鐘を鳴らして・1


 目と目があったその瞬間にリンゴンと鐘が鳴る――
 などと、一昔前の少女漫画でもあるまいし、今時どころか、古今東西現実世界でそんなことがあり得るわけがない。たとえそれがあると主張している人間がいたとしても、今までのユーリならばきっぱりと「勘違いだろ」とそう否定していた、否定できていたのだが。

「…………ありえねー……」

 呟いた声は弱く、さわさわと春の風の吹く中庭の空気へ静かにとけていった。
 誓っていうが鐘は鳴ってない。鳴ってはいない、はずだ、たぶん、おそらくは。ただ、それに近い衝撃はあったが。ついでにもう一つ声を大にして誰かに主張しておけば、ユーリは決して男が好きという性癖は持ち合わせていない。恋愛ごと自体にさほど興味を持てない性格をしていたが、それでもいいな、と思う相手は今まですべて当然のごとく異性だった。
 ユーリ自身少し中性的な顔立ちをしている(らしい)ため、男から秋波を向けられたことがないわけではなく、またそういった性癖のひとたちを差別するつもりはない。それはそれとしてありだとも思う。
 が、まさか自分がそちら側の人間であった、など。

 合格通知を受け取った高校の入学式。もともと高校自体に行く気はさほどなかったが、どうしても出なければならない理由がユーリにはある。だから仕方なく向かったその先。新入生のクラス編成の張り出された掲示板の前、たむろしている人々をかき分ける気にもならないが、それをしなければ自分がどこへ行けばいいのかも分からない。しばらく人が収まるのを待つため、正門わきに植わっていた桜の下で降り注ぐ花弁を見上げていたところ、不意に同じように桜を見ている人物がいることに気がついた。
 今日は一般の授業はないはずで、学校にいる在校生は生徒会やらのメンバ、つまり入学式で何らかの係を担っている者たちだ。彼らは皆一様に左腕に腕章をつけているため、一目でそれと分かる。腕章をつけていないその人物はユーリと同じ新入生なのだろう。

 桜の木々の間から降り注ぐ太陽の光を反射し、きらきらと輝くその金の髪の毛がただ素直に綺麗だ、とそう思った。
 ユーリの視線に気がついたのか、それとも偶然か。
 彼(そう、その人物はまぎれもなく男、だ)がこちらへ視線を向け。
 頭上に広がる空と同じくらいに、いやもしかしたらそれ以上に透き通った綺麗な青い目に射ぬかれ、びくり、と身体が硬直した。

 そのときはどうして自分がそんな反応を示してしまうのかまったく分からず、半ばパニックに陥っていた。視線を外すこともできず、見つめあった状態だったのはものの数秒だったと思う。先に動いたのは相手の方で、どうしてだかこちらへ近づいてくる。歩くたびにきらきらと揺れる髪の毛がやっぱり綺麗だ、とそんなことを思ったのはきっと、どうすればいいのかが分からなかったが故の現実逃避だったのだろう。
 しかし、その男がこちらへ辿りつく前に、横から掛けられた声に彼の意識は向いてしまった。視線が外れたと同時にユーリの硬直も解け、息を整える前にその場を逃げ出す。その後の入学式には出る気も起らずそのまま帰宅し、ユーリの高校進学を望んでくれていた保護者たちの遺影の前で神妙に手を合わせて謝罪しておいた。

 欠席した生徒へ律儀に連絡し、日課を伝えてくれた担任はきっといい人なのだろう。そういえばクラス表も見ないままだったな、と自分がA組であることをそのとき初めて知った。明日は出席できる、と答えてしまったため、行かないわけにはいかず、教室に向かって愕然とする。
 あろうことか、あの男が同じクラスにいたからだ。
 その可能性を全く考えていなかった自分に驚きながら、そもそもどうしてそこまで彼を意識しなければならないのかに疑問も覚える。たかだかクラスメイトの一人や二人、ユーリにとってはどうでもいい存在であるはずで、気にする必要もない。
 ぱちり、と意識して思考を切り替え、教卓にある座席表で席を確認、どうやら新学期らしく名前順に席が振っていあるらしい。相変わらずクラスで一番後ろの位置にある自分の名前、窓際の一番後ろというある意味ありがたい席。入学式に現れなかったクラスメイトを見る奇異の視線を掻い潜ってとさりとカバンを下ろすと、ユーリは周りを全てシャットアウトするように窓の外、グラウンドへと目をやった。

 これから先、高校生活に何らかの楽しみを見出そうとは思わない。ユーリの目的はただ一つ、卒業すること、それだけだ。もはや今の自分にできることはそれしか残されていない、と思いつめているのかもしれない。
 しかし、それがなければきっとまともに高校生などやろうとは思わなかった。
 やはり感謝をするべき、なのだろう。孤児であったユーリを引き取ってくれた老夫婦。短い期間ではあったが、本当の親子のように接してくれた優しい彼ら。高校進学のための学費としてはかなり多い金額をユーリ名義で遺してくれており、二人の希望を聞いていた身としては真面目に卒業する以外の選択肢を選ぶ気にはなれなかった。
 気の合う友達が欲しいだとか、部活に専念したいだとか、そんな感情はまったく湧いてこない、せいぜいが生活費を稼ぐためのバイトを探さなければ、という程度。あとは適当に、無難に、多に埋没するように学生生活が送ることが出来ればよい。

 人の名前を覚えることは苦手で、クラスメイトたちでさえ未だに覚えていないものもいるが、あの男の名はフレン・シーフォというらしい。制服を着崩しているユーリとは異なり、きっちりとボタンまで締め、眼鏡をかけた彼は見た目通り生真面目な性格をしているようで、クラス委員まで引き受けているのだとか。耳に入った女子たちの会話では、新入生代表の挨拶も彼だったそうだ。
 絵に描いたような優等生。人当たりも良く誰にでも平等で優しいため、彼の周囲には常に人が絶えない。時折ふとした瞬間にじ、と見ていることがある、逆にじっと見られていることがある気もするが、気のせいだと切り捨てておいた。





***   ***





「何考えてるかちょっと分からないところあるよね」
「でも優しいよ。こないだ荷物運ぶの、手伝ってくれたし」
「休み時間とか放課後とかすぐいなくなっちゃうけどね」

 昼の休み時間、何を見てるの、と言われ、自分がクラスメイトの男子生徒へ目を向けていたことに気がついた。いや、と誤魔化そうとしたところで不意に立ちあがった彼が、無言のまま教室を出て行く。
 思わず視線で追ってしまったフレンへ、女子たちが口々にその彼のことを教えてくれた。まとめれば愛想は悪いけど、悪い人ではないということらしい。
 高校生活が始まって一ヶ月。入学式を欠席した彼は、どうにもクラスに馴染めていないように見える。基本的には常に一人で行動し、余計な口を開かない。浮いた存在であるから気にかかるのか、あるいは。

(入学式の日、いたと思うんだけどなぁ……)

 確かにあの日、黒髪で紫の瞳の綺麗な彼を見た気がする。桜の花びらが舞う中、真っ直ぐにこちらを見ていた。おそらくはフレンではなく別の何かを見ていたのだとは思うが、その視線が、瞳があまりにも綺麗で思わず見とれてしまったのを覚えている。
 友人に呼ばれ目を離した隙に彼はいなくなってしまっていたが、翌日始業時間間近に現れた彼を見てかなり驚いたものだ。
 少し仲良くなってみたい、という思いもあった。どんな人物なのだろう、と興味もあった。

「ローウェルくん、次、移動教室だよ」

 休み時間、前の時間の教科書を机の上に置いたままぼう、と外を眺めていた彼に声をかけて見る。億劫そうに視線を戻した彼は、フレンが持つ教科書へ視線を向けた後、同じものをカバンから取り出して腰を上げた。

「サンキュ」

 一言礼は返ってきたが、それ以上会話をするつもりはないらしい。一人でさっさと教室を出て行ってしまった背中を見やって、一つ、溜息をつく。
 彼に話しかけたところで万事が万事この調子。高校生にもなって他人と一緒に行動しなければ何もできない、と甘えたことを言うつもりもなく、人それぞれの考えがあり彼は単純に一人が好きなのだろう。授業に出ないだとか、何らかの問題行為をしているわけでもないため、これ以上の関わりは余計な世話と鬱陶しがられるだけだと分かる。

(残念、だな)

 その事実に気付かないほどフレンもバカではないが、がっかりする気持ちは拭えない。精々、何か困っていそうなら手を貸してあげよう、そう思うに留めておくしかできなかった。



 中学時代の先輩に誘われ、フレンは生徒会に出入りをしている。来年には役員選挙に出るように、とも言われており、今のうちから作業を覚えておいて損はないだろう。その日は集まりがあったため、軽く見学だけさせて貰い、一般生徒よりも帰宅が若干遅くなった。
 赤い夕陽が空を覆う時間帯、下校する生徒の姿もそれほどない道を自転車に乗って自宅へと向かう。幅が広く流れが緩やかな川に掛かった橋を渡り、河川沿いを南下していた途中、少し先の河川敷に誰かがいるのが目に入った。制服からして同じ高校の男子生徒。足元を走りまわっているのは犬、だろうか。大きな犬と小さな犬と。
 制服のまま散歩に出かけ、その途中で遊んでいるといったところだろうか。そんな推測をしながら通り過ぎようとしたところで、ふいにペダルをこぐ足が止まった。
 徐々に日が沈みかけており薄暗さが辺りに広がりかかっていたが、その男子生徒の顔がはっきりとフレンの目に留まる。
 それは、一人を好むクラスメイト、ユーリ・ローウェルだった。
 制服が汚れるだろうに、構わずに飛びついてきた子犬を抱き上げ、顔を擦り寄せている。頬を舐められ「くすぐってぇよ」とでも言っているのだろうか。遠くて声までは聞き取れなかったが、その表情ははっきりと判別できた。

(あん、な……)

 無愛想でぶっきらぼうで無口な彼は、あんな風に笑みを浮かべるのだ、と。楽しそうな、子供のような無邪気な笑みを浮かべるのだと、初めて知った。
 あまり立ち止まっていても変に思われるだろう、下手をしたら彼に気付かれてしまうかもしれない。半ば放心していた自分を叱咤し、フレンは再びペダルへと足をかける。先ほどよりもスピードを上げて自転車をこぎながら、どうしてだか、内心いらいらとしている自分に気がついた。
 理由は分からない、それでもおそらく、先ほどから目に焼き付いて離れない、彼のあの綺麗な笑い顔に原因があるのだろう、とは思う。

「……笑えるんじゃないか……」

 小さく呟き、フレンは更に自転車をこぐスピードを速めた。




2へ
トップへ
2010.10.29