ブリリアント・ワールド 8


 ふわり、とまるで羽でも生えているかのように飛び上がった男は、そのまま窓の真正面、雪男と対峙する位置に着地した。同時にばちっという音と火花が散り、結界に阻まれたのだと知る。うぜぇ、と舌打ちをした彼は、大方二十代後半といったところか。思っていたよりも若いその姿を睨みつけて銃を構える。

「おい、悪魔、聞こえてんだろう?」

 その呼びかけは他の誰でもない、燐へ向けた言葉だった。

「お前、自分が悪魔だってこと、忘れてねぇよなぁ?」

 てめぇの居場所はここじゃねぇだろうが、と吐き捨てられた言葉に我慢ならなくなり、狙いを定めて引き金を引く。しかし一体どれほどの術を展開しているのか、その銃弾は男の身体にまでは届かなかった。
 戸惑うことなく額を狙った雪男に、「いい度胸だ」と男はにたりと笑う。

「だが、頭のできはよろしくねぇみたいだな。そんな悪魔を守るために戦うなんざ、愚行の極みだ」

 お前、そいつがどんな奴だか知ってんのか、と男は言葉を紡いだ。

「悪魔どもの総大将の息子さまだぜ、そいつぁ。その悪魔が同族殺しまくってる姿、見たことあるか? 絶景だぜ? 一匹たりとも逃すなっつってあるからなぁ、それこそ悪魔みてぇな面ぁして最後まで追いかける」

 全身血だらけにしてなぁ、とくつくつと笑いながら吐き出される音が理解できない。ひとが操る言語だとは思えない。これ以上聞くことなど耐えられず、詰めた弾が無くなるまで引き金を引くが、やはり男は血を滲ませる様子さえ見せなかった。

「そのくせ犬猫殺せばぼろぼろ泣きやがる。冷たい、動かない、つってなぁ。それが悪魔だって言えば平気で目玉を抉るくせに、頭の悪ぃガキだよ」

 悪魔の治癒力を確かめるために、と捕えた悪魔を串刺しにしろといえば顔色ひとつ変えずに遂行しただとか、大量発生した悪魔の中に放置して数日後様子を見に行けば血の中で眠っていただとか。
 どうしてそんなことを楽しそうに、誇らしげに口にすることができるのか。
 ぎり、と唇を噛んだ雪男を鼻で笑い、「そうそう、傑作なのが」と男は口の端をいやらしげに歪めた。

「淫魔の群れに放り込んでやったときだ。セックスなんつーもんを知らねぇガキにありゃちょっときつかったみたいでな、全部倒すのに一週間くらいはかかったか」

 まあちんこもケツも犯されてずいぶん気持ちよさそうではあったがなぁ、とにやにやと笑う男はおそらく燐とは異なる意味で壊れているのだろう。
 その言葉を止めたくて口へ、視線が腹立たしく目へ、頬へ、耳へ、喉へ、男を殺すために淡々と弾を撃ち込む雪男もまたどこかおかしいのかもしれない。今ならばどんな小さな的にさえ当てることができそうだ。怒りが限界を突破すると、人間は逆にひどく冷静になるのだと初めて知った。

「それもこれも全部大好きな弟に会うためだっつーんだから、泣かせる話だよなぁ?」

 おい悪魔、と男は部屋の中に向かって呼びかける。どうやら彼は雪男こそがその弟であるとは知らないらしい。燐を攫った当時の怪我で落命したと思われているのか、あるいは祓魔師になっているとは思ってもいないのか。

「お前、弟に会いたいんじゃなかったのか? だったらてめぇの居場所はここじゃねぇ、相応しい場所に俺が案内してやる」

 その言葉と同時にふわり、と背後で何かが動く気配がした。思わず振り返れば、虚ろな目をしたままの燐が、刀を抱きしめて立っている。

「燐!」

 ふらり、と歩を進め窓の外へ向かおうとする彼へ思わず抱きついた。

「行かなくていい、聞いちゃ駄目だ!」

 そう叫んで縋り付くも、少年は「ゆき、」と名前を呟いて外へ向かって手を伸ばす。

「ほら、そうだ、悪魔、愛しい『ゆき』とやらに会いてぇんだろう? そのために何したらいいか、教えてやっただろう」
「……悪魔、殺す」
「そう、良い子だ、だったらそんな部屋からさっさと出てこい、てめぇがさぼってる間にまた悪魔の数が増えやがった。弟に会いてぇなら全部殺せ」
「あくま、どこ……」
「燐っ!」

 お願いだから聞かないで、と雪男が燐の視界から男を隠すようにその頭を抱き込んだところで、「おやおや」とどこかのんびりしたような声があたりに響いた。

「この世でもっとも品のない演説ですねぇ」

 ぼふん、と白い煙が男の背後に立ち上り、その中から現れたものは日本の祓魔師たちを統括する立場にある支部長、メフィスト・フェレス。
 私の高貴な耳ではこれ以上耐えられませんよ、と悪魔がそう嘯き、ぱちん、と指を鳴らすと同時に男の顔色が変わった。

「あ、あ、う……」

 目を見開き呻き声を零す。その口からはどろり、と嫌な色の液体が溢れ出していた。

「そのような舌は現存すること自体が許せません、腐っておしまいなさい」

 この悪魔が騎士團においてそれなりの立場を有していることは知っていたが、どれほどの力があるのかはっきりと把握はしていない。力の気配を隠すことに長けているようで、相対するプレッシャーも感じないことの方が多いのだ。
 しかし今は違う、祓魔師たちの攻撃をものともしなかった男の結界をいとも簡単に破り、その身体へ攻撃を仕掛けている。確実に彼を敵と見定め、ただ殺すだけではない、弄り殺す方法を考えている、そんな気を発していた。

「あなたの視線も不快ですね、腐っておしまいなさい」

 ぱちん、ともう一度指を鳴らせば、今度はどろり、と両目から茶色の液体が零れ落ちた。

「ううううう」

 舌がないためまともな声は零せないようだ。しかし気を失うほどのものではなく、また命が絶えるほどのものでもない。意識を保ったまま身体の各所が腐り落ちてゆくというのはどんな感覚なのだろうか。

「う、う、あ、あ、」

 凄惨な光景を前に言葉もなくしたまま燐を抱きしめていれば、顔面を覆っていた男が呻きながらメフィストの方を向いた。その様子を見下ろし、「おや」と悪魔が片眉を上げる。

「舌が再生してますね。……あなた、」
 悪魔の血が流れてますね?

 メフィストの言葉に男が形を取り戻した舌でくそっ、と吐き捨てたのが耳に入った。
 さすがに魔神の血が入った人間は燐(と雪男)くらいしかいないが、悪魔と人間のハーフはいないわけではない。悪魔など滅びればいい、と吐き捨てる男にもまたその悪魔の血が入っていたらしい。

「そうなるとつまり、普通の人間よりは楽しめる、とそういうことですね」

 それはありがたい、次はどこを腐らせましょうか、と笑う悪魔の側に、ふわりと黒いコートを翻して着地してきた男がいた。周辺の悪魔や敵として武器を向けていた人間をようやく一掃できたのだろう、獅郎は肩に愛用の銃を担いでふぅ、と息を吐き出す。

「やるならこいつらの目の届かないとこでやってくれるか」

 情操教育に悪い、と呆れたように紡がれた言葉に、きょとんと目を丸くしたメフィストは、すぐにぶは、と吹き出した。

「情操教育! あなたの口からそんな言葉が出てくるなんて!」

 明日は棒つきキャンディーが降ってきますね、と腹を抱えて笑う悪魔に、苦虫を噛み潰したかのような渋い表情で獅郎がうるせぇよ、と言葉を返す。

「しかしまあ、確かにもうここに用はない。彼の始末は私に任せていただきましょう」

 ぱちん、と指を鳴らすと同時に現れたものは巨大な鳩時計だった。くるっぽー、となんとも緊張感のない鳩が文字盤を開いて飛び出てくる。

「いつ見ても酷ぇな、お前のそれは」
「この可愛さが分からないとは、あなたのセンスも知れてますね」

 そんな無駄口を叩く間にも巨大な鳩の嘴に襟首を摘ままれた男が宙へと浮き上がる。くそっ、ともう一度吐き捨てた男は、顔面を押えていた指の間から再生した目で雪男と、そして燐を睨みつけた。時計の中に広がる闇に引きずり込まれながら、「ふざけんじゃねぇっ!」と声を荒げる。

「そんだけ悪魔殺しまくって、犯されまくって、それでもまだ弟に会える気でいるとはな! ずいぶんめでてぇ頭の作りしてんじゃねぇか!」

 閉じようとする文字盤に手をかけて押え、男はあはははは、と笑い声を上げて言葉を続けた。

「なあ、おい、悪魔! てめぇ、自分の手ぇよく見てみろ、血で真っ赤じゃねぇか。そんなきたねぇ手で何を触るっつーんだ? そんなきたねぇ身体を誰が受け入れてくれるっつーんだ!?」
 弟だって泣いて嫌がるだろうよ!

 メフィストがぱちん、と指を鳴らせば、男によって止められていた文字盤がばたむ、と勢いよく閉じた。高らかに響いていた笑い声も同時にぴたり、と止む。

「……おい、メフィスト」

 眉間に皺を寄せ、聞いたことがないほどの低い声で養父が友であるという悪魔を呼んだ。

「存分にやれ、俺が許す」

 殺しても飽き足らない、という感情を誰かに抱くなど、正直さほど経験したいことではない。しかしそれでもあの男だけはどうしても許せない。可能ならばこの手で自らばらばらにしてやりたいほどに。
 獅郎の言葉に、「あなたに許される謂れはありませんね」と悪魔がくつりと笑って返した。

「第一、言われずともそうするつもりです」

 目元をゆるりと緩め、口端を歪めたその表情は笑顔であるように見えるだろう。しかし、きっと誰もがそれを前にすればすぐさま、そこになんら好意的な感情のないことが分かる。触れるより前に、手を伸ばした段階で指先から凍ってしまいそうなほど、冷たい表情だった。
 末の弟たちのことは頼みましたよ、と養父へ告げる悪魔の声を耳にしながら、雪男は腕の中の燐へと視線を移す。
 虚ろな表情のままぼんやりと彼が見下ろしているものは、その両手、であった。

『てめぇ、自分の手ぇよく見てみろ』

 男のセリフが頭の中で蘇り、「燐」と思わずその名を呼ぶ。
 ゆらり、と風に靡く草のような不安定な仕草で首を傾けた燐は、「おれ、」と小さな声で呟いた。

「おれ、きたない?」

 たくさん、悪魔を殺した。
 たくさん、血を浴びた。

「俺が、汚いから、だからゆきに会えない?」

 俺が悪魔、だから。
 ゆきに、会えない?

 紡がれる言葉を聞きたくなくて、雪男は燐の細い身体をぎゅうと抱きしめる。

「汚くない、燐は汚くないよ」

 たとえ悪魔であったとしても、魔神の炎がその身に宿っているのだとしても、こんなにも綺麗な存在を雪男は知らない。
 しかし震えた声で告げる言葉は少年には、届かない。

「俺、汚い、から、もう、ゆきに、会えないのか?」

 そんなことはない、大丈夫必ず会えるから。そう告げてあげることができたらどれほど良かっただろうか。けれど雪男は知っている、もう燐は彼の探す「ゆき」に会うことは叶わない。ここでその場限りの出まかせを口にしたところで、結局会えぬまま「ゆき」を探して泣き歩く日々を繰り返すことになるだろう。
 それが分かっているからこそ、雪男は何の言葉も発することができなかった。

「ゆき、に、あえない」

 彼の探す「ゆき」に会えない理由はそんなことではないというのに、それをどう説明すれば燐に分かってもらえるのか。どうすればこの少年の心を救うことができるのか。

「燐……っ」

 何もできない自分が悔しくて、情けなくて、唇を噛んで燐を抱きしめる。
 無力感に震える腕の中、静かに目を閉じた燐はゆっくりとした動作で上げた腕を雪男の背中へ回した。そっと触れるだけの体温を背に感じ、抱きしめる腕に力を込める。
 きゅう、とコートを握りこまれた感触。
 「ゆき」ではなく雪男の背へ縋ってくれている。その事実に壊れそうな音を立てて心が軋んだ。同時にふつり、と力の抜けた呟きが雪男の鼓膜を震わせる。

 もう、あえない。


 神父を養父に持ち、修道院で生活をし、祓魔師という職についてはいるが、雪男は根本的に神という存在を信じていない。もし仮にそのような存在があったとしても全知全能ではないだろう、と思っていた。
 けれど今この時だけは、信じてもいない存在にすべてを擲ってでも、縋りついて祈りを捧げたい。


 どうか。
 この哀れで愛しき悪魔に、幸あらんことを――。




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2012.06.05