ブリリアント・ワールド 4 寮に戻るのが面倒くさい、と正直に言えば怒られるだろうか。そう思いながら携帯電話を耳に当てるが、コール音が響くばかり。 「……仕事かな……」 どうしようかと迷ったのは一瞬だった。ここのところ悪魔の出現頻度が高く、万年人手不足な祓魔師はほぼ不休の状態で任務に就いていた。雪男もまた例外ではなく、昼間は高校の授業、夜は日が越えるまで悪魔祓いという日々がもう半月以上も続いている。 今日もまた要請を受けて任に当たっており、先ほどようやく悪魔の討伐を終えたところだった。もしただの平日であったのなら疲れた身体を引きずって寮に戻っただろう。しかし幸いなことに今日は金曜日、明日明後日は学校が休みなのだ。祓魔の任務は入ってくるだろうが、高校がないとなれば寮に戻る意味がなくなる。だとしたらここから近い修道院の方に戻ってできるだけ長く休みたい、と思ってしまう程度には疲れていた。睡眠時間は少なくて済む方だったが、連日連夜となればさすがに身体が限界を訴えてくる。 「あ、でも部屋……」 既に寮ではなく修道院へ戻る道を選びながら進みつつ、ぽつり思い出して呟いた。雪男が使っていた部屋は今燐が使っているはずだ。もとはふたり部屋で一緒に使え、と言われていたが、さすがに現在の主が眠っている間にこっそり入り込むのも失礼な気がする。 (ソファでいいか) 院の居住部には、そこで生活するものたちが集まる談話室がある。あまり上等とは言えなかったが長ソファもあるため、そこで仮眠を取らせてもらうことに決めた。 深夜を回った時間帯、さすがに起きている人物はいないかもしれない、と思っていたが、ぼんやりと明りが灯っている窓がある。ここで生活をしている修道士たちはみな祓魔師であり、それぞれ任務に就けば帰宅が遅くなることも珍しくはない。もしかしたら雪男と同じように今帰ってきた、あるいはこれから任務に出かけるということも考えられた。 起きている人がいるなら話は早い、そう思い、誰かは知らぬがその人物が眠る前に、出かける前に顔を合わせておこう、と急いで玄関扉を開いたところで、ゆらり、と廊下を横切る影が目に入る。 「……燐?」 Tシャツにスウェットという寝間着姿で、ふらふらと歩く人物は先日からここで生活をしている少年だ。いつも抱えるか背負っている刀を持つことなく、数歩進んでは足を止めあたりを見回してまた進むことを繰り返している。何かを探しているのだろうか。 「燐、どうしたの? 寝てたんじゃないの?」 明らかに様子のおかしい少年に駆け寄り、その腕を取る。今の今まで外にいた雪男の手よりもひんやりと冷えた手首にぞっとしたものが背筋を這いあがった。 「燐?」 名前を呼んで覗き込むが、彼の瞳は雪男を捕えていない。ゆらゆらと水面のように揺れる目でくるりと視線を巡らし、「どこ?」と燐は小さく呟いた。 「ゆき、どこ?」 一瞬、自分を探しているのか、とそう思った。しかし彼にそのように呼ばれたことは一度もなく、そもそも名前を呼ばれたこと自体がない。覚えてくれているかさえ怪しいくらいだ。そうではない、そうではなく彼が探しているものは。 「ゆき、にーちゃんは、ここだぞ……」 どこにいんだ? と呟いて首を傾げる。手首を掴む雪男の手を振り払うこともなく、ただそこに立ち尽くして繰り返すその名前はおそらく、彼の弟の名前。 「ゆき、どこ? ゆき、ゆき……」 いくら呼べども姿を現さぬ弟に心細くなってきたのか、名を紡ぐ声はもう既に涙で濡れている。ひっと喉をしゃくりあげながら、それでも燐はひたすら弟の名前を呼んだ。 「ゆきっ、ゆきぃ……ッ、どこぉっ?」 「燐……」 泣きながら弟を探し歩く、もしかしたら彼は毎夜これを繰り返しているのかもしれない。そう思えば堪らなくなって、きつく唇を噛んだまま燐を抱き寄せた。 「ひっ、うー……ゆ、きっ、ゆきっ、ゆき、どこ……ッ」 ぼろぼろと涙を零す頭を抱え、宥めるように髪を梳く。なんと言葉をかけたらいいのか分からない、大丈夫いつか会えるから、と無責任に慰めていいものだろうか。呪文のように弟の名を紡ぐ彼にその言葉は届くだろうか。 「ゆき、ゆき、ゆき……」 音に色があるなら、心から流れた血で真っ赤に染まっていそうな、そんな声音。聞いているだけでくらくらと眩暈さえ覚える。 揺れる脳の中、ちらりと見え隠れする朧げな記憶。それを掴むために手を伸ばしていいものかどうか悩んでいたところで、「雪男……!」と名を呼ばれた。振り返らずとも声から養父であることを知る。 「お前、なんで」 「ごめん、ちょっと疲れたから、寮に戻る前に仮眠させてもらおうと思って」 電話したんだけど、と一応の言い訳を口にすれば、「悪ぃ、気づかなかった」と謝罪が返ってきた。しかし今はそのようなことなどどうでもいいのだ。とにかく燐を落ち着かせ、ベッドへと戻すことが最優先である。言い聞かせて何とかなるだろうか、と思ったが、「ゆき、どこ」と顔を上げた少年が再び弟を探しに行こうと身体を動かした。 「そのまま抑えててくれ」 養父にそう命じられ腕を離さないでいれば、若干の衝撃を覚えた後くったりとその身体から力が抜けた。少々荒っぽい手ではあったが、無理やり意識を奪ったらしい。細身とはいえ、ひとひとり分の体重はやはり重たく、倒れぬように踏ん張っていれば横から獅郎が手を貸してくれる。ふたりで部屋まで連れ戻しベッドへ押し込んだ後、「もしかして毎日?」と雪男は尋ねた。 「いや、ときどき、だな」 それを聞いて少し安心した。さすがに毎晩この行為を繰り返していては燐の身体が辛いだろうし、養父もまた精神的にきついだろう。しかしその「ときどき」が起こっているときに偶然にも戻ってきてしまったのだから、タイミングが良いのか悪いのか自分でも分からない。 「……父さん、聞いてもいい?」 もうこれ以上は知らぬ振りはしていられない。どんな事実であるにしろ、知っておかねばとぼけることさえできないのだから。 雪男の言葉に、「弟のこと、だな」と獅郎は低く言って頷いた。 ちょっと燐を見ててくれ、と言い置き、部屋を出て行った養父が手に持ってきたものは、古い一冊のアルバムだった。見てみろ、と促され、椅子に腰を下ろしてページをめくる。 「…………これ……」 中に挟まれた写真は子供を映したもの。どれを見ても必ずふたりの少年が揃っている。空と海を混ぜたような、綺麗な青い瞳を輝かせてピースを向けてくる元気そうな少年。その側には緑がかった瞳を眼鏡の奥で細めて笑う子供がいた。左目の下に二つ、口の右下に一つ。並ぶホクロの位置は見知った、というレベルではない。 「お前だよ、雪男。燐はお前の双子の兄だ」 静かに告げられた言葉に驚きは覚えなかった。むしろやっぱり、とそう納得してしまう自分がいる。先ほど少年の口から「ゆき」という音を聞いたとき、どこかで聞いた覚えがある、そう思ったのだ。幼い頃の記憶がほとんどないにも関わらず、そう呼ばれた過去がある、と。 「燐を見りゃお前も何か思い出すかと思ってたんだがな」 やっぱり八年も離れてりゃ分からねぇよな、と養父は少し寂しそうにそう口にした。 そうして語ってくれたことは、今まで頑なに口にしようとしなかった八年前の出来事のこと。七歳の時まで、身寄りのない双子の兄弟は獅郎を養父とし、共にこの修道院で過ごしていた。雪男の記憶が途絶えたその原因は、燐が攫われた事件にあったらしい。襲撃してきた一派に燐は攫われ雪男は大怪我を負わされ、「マジで俺の人生終わったって思ったな」と養父は苦笑を浮かべて言う。お前が生きていてくれて良かったよ、と続ける声音は、その事件のことを心の底から悔いているのだと分かるものだった。 「燐にこのことは……?」 雪男は兄という存在すら忘れていたため仕方がないだろうが、燐は未だに弟の姿を探しているのだ。ここにいるのだ、ということをどうして口にしないのか。その疑問に養父は悲しそうな顔をして首を振る。 「あいつの記憶は、七つの時で止まってんだ」 燐が夜な夜な捜し歩く「ゆき」は、別れたときのままの七歳の雪男なのである。確かに燐の話を聞いて、彼の弟は幼いものだとばかり思っていた。 「でもそれじゃあ……」 彼の弟が既に死亡している、という最悪の事態は避けられているが、どちらにしろ「ゆき」に会うことができる可能性はゼロだ。何せ、あれからもう八年経っている。燐が探す「ゆき」にも時間は流れ、今はこうして成長してしまっているのだから。 かといってはっきりとそのことを告げ、燐が理解してくれるかどうかもまた分からない。最悪、弟にはもう会えないのだという部分だけを聞いて今よりひどい精神状態になることだって考えられる。 「……本当にすまない。俺が不甲斐なかったばっかりに」 双子の子供に辛い思いをさせてしまっている、と頭を下げる養父に、雪男はゆるりと首を横に振った。 「悪いのは父さんじゃ、ないじゃない……」 きっと彼は彼なりに持てる力を最大限に振って、自分たちを守ろうとしてくれたのだろう。力が及ばなかったからといって、獅郎を責めるのは間違っている。本当に憎むべきは何よりも燐を攫った一派、彼をここまで追い詰めて壊した者たちなのだから。 ねぇ父さん、と項垂れている養父を呼び、雪男は口を開く。 「僕は子供の頃、燐をなんて呼んでたの?」 彼が双子の兄だと聞いた今でも、その頃のことはあまり思い出せていない。けれど、それが事実であるということは本能的に理解できた。アルバムを見る限り、兄弟仲が悪いというわけではなかったのだろう。しゃがみ込んで泣いている雪男と、弟の頭に小さな手を置いて慰めているのだろう燐が映った写真を見ながら尋ねれば、「『兄さん』だったな」と獅郎が小さく答えた。 「双子なのに珍しいだろうが、『兄さん、兄さん』っつって、いっつも燐の後、追いかけてたぞ」 そう教えられ、ベッドに横たわる燐へ視線を向ける。先ほどまで泣いて動き回っていた様子は既に微塵も感じられず、今は死んだように眠っているその姿を見やり、「にいさん」と呼んでみた。 「兄さん」 ああ自分は過去にこの言葉を口にしたことがある。 脳が覚えておらずとも、魂がそれを記憶している。 そう思ってしまうほど、それはしっくりと舌に馴染んだ音だった。 ←3へ・5へ→ ↑トップへ 2012.06.05
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