「甘い罰」の続き。 両手が欲しい。 とん、とアスファルトを蹴る音。普段気配を殺し、隠れて生きているため、できるだけ物音を立てない癖がついてしまっているはずの彼だったが、今はそれを気にしている余裕がまるでない。息を切らし、青ざめた顔をして細い路地を駆け抜ける。 そのことに気がついたのは五分ほど前のこと。彼と彼の双子の兄は、以前所属していた組織から追われる身である。捕らえられたらおそらく双方の命はない。そうと分かって捕まるわけにもいかず、定期的に滞在地を変えて逃げる日々。 常に気の抜けない状態に疲れを覚えないはずもないが、幸いなことに彼の兄は疲労とは無縁の状態であり、彼もまた一般的な人間よりも頑丈な身体を持っていた。 何しろ彼ら双子の兄弟は悪魔である。その上兄である燐は今現在物理的な身体を持たず、青い石に魂を封じられている状態。石を所持している弟、雪男と感覚を共有することはできたし、ときどきは意識を交換して雪男の身体を使うこともできる。ふたりで一つの身体を動かしつつ、燐の身体を取り戻す方法と、兄弟で静かに暮らせる場所を探しながらの逃亡生活だ。 そろそろ次の町に移動しよう、そんな話をしていた矢先のことだった。 ふたりの行く手を遮るように現れた追っ手。相手が人間であれば命を奪わない程度に加減をしながら戦わなければならないため、少々面倒だ。悪魔であるなら強制的に故郷に送り返してしまえばいいし、最悪祓魔してしまえばいい。祓魔師として積んだ実戦経験を踏まえて悪魔の能力を駆使すれば、大抵の追っ手は双子の相手にならなかった。 油断をしていたわけではない。現に追っ手からは逃れることができている。ただいつもよりも少し、相手に悪魔が多かった、ような気がする。派手に動きまわって飛び跳ねてしまったことが悪かった、のかもしれない。 追いかけてきていた祓魔師をまいて、ようやく一息をついたところで胸元にあるはずの鼓動が消えていたことに気がついた。雪男は外を出歩くとき落とさないように、と兄の魂を鎖にかけ、首から下げて胸ポケットにしまっているのだ。 慌てて首を撫でるが、石を繋いでいたはずのチェーンまでもそこから消えてしまっている。 失くした、という事実を認識し、さっと血の気が引いた。 燐の魂が石になってしまったのは、彼が処刑を受け入れたせいだ。雪男に何の話をすることもなく、あっさりと己の生を諦めた。一言、ごめん、と謝罪だけよこされたときの雪男の気持ちは、きっと誰にも理解してもらえないだろう。兄を失ってしまうということに、絶望よりもさらに深い闇を垣間見た。 これでまた彼を失うことになったら、確実に雪男は虚無界に落ちる。一度は燐が魂をかけて物質界に止めてくれた心であったけれど、その枷がなくなってしまえばあとはただ真っ逆様に転がり落ちていくだろう。 ひゅ、と喉の鳴る嫌な音が聞こえる。どくん、どくん、と鼓動が緊張と動揺から徐々に早くなっていくのが自分でも分かった。そもそも兄がいないのにどうして雪男の心臓が動いているのかが分からない、彼がいなくなってしまえばこれもすぐさま止まらなければおかしいとさえ思う。 脳が真っ白に染まりかけ、一瞬何も見えなくなったところで何とか歯を食いしばって踏みとどまった。落ち着け、落ち着け落ち着け、と繰り返す。 落ち着いて、冷静に考えなければならない。どこで石を落としてしまったのか、どこで兄と離ればなれになってしまったのか。その可能性があった場所はどこなのか。 落ち着いて考えれば、その気配を探れば分かるはずなのだ。なぜなら雪男と兄は通じている。感覚を共有しているのだから。何より燐が雪男をひとりにするはずがない、そう思うけれど、前はあっさりと捨てられかけた。(燐は違うと言うけれど、雪男にはそうとしか思えなかった。) ざわり、と首の後ろがざわめく。心の奥から、一度は封じ込めた黒い感情がわき起こってくる気配を覚え、走りながら首を振る。 それはまだ早い、これを解放するのはまだ先だ。確実に燐を失ったことが分かってからで遅くない。 額に汗を浮かべ、追っ手から逃げるために一度通った道を逆走する。 このあたりで悪魔に上空から襲われた。 後ろに飛び退いて攻撃をよけた。 体術で応戦した。 聖水弾をよけるために建物の影に隠れた。 自分の行動を一つ一つ思い出しながら、激しく動いた箇所を重点的に視線を巡らせ、燐の気配を探る。どうしよう、どうしよう、子供のように同じ言葉ばかりが頭の中をくるくると回る。焦りと恐怖に喉がひきつる、鼻の奥がつん、と痛んだ。どうしよう、泣きそうだ。 年甲斐もなくじんわりと滲んだ涙と、ばくばくと壊れそうなほど動く心臓を無視して、音にならない声で燐を呼ぶ。 兄さん、と。 必死なその想いが伝わったのか、あるいは近づいてきていただけなのか。 ちかっ、と心の片隅に青く光る何かを捕らえた。 青、青だ、兄さんの光だ……! そこからはもう、雪男の目に周囲の景色はまるで入ってこなかった。自分がどこをどう走ったのかも分からない。ただひたすらに燐の光だけを追いかけて、ようやくたどり着いた先。それは路地の突き当たりにあるビルの隅だった。 ちかっ、ちかっ、と光るイメージが近くにある。けれど雪男の目には入らない。 どこだ、どこにいる、兄さんはどこ!? 必死になって探り、どうやら頭上に気配があることに気がついた。上を見上げる。広がる夜空のほかにビルの側面に走っている雨樋が視界に飛び込んできた。ほかの手段を考えることもせず、騎士團より持ち出した銃で雨樋を破壊する。ころころと転がり落ちてきたそれに言葉もなく飛びついた。 『雪男!』 ぎゅう、と石を握り込んだままうずくまる。ようやく取り戻せたという安堵感はまだやってこない、ただただ怖くて怖くて仕方がなかった。 『カラスみたいな鳥に咥えられてさー、こんなところまでつれてこられちまったぜ』 いやー参った、と呑気に兄が言っているけれど、雪男の耳には届いていない。ただ小さく良かった、とそう呟いた。 「良かった……兄さんが無事で、ほんとに……っ」 雪男にとって燐がすべて。 この命は兄のためにある。 兄とともに生きるためにあるものなのだ。 石を握りしめたまま、震えてその恐怖を吐き出す弟に、けれど兄は何もしてやることができない。 彼の魂はここにあるとはいえ、青く冷たい石のなかに封じられてしまっている。 雪男、と彼は静かに名前を呼んだ。 弟にしか聞こえない声で、兄は言う。 『今ほど本気で戻りたいって思ったことねぇわ』 戻って、お前を抱きしめてやりたいよ、雪男。 ブラウザバックでお戻りください。 2015.01.19
自分の両手で。 |