「ブリリアント・ワールド」の続き。 ビューティフル・ワールド 依存ではなく共存を。 お互いがいなければ立つこともままならないけれどそれでも、互いに手を取り合って前に進みたい。 神には祝福されないその関係を、複雑な胸中を隠して黙認してくれた養父。彼にはどれほど感謝をしても足りない。いつか必ず恩返しをしたい、口にはしない兄弟共通の想いを、父はなんとなく感じていたようだ。だったら、と笑いながら両手を伸ばし、力強くわしわしと双子の頭を撫でて言う、「幸せになって笑ってろ」と。 「お前らが幸せになってくれることが一番の恩返しだ」 それに勝る喜びはないのだ、と血の繋がらない、けれど心の繋がった父は笑った。 そんな養父の気持ちに報いるためにも、そして何よりふたりで幸せになるために今できることといえば、日々を一生懸命に生きることだろう。 雪男は一人前の祓魔師となるために切磋琢磨し、燐は失っていた時間を取り戻すために勉学に励む。ようやく再会できた兄弟と離れる時間が長いことはひどく息苦しいが、それもこれからのためだと思えば仕方がない。ふたりで話し合ってそれぞれ頑張ろう、と我慢することに決めた。今まで通り土日だけ顔を合わせる生活だけれど、会うことができる幸せはほかの何にも代え難い。 「雪男! お帰り!」 「ただいま、兄さん」 ぱったんぱったんと、尻尾を大きく振って出迎えてくれる兄に、笑顔で挨拶を返す。何の用事もなければ金曜の夜から戻ってくることもあったが、学校の課題や祓魔師の任務が重なると土曜の午前中になってしまう。一刻も早く兄に会いたくて朝食を抜いてしまうため、戻ってきたときにはだいたい空腹だった。 そんな弟のために、兄はいつも張り切って昼食を用意してくれている。 「あのな、雪男、俺な、スープ! スープ覚えたんだ!」 荷物を置きに部屋へ戻る間も、ダイニングへ移動するときも、燐はとにかく雪男のそばから離れようとしない。一週間の出来事を、一生懸命話そうとしてくれるのだ。ふたりとも携帯電話を所持しているが、通話代だって馬鹿にならない。普段の連絡はメールだけにしており、それだって、燐がまだ操作に不慣れなためあまり頻繁には交わせないのだ。 どんなスープが作れるようになったの、と問えば、ええといろいろ! と返ってきた。どうやら、テレビでスープの特集番組を見たらしい。様々な種類の野菜を一度にたくさん取れるため、栄養面でも優れた料理なのだ、と。 「雪男が病気になったらいけないから食わせてやるんだっつって、まあ、この一週間、スープ尽くしだったぞ? こんなに種類があることも初めて知ったよ」 修道士のひとりが苦笑しながらそう教えてくれた。彼はおそらく燐が作ってくれたスープを一通り食べているのだろう。何てうらやましい、と眉間にしわが寄る。 「昼はさっぱりしたものが良いかなって、きのことワカメのスープにしたけど、夜は雪男の好きなの作るぞ! なあどれがいい? 雪男、どんなスープ食べたい?」 そう言われても、彼のレパートリーを知らないため答えようがない。ええと、と困っていたところで、件の修道士が「燐」と彼を呼んだ。 「一昨日作ってくれたやつ、何だっけ。貝のさ、クリームの」 「クラムチャウダー!」 「そうそれ。雪男、魚介系好きだしあれも好きだと思うぞ。おれももう一回食いたい」 燐があまりにも雪男のことばかり話すものだから、今や修道院中に雪男の好物が知れ渡ってしまっている。気恥ずかしいやら嬉しいやら、修道士たちに申し訳ないやら、とても複雑な気持ちだった。 貝とか最近食べてないなぁ、と雪男も頷けば、「じゃあ、あとであさり買いに行く!」と燐が言う。夕飯の献立が決まったらしい。マジで美味いから楽しみにしとけよ、と何故か修道士に宣言され、はい、と笑顔を返しておいた。 以前雪男が望んだとおり、帰ってきたときの食事は必ず燐が作ってくれる。というよりも、今では院での料理はだいたい彼が行っているらしい。彼自身作ることが好きだということ、加えその腕前に皆が惚れて頼み込んだそうである。そのかわり、礼拝堂などの掃除当番は簡単なものを割り当ててもらっているのだとか。 普段はほかのものに頼んでいる買い物も、土日は雪男と一緒に行っている。少しずつでも生活に慣れていかなければいけないのだ。近いうちに平日も、修道士に付き添ってもらってではあるが買い物に出かけてみようと思う、と燐は意気込みを見せる。 そうして一歩一歩、前に進んでいく兄の姿を一番近くでずっと見ていたかった、と思うのはわがままでしかないのだろう。たとえ雪男の見ていないところであっても、燐が成長することは喜ばしいことなのだ。その経過をこうしてすべて話をしてもらえているのだから、これ以上を望んでは罰が当たるというもの。 「お昼のきのこのスープもすごい美味しかった。夕飯が楽しみだな」 「俺も! 早く雪男に美味いものいっぱい食わせてやりたい!」 夕飯の材料を買い込んだ袋を抱え、並んで歩きながら交わす会話は尽きない。燐が話すことはどんな小さなことでも聞きたかったし、燐が聞きたいと思うことは何でも話してあげたい。空白だった時間を埋めるかのようにい、とにかく一緒にいられる間はいろいろな話をしていた。 そんななか、「あのさ、雪男」と兄が弟を呼ぶ。真剣な響きを伴ったそれに、なに? と首を傾けた。 「俺さ、祓魔の勉強、ちゃんとしようと思って」 自分よりも背が高くなってしまった弟を見上げ、燐はきっぱりとそう口にする。予想もしていなかった言葉に、「え?」と驚きの声がこぼれ思わず足が止まってしまった。 「兄さん、それって……」 「あ、うん、そんな簡単なもんじゃないってのは分かってる。俺、まだ知らないこといっぱいあるし、読めない字も多いし。でもいつかちゃんと勉強して、父さんや雪男みたいな祓魔師になりたいんだ」 口調から、誰ぞに勧められて言っているというわけではなさそうだ。彼が考え、そう望んで出した希望なのだろうけれど。 買い物袋を持ち直し、再び歩を進めながら「ねぇ兄さん分かってる?」と雪男は眉を顰めて言葉を口にする。 「祓魔師ってことは悪魔と戦うってことだよ。すごく危険なんだ」 もちろんそのことを燐が理解していないはずもない。悪魔と戦うという意味でなら、むしろ雪男よりも彼のほうが場数をこなしているだろう。 しかしそれは燐にとっては地獄のような世界であり、今でも悪夢として彼を苦しめている。ようやくそこから逃げ出すことができたというのに、どうしてまた自ら戻ろうと言うのか。雪男にはまるで理解できない思考だ。 僕は兄さんに危ない目にはあってもらいたくないよ、と帰り着いた修道院の玄関をくぐりながら、兄に懇願する。どうかそんな馬鹿な考えは捨ててもらいたい。雪男は燐がいなければ生きていけないのだ。考えたくはないが、また彼が捕らわれるようなことがあれば、兄弟が引き裂かれてしまうことがあればきっと今度こそ燐も雪男も壊れてしまうだろう。 「兄さんはそうなってもいいの?」 厨房の作業台に買ってきたものをどさり、と乱暴に置き、後ろにいた燐を振り返る。「でも、だって……」と兄は悲しそうに眉を下げていた。 「そうならないよう頑張る、し……父さんはいい考えだって、そうしろって言って、」 「父さんはそうかもしれないけど、じゃあ僕の気持ちはどうなるんだよ!」 兄さんは僕のことはどうでもいいの、と吐き捨てた言葉に、燐はますます顔を歪めてしまった。泣き出す一歩手前のような表情だけれど、泣きたいのはこちらのほうだとも思う。 雪男がどれほど彼のことを心配しているか、まるで分かってもらえていなかったのだろうか。まさか、これほど話をしておきながらそんなことはないと信じたい。誰よりも燐のことを分かりたいと思っているし、自分のことを分かってもらいたいとも思っている。兄も同じ気持ちではなかったのだろうか。 「とにかく、僕は反対だからね。もう兄さんには悪魔と関わってもらいたくないんだ」 燐にはそんな危険な世界とは無縁のまま、穏やかに生きてもらいたい。これから先のことはまだ具体的に考えてはいなかったけれど、彼が安心して生きる場所を自分が作れたら、と思っていた。 燐のしょげた顔を見ているとずきずきと心が痛む。ただ雪男にだって譲りたくない部分はあるわけで、それだけ告げて厨房をあとにした。 ** 「……言い過ぎた、って顔、してるな」 礼拝堂でひとり、ぼんやりとしていると、不意に背後から声がかけられた。気配はあったため驚かない。父さん、と呟いた雪男の隣へ、獅郎はどさり、と腰を下ろす。 「どうして燐が祓魔を勉強したい、って言い出したか、ちゃんと聞いたか?」 尋ねられ、ふるふると首を横に振る。獅郎や雪男のような祓魔師になりたい、というところまでは聞いたけれど、その理由まで尋ねる余裕はなかった。燐のことだ、雪男が聞けばきちんと答えてくれただろう。 そんな息子を見やり小さく息を吐いた獅郎は、「お前を守りたいんだとよ」とそう言った。 正確には雪男を含め、獅郎や修道院の皆、燐に良くしてくれる人々を守りたい、そう願ったのだろう。彼はとても優しいひとだ。心が弱っていた間に多くのひとたちに守ってもらえていたことを、ちゃんと覚えている。そして同じように自分も、と考えた。 僕だって、と雪男は顔を歪めて呟きを零す。 「兄さんを、守りたいんだ……」 あのひとは、たぶん一生分を補ってあまりあるほどの凄惨な体験をしているのだ。それこそ心が壊れて、うまく現実を捕らえられなくなってしまうほどに。これから先死ぬまで、幸せで平和な人生を送っても罰は当たらないと本気で思っている。そしてそのために自分は彼のそばにいるのだ、と。 そんな雪男の気持ちを分かってくれてはいるのだろう。雪男、と獅郎は息子の名前を優しく呼んだ。 「守るってことは、閉じこめるってことじゃ、ねぇんだぞ」 まるで小さな子供に絵本でも読み聞かせているかのような、そんな声音で紡がれた言葉に、ああ、とため息が零れる。ふるふると、首を横に振った。否定の仕草なのか、あるいは何かを追い払いたいが故なのか。雪男の頭の上に、獅郎がぽん、と手を置く。常ならば父にはぐしゃぐしゃと、乱暴な手つきで撫でられることが多いが、今はただそっと触れてくるだけだった。 「燐の力のことを考えればな、あいつ自身、自分のことをよく知る必要がある。そのために祓魔を学ぶってのは、決して悪い手段じゃねぇ」 学んだことをどう活かすかはまた別の問題であるが、無知はそのまま隙を生む。知っていれば避けることのできた危険だって、この先多く横たわっているだろう。 そう、分かってはいるのだ。 やはりどうあっても、彼は一般的な人間とは違う。そしてそのあたりにいる悪魔たちとも一線を画する存在だ。青い炎を持ち、青焔魔の血を引くもの。悪魔という種族について、虚無界という世界について、そして青焔魔という悪魔について、その炎について。知っておかなければならないことも多くある。それらすべてから目を逸らして生きていくなど、おそらく不可能だ。 身を守るためにも祓魔の術を学ぶ、獅郎の言うとおり、それは決して悪いことではない。そう分かってはいても、なかなか感情が追いつかないのだ。 僕は、と呟いて俯いた雪男の前に、腰をあげた獅郎がしゃがみこんだ。両手を伸ばし、雪男の手を握る。「ずっと気になっちゃいたんだ」とメガネの奥の瞳を細め、養父はぽつりと呟いた。 「燐を見つけてからずっと、あいつに掛かり切りだったからな。お前のことまでなかなか考えてやれてなかった」 すまなかったな、と謝られるが、どうして養父にそんなことを言われるのかが雪男には分からなかった。 あの状態の兄を前にすれば、誰だって彼に手をさしのべるだろう。雪男だってそうしていたし、むしろそうしてもらいたかった。そうされるべき存在だったのだ、燐は。 それに、まるで放置されていたというわけでもなかったはずだ。獅郎は雪男のことだって気にかけてくれていたではないか。 そう言う雪男へ、獅郎は緩く首を横に振る。 「俺はお前らが双子だってことを、もっとちゃんと考えてやらなきゃいけなかったんだ。 あんときの燐は確かにひでぇ状態だった。でも、だったら同じくらい雪男も傷ついてたんじゃねぇかってな。燐みたいに、目に見えるようなもんじゃない、もっと深く、見えないところで、燐と同じくらい、苦しんでたんじゃねぇかって」 燐が受けた心の傷は薄れることはあれど、治ることはないだろう。それと同じで雪男の心にもまた、治ることのない傷が残ってしまっている。自分のせいで片割れを奪われてしまったこと、その心を壊してしまったこと。それらに雪男の心が傷ついていないはずがないのだ。 よく頑張ったな、と両手を握りしめられ、喉の奥がつんと痛む。 「燐を守ってくれて、ありがとう」 兄のそばにいること、彼を守りたいと望む心は雪男が自ら抱くもので、誰かにそうしろと言われたからではない。そのことについて兄自身からも感謝を言われる筋合いはないけれど、それでも。 「これからもあいつをよろしくな」 獅郎からの言葉は確かに、雪男の心にじんわりと染み渡る。 支えとなる強さを与えられたような、そんな気がした。 「燐がお前のことを想ってないなんて、あるわけねぇだろ。あいつ、お前がいない間、ずっとお前の話してんだぞ。金曜は朝から浮かれっぱなしで、月曜はお前を送り出してから半日以上はどんよりしてやがる。こんだけ全力なんだ、そこは信じてやれるだろう?」 な? と顔を覗きこまれ、雪男はこくりと頷いた。 いい子だ、とでも言うかのようにぽんぽん、と二度、両手を叩かれる。 「燐の気持ちを聞いやれ。そんでふたりで話をしろ。そうしなきゃ始まらねぇんだ」 大丈夫、お前たちならできる。 獅郎は、にかっ、と彼らしい笑みを浮かべきっぱりと言い切るのだ、「何せ俺の自慢の息子たちだからな!」 ** 父の優しく、力強い言葉に背中を押され、燐が籠もっているというふたりの部屋の扉を開けた。きぃ、と軋むドアの音にベッドの上にいた兄が、弾かれたように顔をあげる。 雪男、おれ、と身を乗り出して口を開く兄を制し、「今ね、父さんに怒られてきたよ」とその隣に腰掛けた。雪男の言葉に「なんでっ!?」と燐は驚きの声をあげる。 「雪男、悪くねぇじゃん! 俺が悪いんだって、俺、父さんに言ってくる……っ」 慌てて立ち上がろうとする兄を留め、「先に僕の話を聞いて?」と座るように求めた。 「さっきのはね、やっぱり僕が悪かったんだ。兄さんだってちゃんといろいろ考えて、それでそうしたいって思ったことなんだろうし、そういうのも聞かずに一方的に自分の気持ちばかり言っちゃうのは良くないことだよ」 だからきちんと聞かせてもらいたい。 燐が祓魔を学ぼうと思った理由を。 学んで、そうして祓魔師になるその理由を。 燐の口から、燐の言葉で。 真っ直ぐに彼を見つめて言えば、燐もまた逃げることなく正面から受け止めてくれた。俺な、と雪男の手を握って兄は言う。 「雪男を守りたい。雪男が好きなみんなを、守りたい」 まだ雪男のことを双子の弟だ、とうまく理解できていなかった頃、一度だけ雪男の学校へ行ったことがある。そこで自分の知らない世界が広がっていること、雪男には雪男の世界があることを目の当たりにし、ひどく衝撃を受けた。 その出来事がふたりの関係と状態を進展させるきっかけとなったが、やはり燐の心にずっと引っかかっていたそうである。 自分などいなくとも雪男の世界は成立するのだ、と突き付けられたのだ。 「でもさ、そんないっぱいいるひとたちのなかから、雪男は俺を選んでくれた。俺が一番って、そういうことだよな? それってさ、すげーことじゃねぇかなって、思ったんだ。雪男の世界に俺しかいなくて、だったら俺が一番なのも当然だけど、俺以外にもいっぱいいるのに、そのなかでも俺が一番って、すげぇ嬉しいじゃん。そう思ったらさ、なんか、もっといっぱい頑張らなきゃって、思ったんだ」 雪男がいつでも選んでくれるような、そんな俺になりたい。 語彙の少ない彼の言葉は、とても幼く、だからこそ真っ直ぐだ。真剣に自分のことを、雪男のことを、そしてこれからのことを考えているのが伝わってくる。 「もし、雪男が絶対にだめって言うなら、祓魔師になるのやめるし、勉強もしない。雪男がやなことは俺、したくない」 そうしたい、と願う気持ちはもちろんあるが、燐のなかでもっとも優先させるべきは弟の幸せだ。壊れてしまった燐の心をずっと支えてくれていた、今も支えてくれている雪男のために燐は生きているのだから。 そう言う燐へ、雪男は静かに首を横に振った。ごめんね兄さん、と燐の手を握りかえし、口を開く。 「やめる必要はないよ。ごめん、僕が恐がりなだけなんだ」 活発で明るい兄と、泣き虫で臆病な弟。たとえ空白の数年があったとしても、その図式は変わっていないらしい。兄さんがまたいなくなったらって思うと怖くてたまらない、と雪男は苦しそうに呟いた。 「それにたぶん、兄さんが言った『僕の世界に俺しかいない』ってやつ、そのまま兄さんの今の状態だよ」 徐々に広がりつつはあるけれど、燐の世界はまだとても狭い。関わりのある人間の数も少なくて、だからこそ彼の青い瞳が雪男を捕えてくれているのだろう。 これは彼が祓魔を学び始めるということに限らず、今後すべての活動においていえることだ。もし燐の世界が広がり、新しい関係を築き、もっと良いひとと出会ってしまったら。雪男以上の誰かを見つけてしまったら。 もちろん物理的に攫われてしまうということが一番怖いけれど、心理的に離れていってしまう可能性だってあるわけで、そうなってしまうともう雪男にはどうしようもないのだ。 そうならないために頑張る、という燐の強さがまぶしくて、羨ましい。 弱くてごめんね、と眉を下げて謝れば、燐にぎゅう、と抱きしめられた。彼はその姿勢のまま「俺だって怖い」と呟く。 「俺は雪男じゃないとだめ、だけど、雪男は俺じゃなくてもいいし、いつか、俺の事邪魔になるんじゃないかって、いつも、こわい」 ずっとこわい、と。 少し震える声で告げられたそれは、兄の本音だ。兄弟の一線を越えてしまった夜にも聞いた言葉。あの時と同じように雪男が口を開こうとしたところで、「でも」と燐は言葉を続ける。 「雪男が、言った。どんな世界でも、絶対、俺を選ぶって。俺がいるから、世界が明るいんだって」 だから、その言葉を信じている。 それだけなのだ。 「俺もな、同じ。ずっとずっと、俺のまわりは、悪魔とか、血とか、やな匂いとか、そんなのばっかりで、暗くて息もできないような世界だったけど、雪男がいるだけで、きらきら綺麗なとこになる。雪男がいなきゃ、だめなんだ」 たとえこの先どんなひとと出会おうと、どんな世界が広がっていようと、燐が手を伸ばす先には必ず雪男がいる。燐の生きる世界は雪男の生きる世界なのだ。 その言葉を信じてはもらえないだろうか。 そう、兄は言う。 「ヤな夢だってまだ見るし、目の前が真っ赤になって何も見えなくなることもある。でも、頭のなかがぐちゃぐちゃになったとき、絶対思い出すのは雪男の顔なんだ。ゆきが、『兄さん』って呼んでくれるのが聞こえて、ああ俺大丈夫だって、思う。雪男が抱っこしてくれるから、大丈夫だって思うんだ」 この細い身体を支えられるのなら、いくらでも彼を呼ぼう。柔らかな心を守れるのなら、いつだって抱きしめよう。 ぎゅう、と同じほど強く兄を抱きしめ返せば、「ほらな」と燐は笑った。そうして雪男の肩に頬を摺り寄せ、言うのだ。 「俺、もっと頑張る。俺も、雪男のそういう存在になりたい。雪男が怖くなくなるよう、もっともっと頑張るからな」 紡がれた言葉にずきずきと心臓の奥が痛みを訴えてくる。唇を噛み、兄さん、と燐を呼んだ。頭を上げ、兄の顔を覗きこむ。見上げてきた青い瞳は透き通っており曇りがない。修道院にやってきたばかりの頃のような虚ろさはなく、きちんと雪男の姿を捕えてくれているのだ。 そのことがただただ、嬉しい。嬉しくて、幸せだ。 もう十分頑張ってるよ、と囁き、額を摺り寄せた。 「僕も大丈夫だ、って思うよ。何があっても、大丈夫。だって僕には兄さんがいるから」 お互いの姿を見失っていた頃とは違う。ぽっかりと胸に空いた穴をそのままに生きていた頃とは違うのだ。 今はこうしてお互いの瞳にお互いをうつすことができる。 見つめ合い、言葉を交わし、抱き締めあって、そうしてキスをすることができるのだ。 しっとりと触れ合わせた唇が離れ、正面に最愛の顔を据えてふふ、と双子の兄弟はよく似た笑みを浮かべた。 ともに歩む未来のために頑張る、とふたりでそう決めたではないか。 その未来こそが、ふたりにとってもっとも輝かしく、美しいものに違いないのだから。 ごめんね兄さん、と雪男はもう一度謝罪を口にする。 「大変だとは思うけど、祓魔の勉強も頑張ってね。僕も協力するよ」 でも兄さん一つだけ言っとくね、と、燐の顔を見つめながら雪男は言葉を続けた。 次に何かあったときには、僕も一緒に行くからね。 ブラウザバックでお戻りください。 2015.02.27
もう「僕も連れて行って」とは言わない。 |