ブリリアント・ワールド 2


 突然変わった生活環境に戸惑い疲れていたのか、悪魔を殺しに行きたいと駄々を捏ねていた彼は今、二段ベッドの下で夢の世界に旅立っていた。
 それで結局どういう子なの、と詳しい説明を求めれば、獅郎は赤くなった目で雪男を見る。どこか寂しそうな、残念そうなその視線に何、と眉を寄せるが、養父は何も言わずに 緩く首を振った。

「あいつはな、七つのときからずっと、悪魔狩りをさせられてたらしいんだ」

 そうして語られた彼の境遇は、雪男が思っていたよりも酷く、悲しいもの。

「悪魔狩りって……あの子も悪魔、だよね?」

 尖った耳と犬歯はそれと知るものにはすぐに分かる悪魔の特徴だ。加え彼の背後に揺れていた黒く長いもの、あれは尾だろう。サイズの大きなコートはそれを隠すためのものだったに違いない。
 やっぱり気づいたか、と養父は雪男の言葉を肯定しつつ、「半分、な。七歳までは普通に人間として育ってたんだよ」と答える。

「ただあいつは、燐は、魔神の血を引いてる」
「魔神の!?」

 突然飛び出た虚無界を総べる王の名に驚いて声を上げれば、「上層部じゃ有名な話だ」と獅郎は言う。それは十六年前の惨劇の話、そうして誕生した魔神の落胤。それが彼だという。物質界に存在できる身体を持ち、その上魔神の青い炎まで引き継いでいるらしい。
 処分されかけたところを何とか生きながらえたは良いが、その生活も七年ほどしか続かなかった。

「魔神の力を欲した馬鹿どもがあいつを攫って利用して、その結果あれだ」

 あれ、というのはつまり、極度の心神喪失状態。言動が幼いのは、その七つのときからろくな教育を受けていないから。とにかくただひたすら悪魔を殺すことを要求される日々を送っていたようだ。

「まさかあんな理由で悪魔退治させてたとは、思わなかったがな……」

 くそ外道どもが、ともともと口の悪い養父ではあったが、本当に腹に据えかねているようで、いつもにもまして荒々しくそう吐き捨てた。七歳の、まだ保護者を必要とする年齢の子供がひとり弟と引き離され、やれと命じられたことが殺戮だというのだから。

「……おかしくもなる、か……」

 現実に意識を置いたままではきっと耐えられなかったのだろう。勝手な想像だが、彼はおそらくもともとがとても優しいひとだったのだ。真っ直ぐに前を見ることのできる性格だったからこそ、直視したものの凄惨さに心が悲鳴を上げてしまった。
 燐にそれを命じていたものたちは、祓魔師の中でも過激派に属する一派らしい。いくら悪魔を祓うことが使命とはいえ、物質界にいる悪魔すべてを根絶やしにすることはできない。養父などはそうする必要もない、と公言しているくらいなのだが、過激派のものたちは考えが違う。彼らは物質界にいる悪魔はもとより、虚無界すらもすべて滅ぼし悪魔のいない世界を作ろうとしているのだ。

「それに魔神の子供を使ってたら意味ないと思うけど」

 思わずそう呟けば、「あいつらにとっちゃただの道具だったんだろうよ」と獅郎が眉を寄せたまま言った。
 言葉を理解する道具。たとえどれほどの力があろうと英雄扱いされることはなく、よくやったと誉められることもない。少年は賞賛すら耳にすることなく、ただ離れ離れになってしまった弟に会いたいがため、悪魔を殺し続けてきた。
 壊れた子供は、とても悲しい子供でもあったのだ。

「八年かけてようやく探し出したが、遅かったのかもしれねぇな……」

 ぽつり、力なく呟く養父に豪胆ないつもの彼らしさは欠片もない。相当燐の状態が堪えているようだ。八年ということは、攫われた当時からずっと探していたということで、もしかしたら以前の、まだ心のある少年の姿を知っているのかもしれない。

「……それは違うんじゃないかな、神父(とう)さん」

 そう言って雪男は少年が眠っているだろう、部屋の方へ視線を向けた。

「だって、燐は今ここにいる。彼はまだ生きてるんだから」

 たとえ人間ではなく悪魔であったとしても、生きているのだからまだ遅いというわけではないはずだ。回復の見込みがあるのかどうかは分からない。しかしせめて周りにいるものがそう信じてやらなければ、燐が救われない。
 その言葉に顔を歪めた獅郎は、先ほど燐の頭を撫でたときと同じ手つきでぐしゃぐしゃと雪男の頭を撫でた。

「ちょっ、父さんっ」
「そうだな、雪男の言うとおりだ」

 お前に諭されるたぁ、俺も年取ったもんだ、と言いながらも頭を撫でる手を退けようとはしない。止めてよ痛い、と文句を口にしつつ、雪男もまた獅郎の手から逃げようとはしなかった。
 雪男がこの年まで生きることができたのは、ほかの誰でもないこの養父のおかげだ。まだ十五で経験も知識も乏しいが、それでも養父の役に立ち、彼を支えることが雪男の生きる目的だった。



 常識的な知識も含め、燐の知能は七つの時からほとんど成長していない。そのため人の社会で生きていけるように、しばらく付き切りで面倒を見ると養父は言う。その間祓魔師としての任務はできるだけ回さないように、と友人でもある日本支部支部長に頼んであるのだとか。

「まああいつがどこまで気ぃ回してくれるかは分からんがな」

 雪男も数度顔を合わせたことがある、その支部長は人間ではなく悪魔だ。気まぐれで自分の望むことを思うまま行動するため、獅郎の要求が完璧に通ることはないだろう。

「でもあいつだって、多少は燐を気に掛けてたからな」

 そろそろ夕食の時間であるため部屋に様子を見に来たが、少年はまだぐっすりと眠ったままだった。起こすのも可哀そうな気はするが、夜眠れなくなっても困る。食堂まで連れてきてくれるかと養父は先に戻ってしまった。
 ベッドの縁に手をかけ、「燐」と名前を呼んだ。起きる気配は見られず、仕方なくその肩を揺さぶる。

「燐、起きて。ご飯だよ」

 肉付きのよくない肩は骨ばっており、きっとこの少年の身体はあちこちが尖っているのだろう、となんとなく思った。うーん、と小さく唸った燐は、ゆっくりと目を開く。

「ご飯。お腹空いたでしょ」

 だから早く行こう、と声を掛けるが、彼の耳に届いているのだろうか。身体を起こした燐はむにゅむにゅと唇を動かした後、抱いたまま眠っていた刀(だそうだ、養父曰く)をきゅうと抱きしめる。そこに刀があることに安心したのか、ようやく顔を上げて雪男へ視線を向けた。

「……腹、減ったのか?」

 どうやらきちんと言葉は届いていたらしい。

「うん、僕はね。燐はお腹空かないの?」
「お腹、空かない……?」

 こてん、と首を右に傾けられる。それを聞いているのはこちらの方なのだが、答えは返ってきそうもなかった。やはり彼とはまともな会話は築けないのかもしれない、と苦笑を浮かべ、「行こう」と手を差し出す。けれどいつまでたっても燐から手は伸びてこず、仕方なく無理やりその腕を引いて立ち上がらせた。

「……悪魔のとこ行く?」
「違うよ、ご飯食べに食堂に行くの」
「……いつ、殺しに行く?」
「今はまだ行かない」

 ご飯食べて、ゆっくり寝た後でね。
 腕を引いて歩きながらそう答えれば、「後っていつ」と返ってきた。

「後は後だよ」

 とりあえず今はご飯、と会話を終わらせようとすれば、「俺、腹、減っちゃいけない」とまた意味の取りづらい言葉が返ってきた。

「減らない、じゃなくて?」
「悪魔だから、飯、要らない」

 そんなわけはない、と思う。確かに人とは異なる生態であるため、すべての悪魔が人と同じ食事をエネルギィとするわけではない。それでも少なくとも雪男が知る限りでは、人型を取る悪魔は人間と同じようにエネルギィを補給していたはずだ。
 悪魔の生命力は人のそれとは比べ物にならない。だからと言って、飲まず食わずでいて平気でいられるとは思えなかった。

「……じゃあ燐はご飯、食べたこと、ないの?」

 そう問えば、「たまに、食った」と返ってくる。その「たまに」がどんな頻度なのか、彼に問うて分かるだろうか。

「今はご飯の時間なんだけど、お腹、空いてないの?」
「……お腹、空いてない?」

 だからそれを尋ねているのはこちらの方なのだ、と言いかけて、無駄だろうと言葉を呑み込んだ。会話ができないわけではないが、時々妙にずれた言葉が返ってくる。彼の相手をするには相当な根気強さが必要だろう。
 燐の境遇を聞けば、できるだけ力になってやりたいと思う。きちんと会話の成り立たない人物を相手にするのは若干の苦痛を覚える行為だが、養父は無理のない範囲でとそう言っていた。基本的に平日は寮で生活し、修道院へは週末に戻って来るか来ないかという程度。この悲しい子供とも、あまり顔を合わせる機会はないだろう。
 それを考えれば、まだ何とか彼の相手もできそうだ、とそう思った。




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2012.06.05