものだったそうである。人間と同じような言動をとることのできたプログラムは、多量の熱を発生させた。ボディを覆う冷却スキン程度では発散できないそれが、少年の身体を蝕んでいた。 「燐ね言ってたの。身体が熱を持ちすぎるから俺は泣けないんだって。悲しくても嬉しくても、涙が全部蒸発しちゃうんだって。でもその代わり、」 『雪男がさ、泣けるんだ。あいつ、ちゃんと涙が流せるんだよ!』 燐に起きた不具合を検証し、改良を施された上で起動に至った雪男は、熱をためることがなくひとと同じように笑い、泣くことができるのだ。 そのことが嬉しい、と彼は、双子の兄は笑っていたのだそうだ。 写真のなかの少年の頬には、滴のようなものが光っている。よく見ればソファに腰を下ろしている雪男の頬にも涙が伝っているようだった。位置関係を鑑みるに、雪男の涙が落ちて燐の頬を濡らした、といったところか。 燐、泣いてるみたいでしょう? としえみは再び目に涙を浮かべて言う。 「やっとね、泣くことができたの」 弟からもらい受けた滴を光らせ、涙を持たなかったヒューマノイドは起動を終えて初めて、「泣く」ことができたのだ。 その姿があまりにも儚くて、あまりにも綺麗で、あまりにも、切なくて。 「わすれたく、なかった。明るくて、料理が上手で、ちょっと怒りっぽくって、でもすごく優しい燐のこと、大好きだったから。そんな燐と一緒に暮らして、楽しそうに笑ってる雪ちゃんが大好きだったから……っ」 ふたりのことが大好きだったの、と。 透明の滴を溢れさせてそう語る。 少女が今までそのことをずっと雪男に黙ってきたのも、雪男を想ってのことなのだろう。記憶にない間のことを口にし、あまり混乱させてはいけない、と注意も受けていたそうだ。 確かにそう、記憶にはまるで残っていない。彼と過ごしたという日々のことも、彼の顔すらも、何一つ覚えていない。そのはずなのに。 どうしてだろう、胸が締め付けられるほどに苦しくて仕方がない。 どうしてだろう、こみ上げてくる何かが押さえきれない。 こんな感覚を知っている、と知らないはずなのに誰かが訴えてきているようだ。以前にもこんな感情を抱いたことがある、と。 暖かくて切なくて、幸せで、愛おしくて、大好きで。 ずっとずっとそばにいたい。 その温もりを感じていたい、そう想わせてくれたひと。 雪男に温もりを、愛を、笑顔を、そして涙を教えてくれたひと。 にいさん、と教えられもしないのに、彼を呼んでいた言葉を呟いた雪男の頬も、涙でしっとりと濡れていた。 *** *** 調べること自体は容易だった。何せ燐もまた雪男と同じ、この近くのラボで製造されたのだから。ほとんど実験体のような扱いであった彼のボディは、そのラボに回収されている。ボディに損傷を与えるほどの熱は、当然のように彼の脳、ICのほうにも影響を与えていた。一応その解析を試みてはいたそうだが、そもそも燐自身、開発側の予想を遙かに越えた複雑な回路を組み上げて人間と同じように動いていたそうである。だからこその熱暴走であったのだろうが、そのICの解析もまた莫大な費用と時間がかかるそうで頓挫状態なのだとか。 「かなりおもしろいタイプのヒューマノイドでしたからねぇ。私どもとしてもこのまま廃棄するのは惜しい。少しはデータを手に入れられないか、と努力もしたのですよ」 そう語るのは、ピエロのような衣服をまとった大男。ラボの研究所長である。目の下に濃いくまのある男はにんまりと、笑みを浮かべてそう語る。 「結果、損傷部分は判明しました。修復プログラムの埋め込みもまあ、やってできないことではないでしょう」 しかし、と手にしたシルクハットをくるくると弄びながら、彼は続けた。 完全なる修復は不可能であり、再現も不可能。それほどまでに損傷が激しかったというよりも、あそこまで複雑なプログラムをもう一度人間の手だけで組み直すのは無理なのだそうである。燐がどれほど型破りな存在だったのか、その言葉だけでも十分伝わってきた。 「ですから、たとえ回路を修復させてたたき起こしたとしても、あなたたちのことを覚えてはいないでしょうね。むしろひととしての感情すら抱くことができないかもしれない。ヒューマノイドとしては完全なる失敗作として目覚めることになる可能性が高い」 どうなるかがまるで予測できない。起こさないほうが自分たちのため、そして彼のためになるのかもしれない。それでも彼の再起動を望むのか。 その問いかけに、隣り合って立つ少年と少女は顔を見合わせたあと強く頷いた。 「僕たちは兄を、信じていますから」 高熱に冒されながらも、笑顔で雪男たちと過ごしてくれた燐。その彼の気持ちは、優しさは、必ず残っている、そう信じている。 きっぱりと言い切った雪男としえみを前に、シルクハットをかぶりなおした男はくつり、と喉を震わせて笑った。そして二度ほど鷹揚に頷いて言うのだ、「よろしい」と。 「実験としてもかなり興味深いデータが得られるでしょう。費用はこちらでどうとでもします。ただし、」 目覚めたリンの世話はあなたがたに一任することになりますが。 覚悟はよろしいですか? と紡ぐ男から一ミリも視線を外すことなく、「もとよりそのつもりです」と雪男は頷いた。 *** *** 動力、メイン回路異常なし。 電圧正常、電子信号正常。 起動を確認しました。 パチンと頭の中で何かが弾ける感覚。小さな衝撃から始まる世界、ふ、と瞼を持ち上げる、広がる視界、飛び込んでくる光。ややぼやけている焦点を合わせ一度瞼を閉じた。ふに、と唇に何かが押しつけられる感覚。目を開ける、今度はピントがばっちりだ。正面には、柔らかな碧色の綺麗な瞳があった。 ふに、ふにふに、と唇を押しているのはどうやら彼の指のようだった。「起きた?」と笑う。 初めて見るもののはずなのに、どうしてだろう、身体の奥でぎゅう、と何かが締め付けられているような苦しさがあった。 あなたは誰。この気持ちはなに。どうしてこんなに苦しくなる? 尋ねる前に紡がれた言葉。 じんわりと回路を震わせる。 「おはよう、兄さん。僕はあなたの双子の弟の雪男だよ。今日からまた、よろしくね」 ブラウザバックでお戻りください。 2015.02.04
ずっと書きたかった続きでした。 |