ブリリアント・ワールド 13


 意識が浮上し、側にある温もりに気が付くと同時に喉の奥がつん、と痛んだ。身体を起こして寝息を立てる燐を見下ろす。じんわりと滲んできた涙が零れぬよう、きつく眉を寄せて堪えた。燐がここにいるのだという嬉しさと、どうして自分を抑えきれなかったのかという後悔。どちらかといえば後者の方が比重が大きいかもしれない。
 昨夜、雪男は己の兄と身体を繋げた。
 相手は覚えていないとはいえ、そして雪男自身あまり記憶がないとはいえ、血の繋がった兄であることに変わりはない。
 その燐を組み敷いて、犯した。
 本来そう使うべきではない箇所に欲望を捻じ込み、唾液を交わしながら何度も何度も。

「……ッ」

 信じられないくらい気持ちが良かった。これが本来あるべき姿だったのだ、と思ってしまうほど。他の誰かとセックスをしたことはなく、自慰行為程度しか知らぬ身体ではあったが、それでも想像していた以上の快楽で、ゆきお、と泣いて縋ってくる燐が可愛くて、止められなかった。
 見下ろした両手が微かに震えている。
 これは同性間でするものではない、ましてや血の繋がった兄弟で行うなどあってはならぬことである。
 何よりも、彼は雪男に縋ってばかりではいけないと、その足で立とうとしていたのだ。それなのにもっと自分を頼ってくれまいか、縋ってくれまいか、自分だけを見てくれまいかと、そんな感情に動かされるまま燐を抱いた。彼の努力を、頑張りを、雪男の腕がすべて壊してしまったのだ。燐の不安や寂しさを拭うためならば、もっと他の手段があっただろうことが自分でも分かる。たとえ無理やりことに及んだわけではないにしても、それでも燐のためを想うのならば雪男が留まらなければならなかったのだ。
 燐を抱きたい、と思った感情は本物だ。好きだと思う、守りたいと思う、誰よりも大事で、誰よりも愛おしい。だからこそ、欲望に突き動かされるまま、差し出されたものを貪ってしまった。そんな彼をこれからも求めてしまうだろう自分がいるからこそ、どうしよう、とそう思う。

「――ッ、ごめん、ごめんね、燐……」

 綺麗で真っ直ぐな燐。
 自分は汚い、と口にする燐は、実際には誰よりも綺麗なままなのだ。雪男を好きだと言ってくれてはいたが、その言葉には雪男のようなどろどろとした欲望は張り付いていなかったのかもしれない。雪男しかいないのだ、と縋り付いてくるその腕に甘え、拒否できないのをいいことに醜い欲望をぶつけてしまった。そうしてこの綺麗な存在を己の腕の中に引き止め続けるためにはどうしたらいいだろう、と更に酷いことを考えてしまう。
 燐の優しさと寂しさに付け込む行為、これでは燐を捕え利用していたものたちのことを罵れない。

 きっと雪男は、燐の未来を奪う。魔神の落胤であるためいろいろと辛いことも多いだろうが、それでも彼を理解してくれるひとは現れるだろう。そんな人たちと力を合わせ、彼自身の足で進む、そんな光景を養父は望んでいるのだ。燐のためにもそれが一番良いのだろう、と分かる。
 けれど繋がる喜びを知ってしまったこの身体は、魂は、そんな未来など要らないとばかりに叫んでいる。燐に手を差し伸べる存在は自分ひとりでいい、他の腕など要らない、彼は雪男に視線を向け、縋ってくれていれば良いのだ、と思ってしまう。そのためには、燐の心が弱いままであってくれていいのだ、とさえ。
 なんて傲慢で、醜い心なのだろう。悪魔のようだ、というのなら燐よりもむしろ雪男の方がそれに近いかもしれない。救いたいと思っているはずなのに、それはもはやただの建前に過ぎないのではないだろうか。
 燐のことは好きだけれど、だからこそその手を取ってはいけなかった。彼のためを想うのならば絶対にしてはいけなかったのに、甘すぎる誘いを振りきれなかった。雪男の心が弱いばかりに、また彼を傷つけてしまうことになるだろう。そのことが情けなくて、謝罪の言葉を止められなかった。

「ごめん、ごめんなさい……」

 温かなその手を握りしめて紡ぐ声の合間に、「ゆき……?」と小さな呼びかけが入り込む。涙の滲んだ目を向ければ、まだ半分ほど眠っているのかぼんやりとしたような表情の燐がこちらを見上げていた。ふらり、と身体を起こし、「ゆき」と燐は口にする。

「ゆき、泣くな、もう、泣くなよ」

 にーちゃんがついてるから、とくしゃり、と頭を撫でられ、滲んでいた涙がほろり、と零れた。
 知っている、のだ。
 この腕を。
 こうして泣いていたときに、自分も泣きそうな顔をしながら、懸命に雪男を宥めてくれた幼い兄の手を。
 雪男は誰よりもよく知っている。

「――ッ、ごめっ、ごめん、兄さん……ごめんね……っ」

 その手を今度は雪男が汚してしまったのだ、そう思えば堪えきれず、ぼろぼろと涙を零しながら言ったところで、「にい、さん?」と燐が小さく声を零した。

「……ゆ、き……?」

 頭を撫でていた手をとめ、首を傾げる。腕を引いて触れていた手を眺め、雪男の顔を見て「ゆき、」と呟いた。少し震えた指先が確かめるように雪男の顔を撫でる。唇を辿りその右下にある小さなホクロと、頬を撫で左目の下に並んだ二つのホクロに触れてくる指。雪男自身あまり好きではないそれらを、幼かった頃兄によく突かれていたのを今、唐突に思い出した。
 おなじいろ、と瞳を覗き込みながら呟いた燐は、そうして今度は自分の身体を見下ろす。
 熱を分かち合い、体液を交わしたそのときのまま眠ってしまっていたため、ふたりとも今何の服も身に着けていない。そしてその記憶が燐にもしっかりと残っているのだろう、あ、と開かれた口から覚束ない声が零れる。
 しまった、と思う間もなかった。

 「ゆき」と、雪男。
 泣いている弟、慰める手。
 流れた時と変わらない魂。
 大事な弟、兄である自分。
 交わした唾液、痛みの残る身体、肌で覚えた熱、何物にも代えがたいほどの安心感、安堵感、このまま死んでも良いと思ってしまうほどの幸福感と骨が震えているのではないかと思うほどの愉悦の波。
 誰よりも大切な弟と、耽った行為。

 燐の中でようやく何かが、あるいはすべてが、繋がった。
 同時に、雪男と同じように彼も気が付いてしまった。
 これは決して兄弟で行ってはいけなかったことなのだ、と。

「あ、あ……」

 乾いた唇を震わせ、呻きを零す燐の真っ青な目が大きく揺らいだ。

 壊れる、

 ひとに対してそんなことを思ったのは後にも先にもこのときだけ。
 雪男は咄嗟に「兄さんっ!」と叫んで燐の肩を掴んでいた。

「お願い、もう僕を置いて行かないでっ!」

 そう言って細い肩に縋り付く、兄さん、にいさん、と今まで口に出来なかった呼びかけを繰り返し、雪男はただひたすら泣いて許しを乞うた。

 ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、にいさん。

「ゆ、き?」
「ごめんな、さいっ、ぼく、がっ、ぼくのせい、で……ッ」

 僕がいなければ、と涙の中絞り出される懺悔。

 僕のせいで兄さんが壊れたんだ……っ。

 その時のことは未だ朧げにしか思い出せていない、けれど唯一はっきりと脳内に蘇る光景、それは懸命に雪男を庇ってくれていた燐の小さな背中。
 彼らが先に狙ったのは雪男の方だった。どちらが炎を受け継いでいるのか分からなかったのか、あるいは偶然か。頭から血を流し、ろくに動けなくなった雪男を置いて逃げることもできず、燐はそのまま連れ攫われてしまったのだ。
 あの時雪男が側にいなければ、怪我を負わなければ、燐は攫われることも、壊れることもなかったのかもしれない。

「僕のせいで、兄さんは連れていかれたんだ……!」

 ごめんなさい、兄さん、と雪男は何も言わぬ燐を抱きしめてそう繰り返す。
 雪男という存在があったせいで、綺麗で優しかった燐の心は壊れてしまった。折角元の姿を取り戻しつつあるというのに、それへ欲望をぶつけてしまったのもまた雪男。守りたいはずの兄を壊す原因はいつも自分なのだ。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 泣き濡れた声はどこまでも切なく室内に響く。
 双子の兄を失い、伸し掛かってきた八年もの間の孤独。愛し、心配してくれる優しい人たちはたくさんいたが、雪男にとって燐がいなければ意味がなかった。
 記憶が混濁したのはもちろん怪我のせいもあるだろう。自分がいなければ燐は攫われなかったかもしれない、という後悔もある。しかし何よりも一番の大きな原因は、側に兄がいないのだという事実に耐えられなかった、だから兄という存在そのものを記憶から消してしまったのだと、そう思う。

「ごめん、ごめんね、兄さん」

 謝るから許してほしい、とは言わない。許されるはずのないことをしてしまったのだと分かっている。
 ただ、それでも。

「もう、僕をひとりにしないで……」
 壊れるなら僕も一緒に壊して。
 お願いだから。

 兄弟で身体を繋げてしまったことが間違いなのか、抱き締めるため腕を伸ばしたことが間違いなのか、再会したことが間違いなのか、離れ離れになってしまったことが間違いなのか。
 あるいは生まれてきたこと自体が、間違いなのか。
 罰ならば受ける、過ちならば過ちで構わない、それでももうひとりは嫌だ。
 喉から血を流しているのではないか、と思うほど悲痛な声でそう叫ぶ雪男の頭をゆるり、撫でる手。ばかだなぁ、ゆきお、と零れた呟きが鼓膜を揺さぶる。促されるまま顔を上げれば、空と海の色を足したかのような真っ青な瞳と目が合った。

「弟を壊せる兄ちゃんが、いるわけ、ねぇじゃん……」

 先ほど揺らいでいたとは思えないほどの強さを持ったそれは、涙で潤んではいたが真っ直ぐに雪男を捕えている。

「ほんと、泣き虫なの、変わってねぇな」

 ゆき。

 正しく自分に向けられたその呼びかけに、また、涙が溢れた。





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2012.06.05