悪魔の恋」の続き。


   悪魔たちの恋


 愚かな男の話を、しよう。
 実の弟、双子の弟に恋をした愚かな男。
 母の胎内にいるときからそばにあった温もりを、何をどう勘違いしたのか、心の底から愛してしまった。
 同性愛に近親相姦、二重の禁忌ですらその気持ちを抑えることができそうもなく、取り返しのつかないことをしでかしてしまう前に逃げ出した。
 命を捨てる、という、ひどく自分勝手で、傲慢な方法によって。
 もともと自分たちは身よりのない兄弟だった。頭も良くてひとあたりも良い弟とは違い、喧嘩っぱやく乱暴で、取り柄といえば料理くらいの自分がいなくなったところで誰も困らない。
 もちろんそれがどれほど弟を傷つけるか、考えなかったわけではない。たったひとりの肉親を亡くすことに、深い悲しみを抱くだろう。彼もまた同じような気持ちを双子の兄に向けている、となんとなく気がついていたからなおさらだ。
 けれどこのまま過ちを侵してしまうよりは。
 人ならざる道に弟を引きずりこんでしまうよりは、そちらのほうがいいと。
 そう思っていた、思いこんでいた。
 自分と、そして弟が救われるには、「人間」として幸せになるためにはそうする以外ないのだ、と。
 こんな愚かな兄がいたことなどすぐに忘れてくれる。ほかに良いひとを見つけて幸せな家庭を築いてくれる。そう願って、自分勝手な都合を押しつけて、汚らわしい恋のつらさから逃げ出した。

「……ほんと、バカなやつだよ、お前は」

 ぽつり呟き、天へ命をかえしたばかりの神父を、弟を、見下ろした。
 そう、彼は確かに燐の双子の弟だ。いや、そうだった、といった方が正しいかもしれない。

「俺のことなんて憎んで、恨んで、嫌ってくれて良かったのに……」

 そうされるほどひどいことを弟にしたのだ、という自覚は、ある。
 だからこそ、確かに命を捨てたはずの己が、悪魔として虚無界で目覚めたのだろうと思っていた。これは罰だ。弟を愛してしまったことと、弟を苦しめてしまったことに対する罰。
 淫魔として強すぎる力に翻弄され、数多の悪魔に押さえ込まれて蹂躙される。ひとの道にはずれた恋に胸を焦がし、神に背を向けて命を絶った愚者の末路にふさわしい。ひとをやめてもなお、「愛」というものを得ることができない。誰も愛することができず、誰からも愛されない。身体を支配するものは気が狂わんばかりの快楽だけ。
 セックスは好きだ。淫魔となって初めて経験したけれど、気持ちのいいことをしていれば全部忘れることができる。だからそれに没頭して溺れておいた。淫魔らしく物資界で人間を惑わし、女の膣を犯して、男の陰茎に犯される。そうしていると弟のことを、雪男のことを忘れた振りをしていられたのだ。
 膝に抱えていた身体をそっと床へと横たえる。両手を胸の前でくみ、口元を拭って顔を綺麗に整えた。うっすらと、どこか笑っているかのようにさえ見える死に顔。綺麗だ、と素直にそう思った。

 子どもの魔法陣で呼び出されたそのとき、燐は雪男が弟であるとすぐに気がついた。記憶にあるよりも逞しく精悍になっていたけれど、確かにともに生まれてきた片割れだ、と。
 気づくと同時に彼にかけた暗示は、どうやらずっと作用してくれていたうで、結局雪男が燐を兄だと思い出すことはなかった。悪魔に対して防御の堅かった雪男があっさり暗示にかかったのは、ピンポイントで兄の記憶に対してだけ術をかけられるとは思っていなかったからだろう。おそらく彼は、燐に対する感情を誰にも打ち明けることなくいたのだ。自分しか知らないはずのことに対して、初対面で防御できるほうが些か異常である。
 暗示が効かなければ逃げるつもりだった。せっかく雪男は双子の兄から解放され、ひととして生きていたのだ。その時間を壊したくはなかった。けれど幸か不幸か、燐を兄と認識できない雪男を前に、昔命と一緒に捨てたはずの恋心がむくり、と起きあがってしまったのだ。本当に、悪魔となっても自分の愚かさは変わらないらしい。
 散々雪男を誘惑してきたけれど、本当に彼と寝たかったわけではない。口にしてきたとおり、ひどく美味しそうな、極上の精気のにおいは感じていたけれど、今でも燐を想ってくれていることを知っただけで十分だと思っていた。
 弟を想う苦しさから逃げ出して淫魔へと身を落とし、快楽に溺れてきた兄と、兄を想う苦しさと失った痛みに喘ぎながらも人間として懸命に生きてきた弟。こんな自分が雪男に触れていいはずがない。この身体は綺麗なまま、眠ってもらいたい。
 悪魔である自分が神に祈るだなんて笑い話にしかならないが、それでも彼の兄であったものとして、両手を組まずにはいられなかった。
 どうか安らかな眠りが弟に訪れますように。

 血に濡れたまま立ち上がった燐は、もう雪男のほうへ視線を落とすことはなかった。
 この教会は絶えずひとが訪れていた場所だ。きっとすぐに誰かが雪男の亡骸を見つけてくれるだろう。人々から慕われていた弟のことだから、皆に嘆かれ、惜しまれながら送ってもらえるに違いない。その様子を見届けるまでこちらにいてもいいことにしよう、そう思いながら礼拝堂の入り口へ向かっていたところでかたん、と背後で小さな音がした。ひとよりも敏感な耳がそれを拾い上げ、燐はぴくりと肩を震わせて足を止める。
 ささ、という衣擦れの音に重なる誰かの息づかい。横たわっていた何かが起きあがる、そんな気配。
 背後には雪男しかいなかった、そのはずだ。もしや誰ぞが隠れでもしていたのか。動揺しすぎた燐が気がつかなかっただけだろううか。
 そう思い眉を顰めて振り返る。
 途端飛び込んできた光景に、淫魔は言葉を失った。
 ゆうらり、とふらつく身体を長机に手をついて支えながら立ち上がる男。彼の足下には血溜まりができており、黒いため分かりづらいがカソックだって血で汚れている。青白い顔をした彼は確かに、そこで息絶えていたはずの弟、雪男だった。
 どうして、と音にならない声で燐が呟く。雪男と同じほど顔を青くした燐へ、メガネをかけた男は緩慢な仕草で視線を向けた。「また、」と彼は掠れた声で言葉を発する。

「僕を置いていくつもりなの」

 兄さん、と。
 呼びかけられた響きに頭の中が真っ白に染まった。
 どうして、どうしてどうして。
 どうして燐が兄であると思い出してしまったのだろう。いや、死したことで暗示が解けたと考えられなくもないけれど、まず第一に、普通人間は一度死んだら起きあがらない。生き返ることはない。死んだように見えていただけならば話は別だけれど、腹に穴をあけ、血を流して倒れた雪男はどんどんと体温を失っていった。あの冷たさは死人のそれだ。さすがにそれを間違えるほど耄碌はしていない。
 なんで、と震える唇でようやく疑問を紡いだ燐に向かって雪男は一歩、足を踏み出した。もう一歩、手をついていた机から離れて歩を進めるが、ぐらり、と長身が傾きその場に膝をつく。

「雪男!」

 その姿を見て放っておくなどできるはずもなく、慌てて駆け寄ってその身体を支えた。両手にかかる重さに、この存在が幻ではないことを痛感する。
 燐に支えられた雪男は顔を上げ、「血を流しすぎたみたい」と苦笑して言った。その唇の端にちょこんと覗く鋭い牙に気がつき息を呑む。見開いた目で弟の耳を見やれば、明らかに人とは違うほど尖ってしまっていた。

「お前、まさか……」

 鋭い犬歯と尖った耳。それらが指し示す事実に背筋が凍る。なぜとどうして、その二つの言葉がくるくると頭のなかで踊っていた。
 動揺を隠せない燐にすがりながら、雪男は「ねえ」と話しかけてくる。その口調は神父オクムラとしてのものではなく、遠い昔、まだふたりが普通の兄弟であったころのそれだ。

「部屋に連れて行ってくれないかな。少し休めば大丈夫だと思うから」

 苦しそうな顔で求められ、もはや思考活動を放棄している燐は素直にその言葉に従った。大きく育った弟の身体を支えて、彼の寝室へと向かう。距離としては五十メートルもないような移動が、今の雪男には堪えるらしい。青白い顔のままぐったりとベッドに身体を横たえた。
 そうなりながらも雪男は、燐から手を離そうとはしない。かたく握りしめられた手を見下ろし、雪男を眺め、燐は途方に暮れるしかなかった。

「聞きたいけど聞くのが怖い、」

 って顔してるよ、と弟に指摘され、息を詰まらせて唇を噛む。
 そう、怖いのだ。
 これから突きつけられるであろう事実が予想できているからこそ、怖くて仕方がない。できれば今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。
 けれどしっかり握り込んでくる手が、逃亡を許してくれそうもなかった。逃がすものか、と怒りすらにじんだ視線に突き刺され、身体を強ばらせた燐の前にするり、と伸びてきた黒い何か。
 それは尾だ。
 黒くて長い、人間には決してあり得ない尻尾。
 ああ、と絶望に悲鳴をあげる。
 自分が悪魔になってしまったことは仕方がない、と受け入れることができた。これは罰なのだと思っていた。今でもそう思っている。けれどどうして雪男までそうなってしまっているのか。もしかしたら自分のせいだろうか。弟への気持ちを断ち切ることができず、未練がましくつきまとっていたせいで、彼がこちらへ引きずられてしまったのだろうか。
 血の気の失せた顔をする燐を見上げ、雪男は横にしていた身体をゆっくりと起こした。先ほどまでの気分の悪さは多少和らいだらしい。ベッドのふちに腰掛けた状態で、燐の腕を引く。そんな顔しないで、と腰に抱きついてくるその腕は、身体は、先ほどまでの冷たさが嘘のようにとても温かい。
 そう認識すると同時に、堰をきったかのように燐の両目から涙が溢れてきた。ぼろぼろと泣きながら、ごめん、と悪魔は謝罪を口にする。

「ごめん、ごめんなさ、い……っ」
「どうして兄さんが謝るの?」

 僕がこうなったのは兄さんのせいじゃないのに、と言って、雪男は優しく燐の背を撫でた。とん、とん、とん、と背を叩くリズムが心を揺さぶる。次から次にこぼれてくる涙は止まりそうもなかった。
 違う、と燐はしゃくりあげながら言う。
 もちろん死んでも死にきれないほど後悔はある、申し訳なくて仕方がない。弟までも悪魔となってしまったことに、深い悲しみを覚えている。
 けれど違うのだ。この涙は、悔しさや悲しさによってうまれてきたものでは、ない。

「っ、お、おれ、うれしぃ、んだ……っ、お前は、悪魔なんか、になって、つらいだろう、って分かってんだけど、でも……っ」

 たとえどのような姿になったとしても、こうして雪男が生きてくれている。雪男の手が温かくて、ただそれだけのことが、涙が出てくるほど嬉しくて仕方ない。
 ごめん、と泣きながら謝る兄(今ならば彼がそうであるとはっきり認識できる、今まで分からなかったのが不思議なくらいだ)を座ったまま見上げ、それは違うよ、と雪男は静かに口を開いた。

「確かに僕は神父として毎日祈ってた。でもそれは神にじゃない、あなたに、だ」

 首から十字を下げて生きたものの、神という存在を信じていたわけではない。雪男にとって「神さま」はたったひとり、亡くした兄だけだったのだ。だからこの姿になってつらいだなんてかけらも思わない。神に顔を向けられないとも思わない。むしろ嬉しいくらいだ。こうなったからこそ、燐に触れることができる。「人間」の世界にある道徳、倫理観に捕らわれることもないのだ。

「僕たちはもともと親がいなかったでしょう? もしかしたら片方が悪魔だったのかもしれないね」

 顔も名前も知らない両親だ。今まで人間として生きてきたため片方が人間であることは間違いないだろうが、もしかしたらもう片方は悪魔だったのかもしれない。混血として生まれてきたから、人間としての身体が死んでも悪魔として生きているのではないだろうか。
 そんな推測はいくらでもできる。けれど考えたところで何が真実なのかは分からない。今はただ、ふたりが悪魔としてここにいるという事実だけあればそれでいい。
 ねぇ兄さん、と涙で濡れた燐の頬へ手を添え、視線を合わせる。もういいでしょう、と。

「もう、何もないよね?」

 ふたりを縛り付けるものはもう何もない。何かに捕らわれることなく、自由に、想いのまま言葉を紡いでもいいはずだ。
 そう向けられた言葉に、燐は鼻をすすったあとふるふると首を横に振った。ここにきてまでまだこの腕を拒否するというのか、逃げだそうとするのか、と雪男の顔が曇ったのも一瞬のこと、「雪男がいる」と燐は涙声で言った。

「何もなくなんてない。俺にはお前が、たったひとりの、双子の弟が残ってる」

 燐には雪男が。
 そして雪男には燐が、残っている。
 この存在さえあれば、それでいい。
 堪らず燐を抱きしめ、今までずっと言いたくて言えなかった言葉を囁いた。





ブラウザバックでお戻りください。
2015.02.20
















死んでも兄さんを離しません(物理的に)。