ブリリアント・ワールド 6


 鍵での移動が可能であったとしても、時間に余裕があればできるだけ通常の交通手段を使うようにする。鍵は悪魔祓いの任務においての移動手段であり、日常生活では使うべきものではない。
 その教えに従い、日曜の昼過ぎ、寮へ戻るために雪男は修道院を徒歩で出た。学園行きのバスが近くのバス停から出ており、ひとまずの目的地はそこである。ただ歩くだけというのも時間がもったいない気がして、ついつい参考書を開いてしまうのは癖のようなものだ。一昨日の数学の授業からどうしても一つ引っかかる部分があり、次の授業までには解消しておこうとその問題が解説してあるページを探していたところで、ふと向かいから歩いてきた人物とすれ違った。求めていた数式が目に止まり、雪男の足もその場に止まる。
 どうして自分が立ち止まったのかが分からず、首を傾げて振り返った。茶色いコートの裾を翻す男が向かう先は、たった今雪男が出てきた南十字修道院の門扉。そう気が付いたときには、足が地面を蹴っていた。
 つい先ほどまた来週ねと手を振って別れた燐は、箒を持って玄関を掃除していた。それは門を潜って数メートルほどしか離れていない場所で。

「燐っ!」

 名を叫び慌てて戻れば、茶色のコートが地面に広がっていた。やや離れた位置に転がっている短銃が彼の武器だったのだろう。修道士数名に取り押さえられた男は、「離せっ!」と暴れている。

「気づいて戻ってきたのか」

 養父の言葉に息を切らせたまま、「やな、予感、して」と答えた。敵意や殺気を感じたわけではない、自分でも分からぬうちに足がこちらへ向かって動いていたのだ。

「ちょっと燐についててやってくれるか」

 そう言う養父はおそらく捕えた男の相手をしなければならないのだろう。言われずともそのつもりでうん、と頷いて玄関扉に背を預け箒を握ったまま呆然としている燐に駆け寄った。

「燐、大丈夫? 怪我はない?」

 取り押さえられた位置を考えるに、彼は燐に手を触れることもできなかったに違いない。さすが養父が取り仕切る修道院にいる祓魔師たちだ。雪男が漠然と感じた何かをきっちり捕え、燐に危害が及ぶ前に防いでくれている。
 それでも念のためにそう声をかければ、燐は虚ろな瞳を雪男に向けた。記憶にあるそれは、ここに来た当時に彼が見せていたもの。

「……悪魔、殺しに、いく?」

 ぽつぽつと紡がれた言葉を聞きたくなくて、燐の視界から男の姿を排除するようにぎゅう、と頭を抱きしめた。

「父さん、そいつを早く別の場所に」

 おそらく燐はその男を知っているのだ、姿を見たことがあるのかあるいは直接指示を受けたことがあるのか。折角瞳に光が戻ってきていたのに、男の姿を見たせいで意識が過去に戻ってしまった。
 大丈夫、行かなくていいから、と宥めるも、「やだ、いく、いかない、と、あえない」と燐は首を振って雪男から逃れようともがく。

「ころ、す、あくま、ころして、ばらばらにして、ぐちゃぐちゃに、して、」
「燐!」

 そんな悲しい言葉は彼の口からは聞きたくはない。お願いだから少しじっとしていて、と抱きしめる腕に力を込めたところで、「くそ悪魔がっ!」という汚い罵り言葉が耳に届いた。

「生きてるだけで罪なお前を、使ってやった恩も忘れたかっ!」

 そんな叫びと同時にざっ、と地面を蹴りあげるような音が響く。ふざけたこと抜かしてんな、という養父の怒号、「雪男っ!」と修道士のひとりが名前を叫んだ。男が足を振り上げたのは決して悔しさから地面を蹴ったわけではない、靴の先にでも仕込んでいたのだろう、投げナイフをこちらに向かって飛ばすためだったのだ。

「危ないっ!」

 今から動いたところで、回避も迎撃も間に合わない。そうなれば雪男の取る行動は一つ。

「――――ッ」
「雪男っ!!」

 どす、と右肩に鈍い衝撃があり、じんわりとそこから熱が広がっていく。この肩がなければ燐の首筋にナイフが当たっていた。それを考えればこの程度の痛みで済んで良かったと心の底から思う。
 慌てて駆け寄ってきた養父が脇の下を押えて血を止め、ナイフを引き抜いた。足を振り上げる動きだけでここまで深く突き刺さるのだから、何か術でも施してあったのかもしれない。半ばまで血で汚れたナイフを目にし、雪男は他人事のようにそう思っていた。

「そこのクズに何塗ったか吐かせろ」

 ほかにも仕込んでるだろうから気をつけろよ、と部下に当たる修道士たちに指示を出しながらも、取り出した布できついほど患部を縛り止血を施す。その手際の良さはさすが聖騎士と感心するほどで、思わずすごいなぁと呟けば、「呑気すぎる」と怒られた。

「処置室、行くぞ」

 さすがにこういった怪我で通常の病院を受診することはできず、任務中に負った怪我は騎士團の本部あるいは各支部にある医務室で治療できるようになっている。ここから一番近い場所だと、正十字学園の中にある施設だろう。
 燐、お前は、と未だ雪男の腕の中にいる怯えた悪魔へ獅郎が声を掛けたところで、「あ、」と震えた声が彼の口から零れた。

「燐?」

 痛む肩を無視して身体を動かし少年を覗き込めば、零れ落ちるのではないかというほど大きく目を見開き、じんわりと血の滲む箇所を凝視している。血の色や匂いで何か嫌なことでも思い出したのかもしれない。
 そう危惧して燐には見えぬように身体の位置を変えたが、少し遅かったようだ。あ、あ、あ、と覚束ない声を零しながら燐はその大きな目に涙を浮かべる。

「やっ、や、だっ、血、やだ……っ」
「おい、燐、落ち着け」

 獅郎が手を伸ばして声を掛けるも、燐はいやいや、と首を横に振ってその手から逃れた。

「やぁだっ、血ぃ、だめっ! ゆきお、しぬっ!」

 雪男が死んでしまう、と声を上げて大泣きをするその姿は幼い子供そのものだ。顔を青ざめさせ、死んではだめだ、死ぬのはよくないことだ、と子供はそう言って泣く。

「しっ、しぬっ、ゆきお、しんじゃ……ッ」

 泣きわめく燐を前に、抱きしめないという選択肢が取れるはずもなかった。
 僕は大丈夫だから、と頭を撫でて笑みを見せても、その涙は止まらない。腕の中の身体は小刻みに震えており、「だっ、て、血っ、血がっ」としゃくりあげる。

「血、出る、みんな、しぬっ」

 みんな、しんだ! と叫ぶその「みんな」とは一体誰のことを指しているのか。

「つめ、たくなって、うごかな、い、しんで、つめたく、みんな、」

 燐の狂乱ぶりに抱きしめている雪男もまた顔を青ざめた。彼を傷つけたくなかっただけだが、だからといってこのように泣かせたいわけでは決してない。血を流すという行為、身体を傷つけるということが燐にどのように見えているのか、考えるべきだった。
 かけるべき言葉すら探せないままでいれば、「燐っ!」と獅郎が彼の肩を強く叩いた。痛みからか、あるいはその声の強さからか。涙で濡れた目が僅かに揺らぐのが見て取れる。

「大丈夫、そいつは俺の息子だぞ、その程度じゃ死なねぇ」

 そう言った養父が懐から取り出した鍵は、学園内へ繋がるそれだろう。燐を張り付けたまま処置室へ連れていかれ、開いていた傷口を縫い合わされた。その頃には雪男の意識はぼんやりと濁っており、この程度の怪我でどうして、と思っていれば、「仕込みナイフに毒が塗ってあんのは常識だあほう」と養父に罵られる。いくら燐を守るためとはいえ、己が身を盾にするのはやはり浅慮だったらしい。

「解毒剤は打ってある。今夜一晩は苦しいだろうが耐えろ」

 強く言われたその言葉の裏には、お前なら大丈夫だという信頼の色が含まれている。ベッドに横たわりこくりと頷けば、獅郎は表情を緩めて汗の浮かんだ額を撫でてくれた。

「燐、お前は、」

 養父が何かを言う前に、未だ涙の止まらぬ少年はふるふると首を横に振る。血の滲む箇所が隠れたせいか、言葉を聞くことができるまでには落ち着きを取り戻しているらしい。しかしその手はぎゅうと雪男の手を握ったままで、何を言われても離さないと身体中で表現していた。
 そんな燐の様子を見やって苦笑を浮かべた獅郎は言う。

「燐、雪男が元気になるようそこで見張っててやってくれな」

 ただそうやって手を握ってるだけでいいから、という言葉に、まつ毛に涙を乗せたままぱちぱちと瞬きをした燐は、握りこんだ雪男の手に視線を落とした後、顔を上げて頷いた。

「良い子だ」

 ふわりと笑んで燐の頭を撫で、何かあったらすぐに呼ぶように、と養父は病室を後にする。とりあえず今日一晩はここで過ごさなければならないことは確定なようだ。できれば修道院で休みたかったな、と思ったところで獅郎が許してくれるはずもない。ふぅ、とため息をつけば、それを聞きとめたのか、燐がきゅ、と手を握ってきた。

「ゆきお、ゆきお……」

 確認するかのように名前を繰り返され、「いるよ、ここに」と静かに返す。

「ゆきお、しんじゃう……」
「死なないよ、まだ生きてる」

 大丈夫、と握る手に力を込めた。

「……だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫」

 だからもう泣かないで、と燐を見やれば、だいじょうぶ、と呟いた彼の目からつぅ、と涙がまた零れ落ちた。

 手を繋いだまま眠っていたからだろうか、詳しい内容は思い出せなかったが懐かしい夢を見たような気がする。それはもしかしたら実際にあった過去の光景なのかもしれない。繋いだ手の温もり、これさえあれば生きていける、そう思うほどまでに大切なものであったはずだ。
 それをどうして忘れてしまったのか。
 どうして忘れたままで生きてこれたのか。
 むしろ、忘れてしまっていたからこそ。



   ***



 で、どうすんだそれ、と言われるも、どうしようねこれ、と途方に暮れる。
 あれ以来、燐が雪男から離れようとしない。獅郎の言った「見張ってろ」という言葉を忠実に守ろうと、手を離すことも嫌がる始末。

「……大体父さんが適当なこと言うからこうなったんじゃない」
「もとはといえばお前が怪我なんかすっからだろうが」

 心配掛けやがって、と怒られては雪男も返す言葉がなかった。





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2012.06.05