ブリリアント・ワールド 11


 週末、任務に出かける前の養父と軽く話をしたが、雪男を訪ねて以来燐は元気がないままだという。まだちょっと早かったかもしれねぇな、と獅郎はひとりで行かせたことを後悔しているようだ。
 しかしたぶん原因は雪男にあるのだと思う。何かをしたか、言ったか。クラスメイトが現れて以降の変化であったため、そのあたりに原因があるのかもしれない。

「……ねえ燐、僕、何かしたかな」

 望み通り燐手製の夕食を出してもらえ、それはそれでとても嬉しかったし美味しかった。獅郎から雪男は魚が好きだと聞き、メニューも焼き魚メインで考えてくれたらしい。
 泊りがけというからには多少厄介な任務で、この修道院にいた部下数名も養父と共に出ている。ふたりほど修道士が残っていたが、兄弟水入らずの方がいいだろうと気を遣ってくれており、食事の後はそれぞれの部屋へと戻ってしまった。
 美味しい、と口にすれば嬉しそうに笑ってくれるが、まだどうにも影が見え隠れする。原因が自分にある以上何とかしなければならないだろう、と片づけを終えて燐を伴い部屋へと戻ってきた。遠回しに尋ねる言葉も見つからず、直接彼に問うてみる。

「燐を怒らせたり、悲しませるようなこと、何かしたかな」

 心当たりがないというのが情けないが、それでも原因が分からなければ対処のしようもない。燐をベッドに腰掛けさせ、自分は勉強机の椅子を移動させて腰を下ろす。燐、ともう一度名前を呼んで促せば、「ご、めん」と謝罪が零れ落ちた。
 彼もまた自分が落ち込んでいること、態度がどこかおかしいことを自覚しているのだろう。謝ってもらいたいわけではないが、それでも彼以外にその気持ちを口にできる人物はおらず、「何が『ごめん』?」とその先を尋ねた。

「俺、さ、あの、おれ……」

 間を空けてぽつりと零された言葉に耳を疑う。
 雪男の邪魔をしたくない、と燐はそう言った。
 一体、誰が邪魔をしているというのだろう。

「そんなこと、思ったこともないけど……」

 あまりにも意外すぎて、きょとんとしたままそう言えば、「うん、分かってる」と燐は俯いていた顔を上げて笑みを浮かべる。雪男は優しい、と口にする彼のその顔はしかし、何かを諦めたかのような、寂しさを含んだ表情だった。

「でもいつか邪魔になるときがくる。……だって、俺はどうしても雪男を探してしまうから」

 そう口にする悪魔は、もしかしたら雪男たちが思っている以上にしっかりと現実へ心を取り戻せているのかもしれない。自分が今何を欲しているのか、理解した上でそれではいけない、と気が付いているのだ。それに比べ、雪男は自分自身の感情が分からず、曖昧なまま燐と接している状態。このままではいけない、と燐のことも含めてそう思わなければならないのは雪男の方なのかもしれない。
 きつく眉を寄せた雪男の前で、燐はその両手をじっと見下ろしている。美味しい料理を作ったり、庭の掃除をしたりする、働き者の手だと雪男は思っているが、燐にはそう見えないらしい。未だに彼は自分を汚いものだ、という男の言葉に囚われている。
 ほんとは触りたくないんだ、とぽつり紡がれる言葉。汚れた手で触れてしまえばその相手も汚してしまうに違いない。

「燐の手は汚れてない」

 腰を上げ、ベッドの側に膝を下ろして彼の手を取る。すごく綺麗、とその指先にキスを落とせば、泣きそうな顔をしてありがとう、と燐は礼を口にした。

「獅郎が、言うんだ、俺の手が汚れてるなら、自分のもきっと汚れてる、って」

 悪魔を狩る行為を繰り返すという点では、祓魔師である獅郎だって同じだ。

「ああ、だったら僕もだね」

 まだ実戦経験は少ないが、それでも悪魔を殺したことがないわけではない。僕の手は汚れてる? と問えば、燐はふる、と首を横に振った。

「戦って、大切な何かを守るために、手を汚すんだ、ってそう言ってた。だから、」
 だから俺も戦うなら守るためがいい。

 悪魔を殺すことならば燐にもできる。もし今後また悪魔と戦わなければならないのなら、それは大切な誰かを守るためでありたい。今までのように誰かに命じられてのことではなく、自分でそうすると決めたいのだ。

「優しいことのために、力を使いたいんだ」

 あの男がやってきたとき、獅郎も雪男も、ほかの修道士たちも皆が戦っていたことは覚えている。それは燐を守るためだということも分かっている。そんなひとたちを、大切なひとたちを燐だって守りたいとそう思うのだ。
 それなのに。

「よくねぇ、って、分かってる、んだ。雪男に、迷惑かけちゃいけないって、獅郎、心配させちゃ、いけないって。でも、」
 怖く、て。

 夢を見る。すごく嫌な夢だ。それがただの空想の世界ではなく、実際に体験したことなのだと思えば、怖くて震えが止まらなくなる。何かに縋りつきたくて、何かに抱きとめてもらいたくて、そうして探すのが、どうあっても雪男の腕なのだ。
 どれだけ怖くても辛くても、今まで誰も燐など気にかけてくれなかった。そもそも怖いだとか辛いだとか、思う心さえ麻痺してしまっていた。
 肩から血を流す雪男を見たとき、悪魔を殺せと命じていた男に会ったとき、嫌だ、怖い、と思った燐を抱きしめてくれたのが雪男だった。
 だから、どうしてもその腕を求めてしまう。
 毎夜脳内で繰り広げられる光景を思い出してしまったのか、ふるり、と身体を震わせた燐は、自分で腕を抱いて「だめ、こわい」と呟いた。

「きもち、わるい、血の、匂い、が、手が、どろどろで、きたなく、て、なんで、俺こんな、ことしてんのかな、って、やらなきゃ、いけないのか、分かんなく、なって、でも、」
 ゆき、が。

 僅かに錯乱したまま、まとまりなく吐き出される言葉たち。意味を理解する前に両腕を伸ばし震える身体を抱きしめていた。燐、と耳元で名前を呼ぶ。名前を呼んで背を撫で、大丈夫だからと囁くそれは、本当に彼を落ち着かせたいがためだろうか。ただ雪男ではなく「ゆき」を求める言葉を、聞きたくなかっただけではないだろうか。
 そんなことを思っていれば、「ほら……」と幾分落ち着きを取り戻した燐の声が鼓膜を震わせた。

「そうされたら俺、縋っちゃうんだ、雪男に……」

 言いながらきゅう、と背に回された腕が服を引っ張る感触を覚えた。途端心の中に沸き起こる感情は、安堵と歓喜。
 縋ってもいいのに、と思う。
 むしろ自分にだけ縋って欲しい、とそう思う。
 雪男のそんな傲慢で、独占欲溢れる感情を燐が知ればどう思うだろうか。
 抱きしめる力を強めた雪男の腕の中で、「俺、バカだから、」と燐は言葉を続けた。

「ここにいれば、大丈夫、って」

 そう覚えてしまった。出来の良くない頭は、一度思い込んでしまえばなかなかそこから抜け出せないのだ、と燐はそう言う。

「……でも、雪男、は……」

 燐の世界は今のところこの修道院で終わっている。少しずつ広がってはいるが、言葉を交わしたことのある人物などたかが知れている程度。それでいいと思っていたし、正直これ以上広がるのはまだ怖い。ここで燐に笑いかけてくれる修道士たちと、頭を撫でてくれる獅郎と、抱きしめてくれる雪男がいればとりあえずはいい。
 けれど雪男はそうではないということを、この間気が付いてしまった。
 彼の世界は燐が知らぬほど広い。雪男だけでなく獅郎を含めた他のものたちもそうなのだろう。けれど、雪男の世界の欠片に少しだけ触れ、急に怖くなった。
 燐には雪男たちしかいない。この修道院がすべてで、彼らから手を振り払われたらもうどうしたらいいのか分からなくなる。それこそ以前と同じような暮らしに戻るしかないかもしれない。もしそうなった場合今度こそ治る余地もないほど、燐の心は粉々に砕けてしまうだろう。

「俺は、雪男から、離れられない」

 危ないとナイフから庇ってくれた背、大丈夫と握ってくれた手、怖くないよと慰めてくれた体温、汚くないよと抱きしめてくれた腕。それらすべてを失う日が来るかもしれない。手を離さなければならない日がくるかもしれない、そう思うだけで脳がぐらん、と嫌な揺れ方をする。
 ごめん、と燐はそう言って泣いた。まだ自分はどこか少しおかしいのだ、と。

「雪男が、いなくなるの、やだ……でも、雪男が大変なのも、やだ」

 ふるふると首を横に振って紡がれる言葉、これ以上に雪男のことを想ってくれているものはないだろう、そう思う。

「な、雪男、俺、邪魔なら、捨てて、いいからな?」

 自分からこの手を離すことはできないから。両手を広げてくれまいかと期待し、そうなれば喜んで飛び込んでしまうから。
 もしこれから先雪男の人生において燐という存在が重たくなるのなら、その時は捨て置いてくれて構わない、と。
 燐らしい、優しいその言葉はけれど柔らかく雪男の心を抉る。雪男の望みを彼は知らない。誰よりも愛しいこの悪魔が、これから先ただ心静かに笑顔で暮らしていけたらもうそれだけで良いというのに。
 双子は魂を共有するものだ、と聞いたことがある。それならば、生まれた時からこの腕はもとより雪男のすべては燐のためにある。彼が笑うためにこの身体が必要だというのならばいくらでも差し出すだろう。
 燐、と名前を呼び、胸に埋まっていた顔を捕える。
 額、目じり、頬と順番にキスを落とし、まだきつく握りしめられたままのその拳へも唇を押し当てた。
 この手がもう何も、彼自身さえも傷つけることがないような日々、それが雪男の唯一の望みだ。

「それだけは、絶対にない」

 燐を捨てるなど、ありえない。むしろ縋りついているのは雪男の方だ。燐のように「邪魔なら捨てていい」と言うことさえできないほどに、側にいたいと思っている。

「たとえ、この先どんな世界が広がっていても、僕は必ず燐のいる世界を選ぶ」

 より光り輝いている世界を選ぶのは当然のこと。
 そうでなければ生きている意味などないではないか。 
 ほかの何よりも燐の方が大切で、燐のことが好きだよ、と紡ぐ言葉と同時に、ふたりの唇はまるでそうなるのが当然とばかりに触れ合っていた。

「……キス……分かる?」

 吐息が触れるほどの距離で静かにそう尋ねれば、燐はおずおずと首を縦に振る。日本ではあまり見ないが、頬へのキスならば親愛の印として家族間で交わすこともあるだろう。しかし唇へのそれは、家族ならば逆にしないであろう行為。
 柔らかくて、しっとりとしたそれをもっと深く味わいたい、とそう思った。彼に対して抱いてはいけない劣情であると、頭の片隅では理解している。進んではいけない、そんな理性の叫び声は「ゆきお」と燐の口から零れた音にかき消されてしまった。
 それが幼い弟のものではなく、自分の名前であるのだというだけで、嬉しくて仕方がない。
 燐、と名を呼んで、もう一度唇を合わせた。
 彼はこの行為を、雪男が欲しているものをどこまで理解しているのだろうか。ほんとに分かってる? と少し震える声でそう尋ねてみる。

「僕は今、すごく燐が欲しい」
 繋がりたくて、仕方がない。

 できれば、と雪男は思う。燐の方からとどまってくれないか、と。
 もう雪男は自分を抑えることができそうにない。だって欲しいのだ、男だとか実の双子の兄だとか、その事実がひどく些細なことであるように見えるほど、腕の中の存在を自分のものにしてしまいたいという欲望が渦巻いている。燐の方から引いてくれさえすれば、きっと止まることができるだろう。いくら燐を抱きたいと思っていても、彼が嫌がることはしたくない。
 けれど、そんな自分勝手な思いは燐の小さな言動ですべて吹き飛んでしまうのだ。
 ふる、と小さく首を横に振ったそれは、拒否ではなく嫌ではないのだ、という意思表示。

「雪男が、欲しいって言うなら、全部、」
 あげたい。




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2012.06.05