生きる道の中に・後 意識が浮上したとき、側に覚えた気配は誰よりも求めてやまない相手だった。ぼんやりとした頭のまま眼だけを動かし、室内を探る。覚えはあるが馴染みのない天井は医務室のものだろう。どうして自分がこのベッドに横になっているのか、考え、思いだしたと同時にリウはがばり、と身体を起こした。が、強烈な眩暈が襲ってきたため再びベッドへと逆戻りしてしまう。 「リウ」 吐き気を堪えていれば、察したらしい男の腕が伸びてきた。緩やかに背中を撫で、「ゆっくりでいい」と身体を支えて起こしてくれる。額に浮かんだ汗を拭ってくれたレッシンは、「水、飲むか?」とグラスを差し出した。素直に受け取って口を付け、喉の渇きを癒してからようやくレッシンへと視線を向ける。声音はずいぶん優しかったが、何かを押し殺したような響きをしていると気づいていた。だからきっと彼は怒っているのだろう、そう予測していたが、リウが目にしたレッシンの表情は、何の感情も浮かべていないもの。初めて見るような顔に、ぞ、と背筋を何かが這いあがる。 レッシン、と名を呼ぼうとしたところでグラスを取り上げられ、同時にひゅ、と空を切る音がした。続いてぱん、と乾いた音。左頬がじんと痺れたところで、叩かれたのだと気づく。 「あれ、どういうことだ?」 静かに問うたレッシンが指すもの。ベッドサイドの棚の上に置かれた小さなケース。それは確かにリウの持ち物で、あの日調べて材料を集め、自分で作った粉薬が入っている。 「ユーニスに聞いた、身体によくねぇもんだって。意味分かんなかったから、ルオ・タウやレン・リインにも聞いてきた」 発せられた同族の名前にリウは、は、と顔を上げてレッシンを見やった。そして悟る、彼は何もかもすべてを知ってしまったのだ、と。 リウの身に起こっていたことも、リウが何をしようとしていたのかも、何もかもすべてを。 「なんで、お前は、」 押し殺したかのような、絞り出すかのような声。深い怒りと、その裏にあるどうしようもない悲しみが真っ直ぐにリウを射る。 「そうやって、全部、一人で考えて、全部一人でなかったことにしようとするんだ? なあ、リウッ!」 伸びてきた手に胸倉を掴まれ、ぐい、と引き寄せられた。視線を反らせることを許されず、絶望の淵からレッシンを見る。強い怒りを向けられ、今までならきっと、彼に嫌われてしまうのではないか、と恐怖を抱いていただろう。しかし、今のリウはもはや、何かを感じるだけの気力さえなくなってしまっていた。 もう、どうでもいい。一番知られたくなかったことを、一番知られたくなかったものに知られてしまった。焦点も合わず曇った瞳のまま、「そうするしか、ねーじゃん」とリウは呟く。 「今はそんなことに構ってられる状態じゃねーっての、レッシンだって分かってるだろ?」 残された偽書の確保を協会よりも先にしなければならない、そのために何としても書の在り処を探らなければならず、可能性のある場所には積極的に捜索へ出かけている。人手はいくらあっても足りない、そんな中。 「避妊忘れてできちゃいましたー、なんて、バカな理由で、抜けられるとでも思うか?」 乾いた笑いを張りつかせ吐き捨てるリウへ、レッシンは眉を寄せて唇を噛む。そもそも彼はスクライブが男でも子を孕むということを知らなかったのだ、それをあえて言わなかったのはリウであり、この件に関しての責任は一切リウが持つべきだと思う。だからこそ、レッシンにはなにも言わなかった。知らなければないことと同じ。あとはリウ一人、子を殺した罪を抱えて罰を受ければいいだけのこと。 「たとえ今生んだとしても、面倒見るだけの余裕もねーしな」 緩く首を振って言えば、「……そんなに欲しくなかった、ってことかよ」とレッシンは低い声で唸る。 それは違う、と否定をすることもできない。愛するひととの間にできるものを望まないわけがない。そうすることによって、多少なりともレッシンとの結びつきが強くなれば、それはまたリウにとっても幸せなこと。 しかしそんな本音を口にすることもできない、これもまた罰の一つなのだろう。 そう思ったところで、「良かったな、お前の思うとおりになって」とレッシンは口にする。 「……なに、」 「だから、子供。ちゃんと堕りてるらしいぞ」 安心しろ、と吐き捨てられた言葉に込められた軽蔑。それに心を痛めることも忘れ、告げられた言葉に頭が真っ白になった。 「っ、ちょ、っと、まって、レッシン、なに、それ、どういう、」 震える手を伸ばしてレッシンの腕を掴めば、レッシンは「お前が望んだんだろう?」と怪訝そうに眉を顰める。 「オレとのガキなんか欲しくねぇんだろ? 今はそんな場合じゃねぇんだろ? 面倒みきれねぇんだろ? だから殺そうとした……あれを飲んで」 ちらり、と棚の上の小箱に目を向けて言ったレッシンの言葉に、「違うっ!」というリウの叫びが重なった。 「違うっ、違う、違う違うっ!」 レッシンの手首に爪を立てて、ぶんぶんと首を横に振る。今までの投げやりな反応とは異なり、強い感情のこめられたそれにレッシンが小さく首を傾げて、「リウ、」と名を呼べば。 「オレ、まだそれ、飲んでない!」 顔を上げ、涙を浮かべたリウが必死の形相でそう叫んだ。 「……飲んで、ない……?」 ぎりぎりと、肌に爪が食い込む痛ささえも忘れ、レッシンは呆然とリウを見やる。そんな少年を前に、リウは感情のまままくしたてた。 「調べて、材料揃えて、作ったけどっ! 飲まなきゃって! 飲まないといけねーんだって、ずっと、思って、たけど、どうしても飲めなかったっ!」 お前との子供だぞ、殺せるわけねーじゃんかっ! 緑の目から涙を零し叫んだリウは、そのままレッシンに縋るようにくずおれる。震える身体、悲痛な叫び、リウの言葉がすべて事実である、と痛いほどに語っていた。 未だにレッシンは現状を上手く把握できていない。とどのつまりはどういうことだろうか、とベッドに泣き崩れているリウを見下ろして思う。スクライブが男でも発情期中に交われば子を成すのだ、ということは聞いた。おそらくリウもそうなっているだろう、と予測もできた。そんな彼が倒れ、そして何か隠していそうなザフラーとユーニスを脅して事実を吐き出させ、リウが持っていたという堕胎を促す作用のある薬を見せられた。 子供を殺したのだ、と。 その事実に頭の中が真っ赤に染まって、腹立たしくて仕方がなかった。 確かにリウが言うこともまた一理ある。現状、二人の間に子供が出来たとして、父親であるレッシンはまだしも、母親となるリウは自由に動けなくなるだろう。団の参謀である彼の行動が制限されることは非常によろしくなく、レッシンでさえも推測できることを、参謀自身が気づかないはずがない。 分かりはする、のだ。リウが取ろうとした行動も、仕方がない、と思う自分もいる。しかしそれでもやはり感情では全く納得ができない。理解ができない。そもそもどうして父親である自分を蚊帳の外に置いて物事を進めようとするのか。どうして一言も相談することなしに、すべてを決めてしまおうとするのか。子供を堕ろす、という判断を下したことよりも、むしろそちらの方がレッシンにとっては許せないことだった。 しかし現実はどうだろうか。 リウは薬を飲んでいない、とそう言って泣いている。どうして泣いているのか、何をそんなに悲しんでいるのか。 考えるまでもない、彼の意図の外で子供を失ってしまったから。 「リウ……」 声を上げて泣く彼に、自分は一体どれほどひどいことを言ったのか。謝らなければならない、謝って許してもらえるかは分からない。けれどきっと、殺せるはずがない、と言った子供を失って泣き叫ぶ少年を受け止め、同じ傷を抱えてやれるのはレッシンだけなのだろう。 「リウ」 震える背中へ腕を回し、レッシンはリウをぎゅう、と強く抱きしめた。 *** *** 結局、子供が流れてしまった原因は胎児側にあったのではないか、というのが医者の言。確率的に起こりうることであり、誰が悪いわけでもない。リウが倒れた原因もそれとは関係なく(大きく言えば関わっているのかもしれないが)、疲労によるものが大きいだろう、とザフラーは言う。 子供の父親がレッシンであったことを、ザフラーとユーニスには伝えてある。流産したばかりの母体へ精神的ショックを与えるとは何事だ、と泣き疲れ眠ってしまったリウの側で散々に絞られた。この点に関しては全面的にレッシンに非がある。悪かった、とうなだれ、反省をし、でも、と顔を上げた団長の目には変わらずに強い意志が込められていた。 「こっから先、あいつを支えられんのはオレだけだ」 だから誰が何と言おうと側を離れるつもりはない、と。 きっぱりと言ってのけるレッシンに、結局は医者と看護師が折れる形となる。 怪我人や病人が多く訪れる医務室では落ち着かない、と眠っているリウを起こさぬよう団長部屋で運び、誰も側に寄らないように、と通達を出す。例外はシトロの幼馴染二人で、彼らには少しだけぼかして話を伝えておいた。妊娠をしていた、という事実を他人に知られるのを、おそらくこの参謀はひどく嫌がるだろう。それを告げるべき相手を決めるのはレッシンではなくリウだ。 リウが起きたら話を聞いてみてくれ、と。 常になくリウの意思を尊重するレッシンに何か感づくところでもあったのだろう。言いたくないなら言わなくていいし、だからといってどうこうなるわけでもない、そのようなことを二人は言ってくれた。それはまたリウに対するだけのものではなく、参っているレッシンに対する気遣いでもあったのだろう、とそう思う。 リウが悩んでいることにも気付かず、彼の気持ちも考えずに感情のまま怒りをぶちまけた。医者たちにはああいったが、目覚めたリウが、そんな男の側は嫌だ、と言いだしてもおかしくないだろう。だからといって手放せるかと言われれば首を横に振るが、拒絶される覚悟はしている。 シーツの上に投げ出されたリウの手は相変わらず細く、血色が悪い。そっと指で触れ、反応がないことに怖くなってぎゅう、と握ってみた。 「リウ」 その声が届いたのだろうか、ふるり、とリウの睫毛が震え、そのあとゆっくりと瞼が持ち上がる。まだ半分ほど眠りの世界にいるのだろう、とろり、とした視線を彷徨わせたあと、レッシンを見つけたリウはみるみる両目に涙をためる、そして、囁くような声で言うのだ、「ごめん」と。 「ごめん、れっし、ん、ごめ、ん、ごめんな、さ……っ」 震える唇から紡がれる、魂をすりつぶして発しているかのような謝罪の言葉。こめかみを伝い落ちる涙をそっとぬぐい、リウの頬を撫でたレッシンは、「謝るのはオレのほうだろ」と首を振った。悪かった、ごめん、許してくれ。謝罪の言葉はいくら口にしても尽きない。ベッドへ腰掛け、リウを覗き込んで静かに謝る。 「考えれば、分かりそうなもん、だったのにな」 リウが身ごもった子供を殺せるわけがない、と。 たとえ合理的な判断を求められようとも、結局この少年はひどく優しいのだ。授かった一つの命を自らの手で摘み取るなど、リウができるはずもないのに。 「ほんと、悪かった。お前一人に、きついこと全部、押し付けて、そのくせ、なんも考えず、怒鳴り散らして」 上体を屈め、額を擦り寄せて絞り出すような声で懺悔する。そんなレッシンへ、「でも、」とリウは歪んだ表情のまま、小さく言葉を返した。 「だって、レッシン、知らなかった……オレが、言わなかった、から……」 「そこはどうでもいい、知らなかったからって、何してもいいわけじゃねぇだろ」 そもそも発情期中の性交を避けようとしていたリウを、無理やり抱いたのはレッシンだ。知らなかった、では済まされないことだって世の中には多くある。もう一度悪かった、と謝った後、レッシンはリウの両頬を包み込むように手を添え、「なぁ、リウ」と涙で潤んだ瞳を覗き込んだ。 「オレも、お前のこと、何も考えずに、一人で突っ走るの、なんとかやめるようにする。だからさ、頼むからさ、お前もオレを置いて一人で考えるの、やめろ」 いつもの彼らしくもなく、切々と告げられた言葉。なあ、と喉を震わせて、レッシンは哀願する。 「お前の中からオレを追い出すな。 お前の側にオレがいることを忘れるな。 これから先、 お前の生きる道の中に、オレを入れてくれ」 そう口にするレッシンの手が微かに震えている。ぼんやりと見上げる彼の目もまた同じように潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。マジほんと頼むから、とレッシンが目を閉じれば、ぱたり、と水滴が頬に落ちてきた。 その温かさにリウは再びじんわりと涙を滲ませる。 「っ、ご、めん、ごめん、な、レッシン」 今度の謝罪はまた先ほどとは意味が違う。何も言わなくてごめん、一人で決めてごめん。やはり自分は、いや自分たちは子供なのだ、とリウは思う。子供ができる、ということは結局、自分ひとりのことではなく、その相手も含めての出来事なのだ。それに対して口を閉ざしたままでいるというのは、相手に対する気遣いにはまったくもってならない。そのことにどうして気付かなかったのだろう。 「……なあ、リウ」 二人でひとしきり静かに涙を流し、緩く身体を被せて横になったままのリウへ抱きつきながら、レッシンは言った。 「全部、終わったらさ」 協会との戦いも何もかもがすべて綺麗に片付いて。 とりあえず重たい荷物を全部おろすことができたらそのあとで。 「また、子供、作ろうぜ」 その時はきっと、今はそんな時ではないだとか、まだ子供すぎるだとか、そういった問題もきっと解決されているはず。 そんで二人で育てよう、と。 まるで誓いの言葉を告げるかのように囁かれた言葉に、リウは目を閉じこくり、と頷いた。 胸に掛かる重さと体温とにこれだけ安堵する相手の子供を拒否する理由など、あるはずがない。 ←前へ ↑トップへ 2010.09.07
軽々しく書くネタじゃない、と重々承知はしております。 リクエスト、ありがとうございました! |