ブリリアント・ワールド 5


 燐と同じように生まれ育ったが、雪男に悪魔の力は引き継がれていないらしい。少なくとも今は人間の姿のままである。
 そんなただの人間が、自身に襲い掛かる時の流れに抗えるはずもなく、この八年間雪男はしっかりと成長を遂げた。背丈も平均より高く伸びてしまっているため、今では兄である燐を見下ろしている状態。

「……これじゃあ、弟って分かるわけないよね」

 ぽつり呟く雪男の視線の先には、相変わらず花壇に生えている悪魔と格闘している燐の姿があった。この間の除草作業であらかた終わったと思っていたが、燐の目にはまだまだたくさんの悪魔が映っているらしい。

「ゆきお! これ、これは悪魔?」

 しゃがみ込んでそう尋ねてくる燐は、最近ようやく雪男の名前を覚えてくれたらしい。ちょっとゆきに似てる、と紡がれた言葉に思わず泣きそうになってしまった。

「それは芝生だから退治しちゃだめ。こっちの長いのはいいよ」

 燐に任せておくと庭の芝が丸裸になってしまう、と監視役を仰せつかったが、たとえそうなったとしても養父は「良く頑張ったな」と燐の頭を撫でて褒めるだろう。七つの時に別れて以来、注ぐことのできなかった愛情を八年分、これでもかというほど分け与えている。それが燐にどう伝わっているのかはまだはっきりとは分からないが、それでも彼の笑顔を見る機会は格段に増えた。

「ちょっと中に入って休憩、しようか」

 その提案にも、今まではまだ続ける、とぐずっていたのに、少しだけ名残惜しげな顔を見せながらも「うん」と素直に手を取ってくれるようになっていた。

「お菓子食べる前に手、洗おうね」

 燐、と名前を呼んで泥だらけの手を引き洗面所へと向かう。
 まだ彼に対し「兄さん」と呼びかけたことはない。呼んでみたい、そう思うが、きっと雪男が望む反応はないだろう。悪魔を無差別に狩る日々から遠ざかったためか、ここの所夜ふらふらと「ゆき」を探して泣き歩く頻度は減ったらしい。それでも燐が求めているのは七つの幼い「ゆき」であり、成長した雪男ではないのだ。

「洗った!」
「うん、綺麗になったね」

 ばたばたと水滴を落としながら両手を掲げられ、服が濡れるよ、とタオルを手渡す。

「なんで頬っぺたに泥が飛んでるの」
「う?」
「ああほら、動かないで」

 汚れた手で顔に触れたのか、目の下や鼻の頭にまでついていた泥もついでに落とせば、真正面から顔を合わせることになる。相変わらず綺麗な色の瞳だな、と思っていれば、燐もまたじっと雪男の目を覗き込み、「おんなじ」と笑った。

「何が同じなの?」
「目の色! ゆきとおんなじできれい」

 俺その色好き、と本当に嬉しそうに笑うものだから、複雑な事柄を全部すっ飛ばして僕だよ、と言いそうになる。その「ゆき」は僕なのだ、と。
 それをぐ、と堪え、「ねぇ燐」と兄を呼んだ。

「鏡、分かる?」
「かがみ」
「そう、ほら、燐が映ってるでしょう?」

 少年の肩を抱いて洗面台の方へと向かせる。正面には身だしなみを整えるための鏡が据えられており、きょとんとしたような顔をした燐と、どこか苦しそうな顔をした雪男が映っていた。

「俺?」
「そう、燐と僕」

 分かる? と尋ねてみるが、こてんと首を傾けられ、上手く理解できていないのかもしれない。

「燐は小さな頃の自分の顔を覚えてる?」
「ちいさな……?」
「そう、今よりずっとずっと前のこと」

 ずっとまえ、と言葉を繰り返してくれているが、ぴんとは来ていないのだろう。よく分からない、と燐は首を横に振った。
 自分が成長していることが分かれば、弟も同じように育っているのだと理解してくれるかと思ったが、まだ彼にはその言葉は届かないらしい。アルバムを見せてみようか、という話を一度養父としていたが、それは少し危険だろうという結論に落ち着いた。そこに彼の求める「ゆき」の顔があることを知ったとき、燐の心がどの方向へ突き進むかが分からない。せめてもう少し落ち着いてからの方がいい。

「ん、ごめんね、まだ難しかったね。ほら、燐、食堂に行こう? この間美味しいチョコレート貰ったって言ってたから」

 甘いもの好きでしょ、と手を伸ばせば、すき、と笑って握り返してくれる。今はとりあえずこうして穏やかにしてくれているだけで十分だ、と思った方がいいのかもしれない。一度に求めすぎず、まずは燐の心の平穏を。安定してきたら一般常識や知識を徐々に教えて行けば、そのうち自ずと気づいてくれるのではないだろうか。たとえ雪男が「ゆき」であることは分からずとも、己が探している幼い弟はもうどこにもいないのだ、と理解できる日がくるのではないだろうか。
 そうでなければ燐は一生「ゆき」を探すことになる。
 離れ離れになった双子の弟を求めて、泣き歩く羽目になる。
 それではあまりにも燐が可哀そうだ。
 折角、悪魔を殺し続ける日々から解放されたのだ、彼の心は未だ現実を上手く認識できないままだったが、じっくりと時間をかけて心を開いてもらうしかないだろう。

「ただまあ、ちょっと、呑気にしてらんねぇって事情もあんだけどな……」

 甘いお菓子と飲み物に満足を覚えたらしい燐は、そのままこくりこくりと船を漕ぎはじめてしまった。昼寝の時間、ということなのだろう。せめてソファに移動してから、と燐を連れて談話室まで向かい、兄の頭を膝に乗せたまま高校の課題をこなしていたところで、手が空いたのか獅郎が顔を出した。
 先ほどの洗面所での出来事を掻い摘んで話し、まだ早そうだ、ということを伝えれば、養父からそんな言葉が返ってくる。どういうことだ、と眉を寄せれば、獅郎は一度口を開きかけまたすぐに閉じてしまった。言うべきかどうか迷っているのかもしれない。しかしここまで燐に関わってしまっていては、今さらひとり蚊帳の外に置かれるなど冗談ではなかった。父さん、と促すように呼べば覚悟を決めたのか、獅郎はふぅ、とため息をついて口を開く。

「まだ壊滅してねぇんだ、燐を攫った馬鹿どもの一派」

 告げられた言葉は予想外のもの。燐をこうして助け出したというからには、もう既にそういった組織はなくなったとばかり思っていたが。

「その場にいたやつらはもちろん全員捕えた。ただそいつらから聞き出した他の仲間ってのが意外に多い上に、リーダ格を捕えきれなくてな」

 そもそも燐は魔神の炎を受け継いでいる悪魔である。たとえその一派ではなくとも、助け出すことに反対していた祓魔師も多くいたのだそうだ。そういった人々は、炎があるからこそ逆にこちら側に引き込んでおくべきだ、と詭弁をかざしてねじ伏せているが、だからといって協力的になってくれるわけではない。実質燐を攫った一派を追いかけているのは、養父と心知ったその部下たち、そして魔神とも繋がりのる悪魔、騎士團名誉騎士の称号を持つメフィスト・フェレスくらいなのだという。

「俺のところに燐がいることはもう既に騎士團の中じゃ知られちまってるしな。本当はもっとゆっくりできる場所へ匿ってやった方がいいんだろうが」

 それでも養父は、もう二度と燐を手放したくないのだ、と苦しそうな声でそう言った。自分の見ていない隙を突いて息子を連れ攫われ、怪我を負わす羽目になるのはもうごめんだ、と。
 雪男がそうであるのだから、当然燐もまた騎士團最強を誇るこの祓魔師とは血の繋がりがない。それでも獅郎は燐を息子、と呼ぶ。

「またちょっと騒がしくなるかもしれねぇ」
 けどお前らふたりは絶対に俺が守ってやる。

 きっぱりと言い切る養父の姿は、ひどく頼もしく見える。彼は何よりも誇れる自慢の父だ。
 そんな養父がもうこれ以上苦しまなくても済むように、兄がこれ以上悲しまなくても済むように、雪男もまた覚悟を決めて踏ん張らねばならぬときなのだろう。




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2012.06.05